私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

加藤清正の冠山城の戦い

2010-07-27 07:27:08 | Weblog
 秀吉が初めて備前と備中の境で毛利氏と対峙したのは天正十年四月初旬でした。まず、毛利の出城「宮地山城」を攻め落としています。次に、攻めたのが「冠山城」なのです。ここも、前の宮地山の攻撃と同じように備前藩の兵力に命じます。ただ、この戦いの参謀として秀吉はあの加藤虎之助清正を派遣して、相談役の任務につかせるのです。その辺りの人物の配置にまで配慮を巡らすことが出来た秀吉の武将としての大きさが伺われます。
 
 その時の戦いの様子を少々説明します。

 此の山城には毛利の武将林三郎左衛門や鳥越左兵衛などを中心として、二千の兵士によって守られていました。
 この城も、主力になって攻め込んでいったのが備前藩の兵士でした。毛利方の城中に立てこもっていた兵力は小勢でしたが、少しもひるまず弓鉄砲を頻りに打ち掛け防戦しきりです。この戦いで、備前の兵は腰ぬけだと云う評判になりますが、それが後の吉川元長をして「浮田勢はもとより表裏第一の弱兵なれば」と言わしめた基になるのです。
 此の冠城は、その位置や地形等、総てを見て判断すると、性急に何ら戦術ものたずにやたらとただ攻めるだけでは、決して簡単に落ちるような城ではない。此のまま戦いを進めさせれば、味方の兵力ばかりを消耗させる結果になり、作戦を変更して、改めて、戦いを仕切り直しする要があると思ったのが、あの加藤清正なのです。
 その為にはひとまず、味方の兵を退却させて、軍の体勢を立て直し、新たな戦略を組み直して出直すべきだと思ったのです。
 思ったすぐ実行に移すのが清正の流儀なのです。さっと、間髪をいれずに、そこらにいた味方の兵を総て一度にさっと風の如くに冠山から引き下がったのです。之を見た林、鳥越などの冠山城に陣取って戦っていた毛利方の武将達は
 「これには何は深いわけがありそうだ。敵の何かのわながあるに違いない」と思い、敢て、敵の退却を深追いしなかったのです。

 ところが、その秀吉勢の退却の途中で、毛利の軍にいた黒崎団右衛門と云う人物が、冠城に火をつけたのです。要するに、毛利家の内なる反乱です。謀反なのです。折しも、その時、風雨が強く、たちまちのうち、城は猛煙を雲中にたちのぼらせます。
 ではどうして、毛利方の団右衛門が、味方を裏切って城に火をつけたのでしょうか?そこらについては、例の如く、少々長くなりませいたので、また、明日にでも。