私の町 吉備津

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吉備って知っている  41

2008-11-08 20:12:11 | Weblog
 惣爪塔跡ですが、この「惣爪」は「そうづめ」と読みます。板倉に接するです。
 可笑しな地名だとは思われませんか。
 この地名について、「岡山県通史」を書かれた永山卯三郎と言う人は、次のように説明されていますので紹介しておきます。
 
 この地域は古代、奈良時代頃までは、吉備の国を代表する港町だったそうです。吉備の津です。この辺りまで現在の瀬戸内海が入り込んでいたのです、吉備の穴海だったのです。朝鮮や中国からの移住民がこの辺りの各地に入り込んでいたのです。前にお話した葉田も辛川も向畑もそうです。そんな人々の智恵や技術が「造山古墳」を造ったのです。
 さて、そんな吉備の港町に、奈良時代になると仏教の影響を受けて寺院が建造されます。これも大陸の文化の影響です。当然、吉備の津でも大伽藍を備えた寺院が作られるのは必然のことです。それが「津寺」です。吉備にも摂津にも造られたのです。
 「津寺」と呼ばれる地名が残っているのです。そこらあたり一帯が「惣爪」なのです。範囲は旧備中国都宇郡河面郷惣爪です。
 「惣爪」は「僧都免」と読まれるのだそうです。「そうずめ」です。
 では「僧都」というのは何でしょう。恵心僧都とか横川僧都という言葉を聞いたことがあると思いますが、これは僧侶の位だそうです。僧侶で一番高い位が「僧正」で、次の位がのが「僧都」なのだそうです。
 この吉備の国の津にある寺の僧侶は僧都の位が付いていて、この寺に与えられた土地は租税が不要の免税田だったのです。そこから、その土地が僧都がいる租税が免除されているところという意味の「僧都免」すなわち「そうずめん」が「そうずめ」「惣爪」になったと、永山先生はいわれています。

 なお、「加茂」という言葉も、奈良時代には、正倉院文書などによると、「河面」郷という字が使われていたのだそうです。

 なお、今この惣爪には足守川が流れ、倉敷市と境をなしていますが、奈良以前の昔には遥か北によった場所(鼓山の麓)を足守川を取り込んだ湛井から流れ込んだ高梁川が通り、板倉川と呼ばれていたという。この板倉川は、この鼓山付近で2つに分かれ、一つは吉備の中山の西、庭瀬の川入付近へ、もう一つはさらに東へ流れ、備前一宮付近から海に入り込んでいたのだそうです。
 
 人の手の加わってない大昔の地形は、今では想像を絶するようなとんでもない地形を作っていたということがわかります。

 この永山先生が聞いた惣爪の古老土肥と言う人の話が出ていますが、惣爪塔跡の付近は江戸の終わりごろまでは土砂がうず高く積もった一面の畑地であったということでした。それが明治になってからその土砂を取り除いて、今みたいな美田にしたのだそうです。
 それを先生は、「蒼桑の変の然(しか)らしむる所にして」という文字を使って説明しておられます。