備前岡山藩浮田秀家は当時幼少であったため、家臣たちの中には光秀と心を通じた者がいて、密かに秀吉を岡山城内で殺害しようと企んでいたと云う情報が届いたいたから、岡山藩の者の裏をかいて、霍乱と称して、急いで播州宇根に駆け付けたのである。
なお、霍乱とは、夏に起こる急な下痢などの腹痛いたの症状を言います。
これが常山の調べた事実なのです。
でも、太閤記にはそんな記事は出てはいません。
「六月六日未の刻に、高松を引払いて沼の城まで帰陣有り・・・」と書かれているだけで、浮田の情報など何一つ書いてはいません。ただ、浮田の兵を高松に残したと、書いています。浮田氏が秀吉暗殺を計画して居たなどと云う事実はどこにも書かれてはいません。ここにある沼の城とは、現在、岡山市瀬戸町にあります。午の刻に宮内に着いたとも書いていますが。太閤記にある「六日の未の刻」が正しいとするなら宮内に「午の刻」と云うのも考えられないことです。だって、高松の城から宮内までは僅か半里ほどしか離れてはいません。時間にすると、三〇分もかからない処にある町です。
だから、常山の話は、どうも、その根拠そのものが怪しいのではと、私は見ています。
なお、霍乱とは、夏に起こる急な下痢などの腹痛いたの症状を言います。
これが常山の調べた事実なのです。
でも、太閤記にはそんな記事は出てはいません。
「六月六日未の刻に、高松を引払いて沼の城まで帰陣有り・・・」と書かれているだけで、浮田の情報など何一つ書いてはいません。ただ、浮田の兵を高松に残したと、書いています。浮田氏が秀吉暗殺を計画して居たなどと云う事実はどこにも書かれてはいません。ここにある沼の城とは、現在、岡山市瀬戸町にあります。午の刻に宮内に着いたとも書いていますが。太閤記にある「六日の未の刻」が正しいとするなら宮内に「午の刻」と云うのも考えられないことです。だって、高松の城から宮内までは僅か半里ほどしか離れてはいません。時間にすると、三〇分もかからない処にある町です。
だから、常山の話は、どうも、その根拠そのものが怪しいのではと、私は見ています。