私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

ここにも吉備が ③

2008-11-12 09:30:33 | Weblog
 中門から見た大仏殿のまたちょっと違った美しさを眺めて、まだ少し時間が残されていたので、東大寺の鐘楼まで早足に登ってみました。何度見てもその荘厳さとどっしりとした美しさに驚かされます。ちょうどその時小さなお子さんがお母さんと一緒にお参りしたのか登ってきました。鐘楼と小さな子供の対象が面白くシャッターを切りました。
           

 しばらく堂内でその美しさに見とれていたのですが、バスの時間が差し迫ったので鐘楼を出ようとしました。何と云う気もなく今日に限って出口にあるこの鐘楼の案内板に目をやります。何度もここまでは来たのですが、そんな案内板などは今までは一度も目にしなかったのです。それが、今日に限って、急いでいたということと関係があるのかどうかは知りませんが目につきます。特に、その案内板に書かれている「栄西」という字が飛び込んできました。
 ここにも吉備が顔をのぞかせていました。
 そうです。吉備津神社の宮司の家に生まれ、重源の後を継いで、2代目の東大寺大勧進を務め、お茶を伝えたあの栄西さんなのです。
   

 この鐘楼は栄西禅師が建立した和様唐様野天竺様式の建物だと説明がしてありました。その説明を読んで、外に出てから、改めてもう一度この鐘楼を眺めてみました。そう言えば、吉備津神社の拝殿の造りとどことなく似ているのではと思われ、いままでついぞ感じたことのない不思議な感動に駆られました。
「栄西禅師が私を導いてくれたのかな」
 と、ありがたさを覚えながら、ここへの道に誘ってくれた今日の日に感謝しつつ、バスへ急ぎました。

ここにも吉備が②

2008-11-11 17:38:06 | Weblog
 南大門を後にして、奈良の午後をのんびりとと散策しました。
 東大寺の大仏を久しぶりに拝ませていただこうかなと思ったのですが、あいにくとバスの出発までの時間が15分程度しかありません。仕方ないので、中門からでも大仏さまをと思ったのですが、あまりにも遠くて堂内のお姿もよく見えませんでした。でも、ここから眺める大仏殿はまた違った美しさを見せてくれました
 何度見ても素晴らしい日本の誇る世界遺産に登録されている荘厳な木造建造物です。案内板によると、何と高さは49mもあるのだそうです。秋の空に高く聳え立つ鴟尾が日の光に輝いて、その美しさをより一層引き立てていました。
     
 
 なお、蛇足になりますが、この大仏殿は2回も戦火により灰になっています。今の建物は、重源や栄西が再建した大仏殿ではなく、江戸期の物です。奈良のものより3分の2の大きさなのだそうです。
 この中門から見る大仏殿もなかなか洒落たまた一風変わった風情を感じさせてくれました。

ここにも吉備が①ー南大門の野屋根

2008-11-10 19:56:37 | Weblog
 今日、私は、シモデンの「第60回 正倉院展」の見学ツアーで、奈良に行ってきましたました。今までに回数にすると20回はくだらないと思いますが、この正倉院展には参加しています。 
 今日限りだということもあって、沢山の見物のお人で、見るにも一苦労でしたが、一通り端から端まで、約2時間ばかり見学させていただきました。
 バスの出発まで少々時間がありましたので、久しぶりに奈良公園内を鹿にぶつかりそうになりながらぶらぶらと散策もしてみました。
 まず、この写真を見てください。
  ちょっとぼやけています(私の手が悪いのです)が、吉備津神社拝殿の野屋根ではないかと、お思いではないでしょうか。よく似ていますが、これは東大寺南大門の化粧垂木が見える野屋根です。天井は、勿論、ありません。
 この天井のない壮大な南大門の建築様式は「大仏様式」といって、初代東大寺再建のための「大勧進」を務めた重源が宋の国から持ち帰った鎌倉時代初めに流行していた建築様式なのです。
 当時、備前国から上がる租税を東大寺建設のための費用(造営料国)にするように定められたために、大勧進に任命された重源は、一時、備前一宮(吉備津彦神社の一角)に居を定めて住まっていたのです。
 その時、丁度、改築中であった吉備津神社にも、当時の最も新しい大仏様式を重源に教えられて取り入れたのではと言われています。それが拝殿の中の、天井のない野屋根なのです。
 重源の書いた書物にも「吉備津神社に仏像を寄進した」などと書かれているそうですから、吉備津神社の拝殿と重源とが何らかの関係があったことは確かなことです。
 だから、この写真だけをみると間違えるのです。
 しかし、実際にこの目で確かめると、その規模といい、格といい何もかにも大層な違いあり、比較の対象にもならないのです。これも上手には撮れてはないのですが一枚の写真をお見せします。ご笑覧ください。


    


吉備って知っている  42

2008-11-09 12:25:16 | Weblog
さて、その惣爪の石の釜にある巨石です。この石はかってこの辺りに建っていた大伽藍の大塔の中心柱の礎石なのです。ここは、奈良に都のあった時代には、吉備の津であった所なのです。そこに建立された大寺院(想像では摂津の港に建っていた四天王寺と規模的には同じぐらいのお寺ではないか?)がこの辺りにあった証拠となるものです。現在この辺りは「津寺」と呼ばれています。その地名のいわれにもなっている証拠の石なのです。
 この巨石の詳しく見てみますと、その中央少し東に偏ったところにお寺の塔の心柱の根が入るように円孔が穿ってあり、さらにその中にもう一つの小さな円孔が穿ってあります。測ってみますと、
    ・礎石の大きさ-約2mと1.6m
    ・大きな円孔 -約75cm
    ・小さな円孔 ー約15cm(佛舎利を入れる所)
もありました。
 
 この巨石を穿つ穴の大きさから考えられることは、この塔を支える心柱の直径が1m50cmぐらいで、ゆうに40~50mのを超える5重塔または3重塔が、当時、この地に聳えていて、港に入る中国などから来る外国船を含めて多くの船人に、“遠くへ来たもんだ”という感慨を与えていたのではないかと想像がつきます。

 今は、こんなん巨石が小さい田圃の畦道の側にポツンと置いてあります。誰かがどこからか持ってきたという話も聞きません。
 大きく聳えていただろう大寺の塔や大伽藍などは、「吉備の津」として多くの異国の人を含めた旅人の足音で喧騒を極めていただろう街並みと一緒に、いつしか消えて完全に無くなり去っています。今は、その面影すら当たりからはうかがうすべもありませんが、ただ、往時語る唯一個の巨石だけが、今もなお、そんな昔の面影を語りかけるように深まりゆく秋風の中に見え隠れしています。
 
 この巨石に穿かれている穴から、この石が「石の釜」と呼ばれ、いつしかそれがこのの字名にもなったということだけですが、今は、知る人も少なくなったと古老が淋しげに笑っていました。
 「むかしの光今いずこ」の感がしきりです。秋の風だけが稲刈りの済んだ田圃をわびしく嘯々と通り抜けていました。

吉備って知っている  41

2008-11-08 20:12:11 | Weblog
 惣爪塔跡ですが、この「惣爪」は「そうづめ」と読みます。板倉に接するです。
 可笑しな地名だとは思われませんか。
 この地名について、「岡山県通史」を書かれた永山卯三郎と言う人は、次のように説明されていますので紹介しておきます。
 
 この地域は古代、奈良時代頃までは、吉備の国を代表する港町だったそうです。吉備の津です。この辺りまで現在の瀬戸内海が入り込んでいたのです、吉備の穴海だったのです。朝鮮や中国からの移住民がこの辺りの各地に入り込んでいたのです。前にお話した葉田も辛川も向畑もそうです。そんな人々の智恵や技術が「造山古墳」を造ったのです。
 さて、そんな吉備の港町に、奈良時代になると仏教の影響を受けて寺院が建造されます。これも大陸の文化の影響です。当然、吉備の津でも大伽藍を備えた寺院が作られるのは必然のことです。それが「津寺」です。吉備にも摂津にも造られたのです。
 「津寺」と呼ばれる地名が残っているのです。そこらあたり一帯が「惣爪」なのです。範囲は旧備中国都宇郡河面郷惣爪です。
 「惣爪」は「僧都免」と読まれるのだそうです。「そうずめ」です。
 では「僧都」というのは何でしょう。恵心僧都とか横川僧都という言葉を聞いたことがあると思いますが、これは僧侶の位だそうです。僧侶で一番高い位が「僧正」で、次の位がのが「僧都」なのだそうです。
 この吉備の国の津にある寺の僧侶は僧都の位が付いていて、この寺に与えられた土地は租税が不要の免税田だったのです。そこから、その土地が僧都がいる租税が免除されているところという意味の「僧都免」すなわち「そうずめん」が「そうずめ」「惣爪」になったと、永山先生はいわれています。

 なお、「加茂」という言葉も、奈良時代には、正倉院文書などによると、「河面」郷という字が使われていたのだそうです。

 なお、今この惣爪には足守川が流れ、倉敷市と境をなしていますが、奈良以前の昔には遥か北によった場所(鼓山の麓)を足守川を取り込んだ湛井から流れ込んだ高梁川が通り、板倉川と呼ばれていたという。この板倉川は、この鼓山付近で2つに分かれ、一つは吉備の中山の西、庭瀬の川入付近へ、もう一つはさらに東へ流れ、備前一宮付近から海に入り込んでいたのだそうです。
 
 人の手の加わってない大昔の地形は、今では想像を絶するようなとんでもない地形を作っていたということがわかります。

 この永山先生が聞いた惣爪の古老土肥と言う人の話が出ていますが、惣爪塔跡の付近は江戸の終わりごろまでは土砂がうず高く積もった一面の畑地であったということでした。それが明治になってからその土砂を取り除いて、今みたいな美田にしたのだそうです。
 それを先生は、「蒼桑の変の然(しか)らしむる所にして」という文字を使って説明しておられます。

吉備って知っている  40

2008-11-07 17:15:38 | Weblog
 現在、足守川が岡山市と倉敷市の間を流れています。温羅の最期の地とされている「鯉喰い神社」も、やはりこの川の側にありますし、楯築弥生墳丘墓(3世紀弥生末期の日本最大の御墓)や吉備津神社の旧新宮も見ることができます。
 この楯築遺跡のあるが「西山」で、川を挟んで、その真東にある旧新宮のあるが「東山」です。西と東という地名からしても、この2つの遺跡は何が深い謎を秘めた、今では忘すられてしまっている摩訶不思議な関係がきっとあったに違いないと、楯築遺跡に並んでいる巨石の陰から手に取るように見える東山から想像されます。
 この東山にある旧新宮には、御友別命の父であった日本武尊と従兄の吉備武彦をお祭りしていたのです。しかし、現在では「新宮」という字を刻んだ石の鳥居しか残ってはいません。明治までは、この地にお祭りされていたと、付近の古老が話してくれました。
 その古老の話によりますと、明治の世になって、吉備津神社の規模が小さくなり維持できなくなったので、仕方なく本宮に合祀されてしまったのだそうです。その古老は、続けて次のようなことも、残念そうに話されていました。
 「元々、現在ある吉備津神社の回廊は、江戸の中ごろまでは、ここの新宮までずっと続いていたそうじゃが、どうしてだか分からんのじゃが、おしいことに、のうなってしもうたんじゃ」
 と。
 そんなお話を聞いて、帰りに吉備津神社の回廊に立ち寄りました。古老の言われるように、その一番南には小さい石の鳥居がいまでは誰も通らないのにぽつんと、残っております。古老の話もまんざら嘘ではないのではと思いながら、暮れなずむ西山あたりを見ながら家路に着きました。

 そんな足守川を挟んで、西山の楯築遺跡の真北辺りに、惣爪塔跡と呼ばれているなんとも不思議な石が露出しています。
 これについては明日にでも。

吉備って知っている  39

2008-11-06 12:25:18 | Weblog
 古墳について調べておりますと、どうしてそうなったのか理由がよくわからないものがたくさん出てきます。まあ、兎に角、5世紀前半までの吉備の国は、とてつもない、大和をも凌ぐ強大は力を持っていたことには違いありません。そんな一時、歴史には何も書かれていないのですが。吉備出身の天皇が現れたのではないかというのです。
 それを証明するものに、「吉備津神社」があります。

 平安朝の末頃、後白河上皇によって編集された「梁塵秘抄」という当時の今様の歌謡集があります。
 言わずもがなですが、、この梁塵秘抄には
 「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声きけば、我が  身さえこそ動がるれ」
 「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せて   ん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん」
 「仏はは常にいませども、現(うつつ)ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、  ほのかに夢に見え給ふ」
 などの流行歌が載せられています。
 その中の一つに、
 「一品(いっぽん) 聖霊(しょうりょう)吉備津宮、新宮、本宮、内宮(うち  のみや)、隼人崎(はやとさき)、北や南の神客人(かみまろうど)、丑寅み  さきは恐ろしや」
 と、云う歌謡が入っています。

 この[一品]、{いっぽん}とよみます。貴族に与えられた位が神社にも与えらた神階です。この一品を与えられた地方にある神社では宇佐八幡宮と吉備津宮だけなのです。
 なお、大宝令によると貴族に与えられた品(ほん)には一から四まであり親王に与えられたもので、臣下は品の下に位を与えられました、正一位、従一位などです。
 だから一品の神階を持った神社と言えば皇太子級の神社であって、吉備津彦命がいくら孝霊天皇の皇子であったからと言って、決して、一品の神階は授けられないのが普通です。もっと何か深い理由があったために一品になったのではと思います。天皇と直接つながった謎の人物をこの吉備津神社に想定せざるを得ないのです。

吉備って知っている  38

2008-11-05 14:11:13 | Weblog
 古墳にはあまり興味無い人もおられると思いますので、あと一つだけ取り上げて終わります。
 作山古墳です。大きさだけみると日本で9番目の大きさになります。全長286mの大きな古墳です。造られた時期は造山古墳より少し後の5世紀半ばごろだと思います。その同時期の巨大古墳、伝応神天皇陵に次ぐ第2位の古墳ですが。大きさにおいては、伝応神天皇陵の419mと比べるとずいぶん小さめな古墳です。それだけこの時代になると、造山古墳築造後、わずか20~30年後ですが、吉備の力が大和に比べて相対的に落ちてきていることがわかります。
 このように日本各地の古墳を比べてみると、書物にははっきりとは書かれてはないのですが、吉備が強い勢力を誇っていた時代は5世紀の初めまでではないかと考えられるのです。

 なお、吉備においては、この作山古墳以降は、100mを超すものは、旧山陽町の岡山で3番目の両宮山古墳(192m)と山手の宿寺山古墳(118m)のたった2基だけです。
 
 先日、両宮山古墳の傍を通りました。「稚姫の里」という看板が大きく立っていました。どれだけの人がこの看板に書かれている稚姫と、それに関わった「田狭」と「星川王子」らのを通して、吉備勢力の衰退と古墳規模の弱小化の関係を理解しているのだろうかと思いました。例え、それを知っていたからと言ってどういうこともないのですが。
 
 蛇足ですが、両宮山古墳が造られた時(5世紀半ば)には大和では、日本で一番大きな古墳、伝仁徳陵(486m)が築造されています。力の差は歴然です。古墳はこんなことまで教えてくれます。

吉備って知っている 37

2008-11-04 17:41:36 | Weblog
 名山、吉備の中山にも古墳があります。その一つが前方後円墳の中山茶臼山古墳です。現在は吉備津彦命の御陵として宮内庁が管理していて、禁足地となって立ち入ることはできませんが、吉備津神社の真上に位置しています。20~30cm程の葺き石が後円部の一部に木の間隠れに見える全長120mの山上古墳です。
 造られた当時は全面に葺石を施した威風堂々とした姿が山上に姿を見せ、吉備津に立ち寄る瀬戸内海を行き来する船からよく見え、吉備の王者としての貫禄を内外に誇示していたのではないかと思われます。大いなる吉備を世界に示していたと思われます。だからこそこのお山が尊い島、尊嶋、高嶋と呼ばれていたのではと思うのです。
 4世紀の初めごろと推定されていますが、造山古墳より100年も前に造られた古墳なのです。岡山市東部にある浦間茶臼山古墳(140m)と同じ時期に築かれた古墳です。
 今は宮内庁管理の墓地になっているために本格的な発掘などの調査はできないのですが、時代的に見ても歴史上の吉備津彦命とはあまり関係のない古墳ではとも思われるので、いつかはきっと科学的なメスが入って調査がされるだろうと期待しています。
 尚、このお山には、前方後円墳として、この他尾上車山(135m)、矢藤治山(25m)古墳もあります。いずれも、当時の瀬戸内海を航行する船からもよく見えた山上の古墳です。
 この古墳も時代的には中山茶臼山古墳と大体同じ頃にできたものではと思われています。4世紀の前半です。
 これらの3つの古墳はいずれも山の上に築かれています。沖積平野にある古墳のように周りにある土砂を掘り上げて作るわけにはいきません。築造にはどうしても花崗岩の固い岩を削る鉄製の道具が大量に必要です。現在一部に見える葺石は河原にある丸い石ころではありません。すべて人工が加わった四角い石ばかりです。ノミなどの鋭い鉄製の道具が必要です。その鉄製の道具を作る鉄が吉備にあったからこそたくさんの古墳を築くことができたのだと思います。
 造山古墳は環濠がありません。そこら辺り、何か吉備の鉄と深い関係がありそうですがはっきりとは分かっていません。この古墳の周りにも環濠があったのではという学者もいるそうですから。
 

吉備って知っている  36

2008-11-03 16:50:44 | Weblog
 吉備地方で一番古い古墳はと言いますと東山にある吉備武彦命を祭ってある新宮の真西にある西山の楯築墳丘墓です。また、それは日本で一番古い後期弥生式時代の二方向に突出した珍しい古墳でもあるのです。
 弥生時代の中ごろから吉備には、瀬戸内海を利用して、日本一の勢力を持っていた吉備王国があったと言われています。埋葬用の祭器である特殊器台を使っていた地域です。出雲にもこの祭器はありますが、吉備から伝わったものらしいのです。また、大和の箸塚古墳(卑弥呼の御墓ではないかと言われています)からも、この特殊器台が出土していますが、吉備との関係は今のところ不明ですが、もしかして卑弥呼は吉備出身の女王かもしれまあせん。
 そんな事を考えてみます、弥生の後期、3世紀末ごろにかけては、吉備というの国は今までの古代の歴史の常識を打ち破るような広範囲(大和から播磨、更に出雲筑紫までの広範囲に渡っている地域)を支配していたのではないかということも考えられるのではないでしょうか。

 今のところはその歴史的証拠は何も無いのですが、邪馬台国は吉備の王が支配していた国であったかもしれません。そんなロマンを掻き立てるの十分な国なのです。吉備の国は。景行天皇の妃が吉備出身の女性であったことなどからも十分考えられることだと思います。

吉備って知っている 35

2008-11-02 16:48:52 | Weblog
 兄媛の兄「御友別命」の御墓が造山古墳だという人もいるのだとご紹介しましたが、吉備という国を知るためにはどうしてもほっとけないものがこの古墳の話です。2~3回にわたって「吉備の古墳」についてお話したいと思います。

 まず、吉備の古墳と言えば、岡山の人なら誰でも頭に描き出されるのは「造山古墳」です。全長の長さは約360mもあり、全国的には第4位の巨大古墳です。
 しかし、造成期に限って言うと(5世紀初め)その規模は、伝履中天皇陵(河内の石津丘古墳)と同じで、当時は日本で一番大きな規模を誇る巨大古墳だったのです。

 念のために日本で一番大きな古墳は伝仁徳・応神陵(419・486m)で、造山よりも後の5世紀の中ごろの古墳です。

 ということは、大和の天皇と同じような一大勢力を保持していた王国がここ吉備にあったのです。
 仁徳天皇と兄媛の恋の物語の時期と一致すろ頃なのです。強大な王国だったのです。だからこそ、応神、仁徳天皇はわざわざ吉備の国に敬重のための訪問しているのです。歴史では、女性を追い求めたような形になっているのですが、本当のところは吉備への敬重なのです。
 それぐらい大きな王国だったからこそ、古墳も大和と同じかそれ以上の巨大なものを作ることができたのです。
 その規模からも想像できます。
 即ち、
 ・2万立方メートル以上と言われる土量を運ぶ労働力があった。
 ・土木作業を進めるための鉄製道具も整っていた。(材料も作る技術もあった)
 ・円筒埴輪、家形埴輪などの沢山も埴輪を作る専門的工人もいた。
 ・築造技術を持った専門家(特に渡来人)がいた。
 ・この古墳の上に置いてある石棺は九州産の石でできているということは各地と  の商業的交流があった。貿易による商業による富の蓄積があった

 この造山古墳から考えられる「吉備王国」というのは、われわれが漠然と想像する以上の大変な大きな大和と並び立つ古代王国だったのです。
  
 造山古墳がいかに大きな古墳かということは、同規模の河内の石津丘古墳の場合と比較してもわかります。
 石津丘古墳を調べた学者の報告によると、この古墳の規模は次の通りです。
 一人1日1立方㍍の土砂運んだとすると60万人以上、1日1000人としても1年8か月もかかるとしています。
 吉備王国がいかに巨大な勢力を保持していたかということが一目でわかります。
 そんな土地に私たちは住んでいるのです。

吉備って知っている 34

2008-11-01 18:40:35 | Weblog
 昨日から1泊2日で、中学校の同窓生18人で美作市にある「さくとう山の学校」を訪ねきました。廃校を利用した里山の自然を体感できる施設です。久しぶりに若き日の思い出を語り合い、旧交を存分に温めることができました。
 今日は、帰りに「天石門別(あまのいわとわけ)神社」にもお参りしました。
 お宮さんの案内板によると、ご神体は吉備津彦命が自ら祀った天岩戸の天手力男命だそうです。吉備津彦命と美作地方との関係を物語る大切なお宮さんであることがわかります。ということは、こんな美作の辺鄙なところにも吉備津彦命の影響を知ることができるのです。まだ、美作が吉備の一部であった頃のお話しです。
 
 なお、この天手力男命という神様は天照大神が天の岩戸に御隠れになった時その強力で岩戸をごじ開けた神様です。その神様が、なぜ、ここの神様のご神体になったのかは不明だそうですが、でも、天手力男命という神様は、滝や水の神様に関係がありそうです。調べてみると天の岩戸は別名「恵利原の水穴」と呼ばれているということです、水と大変なかかわりがあるのです。だからこそ、この神様のそばに「琴弾き滝」(雄滝と雌滝)があるのです。

 旅というものは、このように思いがけないところから、まったくの新しいお話をしることができるものです。
 旧友にはあんまり関係がなさそうですし、また、興味もなさそうなので、私の胸一つにして帰りのバスに乗り込みました。そして、ようやくあるかなしかに秋の色を見せ始めた木々の中に見え隠れするお宮さんを後にしました。