私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

水攻めの為の堤作り

2010-07-13 09:58:47 | Weblog
 秀吉の袖に、高松城からの鉄砲が、2発あったたのかどうかは、兎も角として、水攻めの準備は確実に進められていました。
 その様子を常円は
 「堤を築く前に、秀吉は、まず、塀数数百間と井楼・櫓を夜中に作らせます。五十間に一つづつ櫓をあけて、その櫓には白土すら塗っていたのです。でも、実際は白土はあらず、白い紙を張った障子を立て懸けていたのです。遠くから見ると、その白い障子が白壁のように見えたと云うのです。出来上がった櫓から弓矢鉄砲を打ち続け、その白壁の後ろで堤防を築いていたのです。そんな有様であったから、その間、高松城に籠っていた城兵は一人も城の外には出ることはできませんでした。」

 と云うのです。
 実際、堤はどのように出来たか詳しいことは伝えられてはいませんが、この常円の語りから、初めは簡単な塀を作り、その陰で、上は六間、下は十二間の堤三里を、僅か、十二、三日で完成させます。

 ここに書かれているように、秀吉は語家来衆を七,八人連れて馬を走らせますが、これはもしかすると城中から鉄砲の届く範囲をご自分で確認するためのご乗馬ではなかったのでしょうか。また、この堤の長さも三里とありますが、これは一里の誤りで有ることは確かですす。
 太閤期等の記述とも、少々の違いがありますが、常円の話もまんざらの作り話でもないと思いますので、引き続いて、最後まで書いていきたいものだと思います。
 
 なお、作られた壁を白い壁と思わすために襖を使うなんて、いかにも秀吉好みの話のようにも思われますが。

常円の語る高松城の水攻めの風景

2010-07-12 10:17:18 | Weblog
 村瀬安兵衛に語り聞かせた常円の話です。

 「私は殿のお側に常にお仕えしていました。たとえば、馬廻りの馬場で馬馴らしの為ご乗馬なされる時にでも、お側にお仕えしておりましたので、殿の事はよく知っています。
 ここ備中に来て、先ず、攻められたのが高取の城攻めでした。この時は、ゆるゆると城を取り囲み、兵糧攻めにして城は落とされました。次が冠の城攻めです。この時には、前の高取のじろ攻めと異なり、一機に攻撃なされて攻め落とされましたが、我が軍の手負死人も大変多く出ました。しかし、この勢いを聞いて、河屋の城にいた毛利方の兵は城を捨てて退却してしまいます。

 さて、いよいよ高松城攻めです。まず、殿は備中備前の野山の上にご人数を備え付けられます。其山の上の陣を廻り、高松の城を一両日観察なさいます。そして、
 「高松の城は水攻めが然る可と見えけるにや。我只今馬を乗行べし。ついてまいれ」
 と、仰せられます。
 付き従う兵は7,8人にて門前よりカエルがはなまでお乗りになられます。
 この時、高松のお城より鉄砲打かけ、御羽織に玉二ヅで当ったのですが、少しも騒がず御乗通りになられました。
 

将に珍聞です。

2010-07-10 12:38:51 | Weblog
 「佐柿常円を知っているか」。将に珍聞です。誰だって、よほどその道に精通している専門の人でなかったら、そんな人知っている人がおりますものですか。そんな人を知っているとはさすが漢文氏です。

 貸して頂いたその本に書かれている内容をご紹介します。

 昨日、ご紹介した通り常円は秀吉の傍に仕えていた武将で、名は佐柿弥左衛門でしたが、何時の時にか出家して常円入道と名乗り岡山に住して百余歳の長寿を保った人です。

 この物語は高松城水攻めに関する幾つかの疑問を、村瀬と言う人が、当時岡山住んでいた常円に尋ねて書きとめたものです。

 その第一の挙げられているのが、
 「門前村からカエルがはなまで大方一里程の長さに堤を築いたのですが、その間、高松城から何もしないで、唯、単に易々と秀吉方の為すがまなに堤を築かせたのでしょうか。また、後方にいた毛利の大軍も、たかが二〇町足らずの所にいて見物していて、長い堤防切り崩すこともせずに、一戦も交えなかったと云う事も大いに不審なることだ」
 と、村瀬安兵衛は尋ねます。

 それを聞いた常円は
 「いかにも尤の不審に候。いでいで其時の事語聞せ可申候」
 と語り出します。「いで」とは、では早速、いざというくらいな意味です。

「佐柿常圓入道物語」

2010-07-09 17:57:19 | Weblog
 「佐柿常圓と云う人を知っとんか」と云う電話を頂きました。あの珍聞漢文氏からです。
 この人は大学の漢文の先生でした。その人からの問い合わせです。まさか日本人ではあるまいにと思って尋ね返します。すると、この先生、なんでもないように答えます。
 「なにゅう いよんなら、そげんな人の名前に、支那人はおりゃあせん。日本人にちげえねんじゃど。わしが漢文の先生じゃと云うて、日本人をひとつも知らんと思もよんか。ええ事をおせえてやるけえ ひまならこんか」
 と、云うのです。彼は自動車の免許状を返したので運転が出来ないのです。早速、尋ねました。すると、一冊の本を出して、この「佐姉常圓」について詳しく紹介してくれます。
 
 彼によると、この人は、例の高松城の水攻めの時に、秀吉のお側に仕えて、その一部始終を目の前にしたと云うのです。この戦いの後に彼は出家して、岡山に住んだそうです。それを聞き知った村瀬安兵衛と云う人が、高松城の水攻めについての不審を質し、直接聞いて、そのままに書き留めたものが『佐柿常円入道物語』であると云うのです。

 だから、この書物が高松城水攻めの真実の歴史であると云うのです。
 
 考えて見ると、人間と云うのは、どうして、こんなにも「そんなことがあったのか。面白いなあ」としか言いようのない歴史の隅っこにでも追いやられ簡単に捨てられてしまいそうな、決して表面には出ない実話を、いとも簡単に、名もなき人によって書き表わされるのだろうかと、驚くことが多いのです。常山紀談もそうですが。

 その本を見せていただき、書かれている内容のご高説を拝しました。それを、明日から又また、少々。

秀吉浮田を欺く

2010-07-08 12:09:48 | Weblog
 備前岡山藩浮田秀家は当時幼少であったため、家臣たちの中には光秀と心を通じた者がいて、密かに秀吉を岡山城内で殺害しようと企んでいたと云う情報が届いたいたから、岡山藩の者の裏をかいて、霍乱と称して、急いで播州宇根に駆け付けたのである。
 なお、霍乱とは、夏に起こる急な下痢などの腹痛いたの症状を言います。

 これが常山の調べた事実なのです。

 でも、太閤記にはそんな記事は出てはいません。
 「六月六日未の刻に、高松を引払いて沼の城まで帰陣有り・・・」と書かれているだけで、浮田の情報など何一つ書いてはいません。ただ、浮田の兵を高松に残したと、書いています。浮田氏が秀吉暗殺を計画して居たなどと云う事実はどこにも書かれてはいません。ここにある沼の城とは、現在、岡山市瀬戸町にあります。午の刻に宮内に着いたとも書いていますが。太閤記にある「六日の未の刻」が正しいとするなら宮内に「午の刻」と云うのも考えられないことです。だって、高松の城から宮内までは僅か半里ほどしか離れてはいません。時間にすると、三〇分もかからない処にある町です。
 だから、常山の話は、どうも、その根拠そのものが怪しいのではと、私は見ています。

高松城の水攻め後の秀吉と浮田秀家

2010-07-06 20:18:43 | Weblog
 毛利氏と和議を結んだ秀吉は、急遽、主君信長の恨みを晴らすべく京に引き返します。現在ですと、わずか1時間程度で岡山から京都にとって返すことはできますが、何せ天正年間の事です、少なく見積もっても、これだけの人数を引き連れての行程です。少なく見積っても2日間は必要です。

 その秀吉は考えます。備中高松から、一ったんは浮田秀家のいる岡山にて態勢を整備して京に上るのかよいと思うのです。
 しかし、当時、秀家は幼少としか出ていませんが歴史に照らし合わせて見ると、4、5歳の頃だったと思われます。

 常山は書いています。


 「・・・長臣老将の面々いかなる謀あるか料りがたければ、先ず使を岡山の城に遣りて一刻もとく馳せ上り、弔軍(とむらいいくさ)を志候岡山にて相謀べしと云わせられる。浮田もとより光秀の心を通じければ、秀吉帰路をふせぐべきやいかがせんという処にかく告来たれば、さらば城中にて討ち取るべし。願う処の幸なりとひそかに悦あふて其謀を相議しける。
 秀吉6月7日の明け方に高松より引き返し、午の刻ばかりに宮内に着きて、やがて岡山に赴くべしといいふらしけるが、俄に霍乱したりとてうち臥しければ、秀家の使来りたるに近習の者共出逢て、只今霍乱にて吐瀉せしが腹の痛み少しやみて寝入り候とあへしらひて時を移す。その間に秀吉は・・・・・・・。吉井川を渡り片上を過ぎ宇根に馳つたれば馬疲れたり。さて、使いを岡山にやりて急ぐ事の候てわき道を通りて過ぎ候ひぬといわせたしかば、浮田の人々皆あきれけるとぞ。

再び常山紀談

2010-07-05 08:06:52 | Weblog
 長い寄り道をしましたが、又、常山紀談に戻ります。
 
 高松城の水攻めに関して、前回は、信長が戦いが速やかに終わるのを嫌っていたので、わざわざ「水攻め作戦」を取ったと紹介しましたが、次には、又、今まで誰も書いてない裏側から見た歴史を書きとめています。

 それによると、これも、普通の「高松城水攻め」の歴史では語られていない戦術と言いますしょうか、戦略と言った方がいいのではと思われる様な事が、次のように書かれています。これも黒田官兵衛などの考えでなされた戦略ではないでしょうか。まさか、鼓山に陣取った財政の裏支えであった羽柴秀長から出たとは思われませんが。


 秀吉は備中に陣した時、毛利方と和平せん事を計り。密かに手だてを運らし、西国の米を価を高くして買いあさったのだそうです。その結果、米が高騰して、毛利の者の中にも、それとは知らずに、自分の持っている米を密かに売り、目先の利益に走った不心得者も現われ、結果、毛利方の兵糧米が随分と不足してしまいます。
 その時、信長が京都の本能寺で明智光秀に殺されると、秀吉は、清水宗治の切腹と引き換えにして、毛利家と和睦を取り結びます。
 折角、秀吉方と同じぐらいの人数を配して、東の秀吉軍と対峙して、足守川の西の福山や庚申山に陣していた毛利家が、秀吉方と一戦も交えずして、急遽、和睦を結んだのは、秀吉の米を高く買い取ると云う計略によって、この時の毛利方の兵糧米が、既に不足していて、これ以上戦える状態ではなかったと書いてあるのです。

 まさか、こんな事で、急遽、毛利が秀吉と和睦したとは思えないのですが、そんなことが書かれています。
 もし、これが本当なら秀吉の戦争術は、一般に言われている以上に大変興味深い事だと思われます。

 どうお思いでしょうか。
 

湯浅常山って

2010-07-04 12:50:44 | Weblog
 湯浅常山について、また、あの飯亭寶泥氏からメールが届きました。

 「おめえが、知ったかぶりをしてけえているのかどうかは分からんが、その常山って人、本当におめえが言うようにえれえ人なんか?そげんな人の名前なんて、わしゃあ、聞いたこともありゃあせん」

 と言うのです。なんでもよう知っている寶泥先生にしては、誠につれないメールです。どう説明していいか分かりません。何かいい常山さんの有名度を計るものがないかと探してみました。
 ご近所に住むご隠居様に話を伺います。
 「そうじゃのう。そう言う時は美術年鑑でも見たらどうじゃ」と、教えてもらいました。早速く、図書館に出向いて調べてみました。
 すると、この常山の書の値段が出ています、その値段は林羅山や山鹿素行と同額で、青木昆陽などより少し高い評価がしてありました。と言う事は、この常山の有名度は、羅山や素行等と同じ程度だと云う事になると思います。
 それは、又、常山はそれぐらい価値ある歴史的な人物と言う事になります。

 こんな人も、江戸の後期に出た吉備の文化人なのです。そう寶泥氏に報告しました。

 

7月です

2010-07-03 16:03:46 | Weblog
 昔は7月は、「文月」と呼ばれていました。では、どうして7月が「文」、そうです。文書とどんな関係があるのでしょうか。
 ものの本によりますと、昔、中国では、この月に、七夕の織姫に文書を供え、書をひもといたと言われます。その事から、この月を「文書(ふみ)ひろげ月」と言い、それが文月となったと云われています。
 こんな説に対して、あの加茂真淵は、「ふつき」は「ふみつき」で、これはふくみ月から出来たのだと言う。一寸、面白いと思いますから書いてみます
 彼によると5,6,7,8の月は、すべて稲の生長と関わりのある言葉からできているのだそうです
 7月も当然そうで、元々は「ふくみ月」と呼ばれていたのだそうです。稲が穂をふくむ月と言う意味なのだそうです。それが、「ふみつき」、さらに、「ふつき」となったと言うのです。
 ちなみに、5月は「小苗(さなえ)月」で〈さつき〉、6月は「稲作の生長にかかわる仕事はみなしつくした月」で〈みなつき〉、8月は「稲の穂の張る月」で〈はつき〉と言う月の名が生まれたのだそうです。

 又、この7月は、「穂見月(ほみつき)」から「文月」となったのだと云う人もいるようです。

 なお、日本の神話時代の一部にはいると思いますが、あの「神武天皇」の頃には、わが国葦豊原水穂の国には、どうしてかわ分からないのですが、この7月「ふつき」はなく、一年は11カ月だったと云う人もいますが?どうでしょうか。
 夏越の神事からとんでもない方向に向かってしまいましたが、明日からは、又、湯浅常山の「常山紀談」に返ります。

茅の輪

2010-07-02 11:44:15 | Weblog
 茅の輪くぐりすが、これはある時、牛頭天王が「蘇民将来」と言う人に
 「これから世の中に疫病が流行するだろう。その時は茅の輪を作って腰に着けておけ。するとその病から免れるだろう」
 と教えたのです。それが伝わって現在の茅の輪を越える神事となって残ったのだそうです。
 又、形代ですが、大祓の時、紙で作った人形に自分の災難を祓へて、水に流します。すると一年間、自分の災難を、この人形が身代わりになって引き受けてくれるのです。それを小川に流します。
 家隆の「ならの小川の夕暮れは」の歌は、此の風景を読んだものです。なお、「なら」ですが、奈良ではありません、京都の上賀茂神社の境内を流れる小川なのです。
 この吉備津神社でも、ならの小川にならって、誠に人工的な溝としか言いようのないような掘をつくっています。

 なお、この時に使われる「幣]は麻を切り取って作られるのだそうです。
 3種類の和歌をそれぞれ3回唱えて後、茅の輪ぐぐりを参加者全員で行うのですが、その一回目に唱える歌は
   思う事 皆つきねとて 麻の葉を きりにきりても 祓ひつるかな
 これは和泉式部の歌です。

夏越の祓

2010-07-01 10:43:46 | Weblog
 昨日は六月尽でした。夏越の大祓(本来は陰暦の六月三〇日)が吉備津神社でも執り行われました。今年も私も参列させていただきました。
 
 毎年ですが、今年も、また、大勢の参拝者が祓ひを受けていました。遠くは倉敷市連島のお方の姿も見られました。毎年、県下各地からの参詣者で賑わっています。これは吉備津神社のあまり派手ではないのですが、静かな隠れた大切な年中行事の一つになっています。かえって地元より、他の地区からの参詣の方が多い神事なのです。
   
  

 形代流し、参加者全員による御祓の祝詞奏上、茅の輪くぐり、玉串奉奠等の神事を行います。

 これ等の神事には、もう大方は忘れ去られてしまっているのですが、その一つ一つに各々深い意味があるのです。

 又、例の「山井四季之詞」より抜き出してみました。

 この本によりますと、天皇の行事(有職故実)としての大祓の儀式は、今は行っているのかどうかは分からないのですが「節折(よおり)」と言うのがあったそうです。婦竹を天皇の背丈、肩から足先までなど九か所を計り、九本の竹を切り取り宮主が祭壇にささげて御祓をするのだそうです。この時、その竹に天皇が御気吹きかけられた後にお祓いを行うのだそうです。

 一般に行われているのが「大祓(おおはらえ)」です。夏ばらえ、夕ばらえ、なごしの祓、あらにこならえなどと呼ばれています。「夕ばらえ」の名が示す通り、この神事は夕べに執り行われるのが普通です。


 全国の神様を祭っている所では、天下万民の犯した罪穢を払い除かんために神に祈る大切な神事なのです。
 このお祓いの起源は、例のイザナギノミコト(伊弉諾命)が、筑紫の日向之橘ノ小門之檍原(ヒムカノタチバナノオドノアワギハラ)に黄泉国(よもつくに)の穢を祓った事に基づいています。
 
 この祓と言う神事は、人々が過去に犯した諸々の罪と穢れと歪みと災いと厄難とを除くために行われる日本民族独特の固有な信仰です。禊祓(みそぎばらい)とも言います。
 この祓いは「洗い」に通じますから、その災いを「水に流し」て、生まれたといのようなきれいな身にしてもらうためにお祓いを受けるのです。型代を水に流すのも、その考えが元になっているようです。
 
 この頃は「そんなのあるもんか。迷信だ」と、神様を信じようとしない傾向があります。学校でも「信教の自由の侵害だ」と、云う事で、そんなものは「くわばらくわばら」と避けて通るのが普通になっていますが、そこら辺りにも学校が荒れる一つの原因になってはいないでしょうか。
 こんな大祓など神事に積極的に参加させて、そこで、その意味を教え、また、自分の穢れを考えさせたり、反省させたりする機会を与えてやらないと、子供たちは、何時、自分を反省することが出来るでしょうか。家庭の役割かもしれませんが。
 
 どうですか。時には、ご家族で、吉備津神社にお参りして、お守りを頂くののいいのですが、自分の身にまぶれ付いた穢れを、神殿に殿上して神の御前に首を垂れ、お祓いをしていただくのも、又、いいもんですよ。

 従2位家隆の和歌です。

       風そよぐ ならの小川の 夕暮れは
                    みそぎぞ夏の 知るしなりける

 蛇足:この歌も夕暮れです。なお、吉備津神社では午後4時から神事が始まりました。念のために。
 

  そう言えば、日本人は「みそぎ」なんかしなくなったものですね?????