私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

興防の合戦宜しく候べし

2010-07-26 20:53:55 | Weblog
 この元長の進言に、毛利方は、明日激しい一戦をなし敵味方の目を驚かさんと内評定一決したのです。そうです。衆議一決、そう決まったのです。この事実は、当然、いかに厳しい秀吉方の隠密衆の活躍があったとしても、秀吉方には伝わるわけがありません。
 是がこの戦いを左右する一番のポイントとなったのです。

 もし戦いが、このままに、この地で繰り広げたならば、いかなる戦いになったかは想像すらできないような、悲惨で悲喜こもごもな状況になっていたのは疑いありません。秀吉の運命もいかなる結果になったいたかもしれません。それくらいな日本の歴史を、この戦いを除けては語られない事実が生まれていたことは確かです。何せ12萬の直接の兵士の激突なのです。
 関ヶ原の戦いは、周りにいた多くの武将はどっちつかずの、日和見的に傍観していた者も多く、実際に、この戦いに参加した武力は、多く見積もっても数万の軍勢だったと云われていますれています。16万人の兵力がお互いに直接的な総対決の決戦ではなかったのが歴史的事実なのです。

 よい事か悪いことかは分かりませんが、日本の歴史には、壇ノ浦の戦い以上の過去に例を見ないような一大決戦が、この高松を中心とした地で、繰り広げられていたことには間違いありません。
 何せ12萬の総兵力が直接ぶつかるのです。毛利家も、生死を分けた決戦になることを覚悟にした必死の決意の元に、この戦いに臨もうとする態度がありありと読みとれます。それまでに飲まされた秀吉方の煮え湯に歯ぎしりしていた毛利家の武将は多かったと思います。その代表が若い吉川元春の嫡子治部小輔元長だったのです。此のまま秀吉の一方的な戦術に陥ってしまったなら、毛利家の敗北は目を見るより明らかです。どうしようもない戦国武将として恥辱的な敗北は目を見るより明らかです。そんな鬱憤が、毛利家の兵士全体にたまっていたのですだ。当時の毛利家は日本の雄藩なのです。だからこそ、この若い元長の意見に、そこに参列していた多くの武将が、直ちに、賛同したのです。

 でも、「明朝は決行する」ことが、毛利家の吉川元春等の主だった者たちによる評定で、衆議一決したのも関わらず、実際には、この戦いは日本の歴史書には書かれてもいませんと云うよりも、行われなったのです。不思議なことですが、それが歴史的事実なのです。
 どうして????????????????。どう思われますか