私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている 35

2008-11-02 16:48:52 | Weblog
 兄媛の兄「御友別命」の御墓が造山古墳だという人もいるのだとご紹介しましたが、吉備という国を知るためにはどうしてもほっとけないものがこの古墳の話です。2~3回にわたって「吉備の古墳」についてお話したいと思います。

 まず、吉備の古墳と言えば、岡山の人なら誰でも頭に描き出されるのは「造山古墳」です。全長の長さは約360mもあり、全国的には第4位の巨大古墳です。
 しかし、造成期に限って言うと(5世紀初め)その規模は、伝履中天皇陵(河内の石津丘古墳)と同じで、当時は日本で一番大きな規模を誇る巨大古墳だったのです。

 念のために日本で一番大きな古墳は伝仁徳・応神陵(419・486m)で、造山よりも後の5世紀の中ごろの古墳です。

 ということは、大和の天皇と同じような一大勢力を保持していた王国がここ吉備にあったのです。
 仁徳天皇と兄媛の恋の物語の時期と一致すろ頃なのです。強大な王国だったのです。だからこそ、応神、仁徳天皇はわざわざ吉備の国に敬重のための訪問しているのです。歴史では、女性を追い求めたような形になっているのですが、本当のところは吉備への敬重なのです。
 それぐらい大きな王国だったからこそ、古墳も大和と同じかそれ以上の巨大なものを作ることができたのです。
 その規模からも想像できます。
 即ち、
 ・2万立方メートル以上と言われる土量を運ぶ労働力があった。
 ・土木作業を進めるための鉄製道具も整っていた。(材料も作る技術もあった)
 ・円筒埴輪、家形埴輪などの沢山も埴輪を作る専門的工人もいた。
 ・築造技術を持った専門家(特に渡来人)がいた。
 ・この古墳の上に置いてある石棺は九州産の石でできているということは各地と  の商業的交流があった。貿易による商業による富の蓄積があった

 この造山古墳から考えられる「吉備王国」というのは、われわれが漠然と想像する以上の大変な大きな大和と並び立つ古代王国だったのです。
  
 造山古墳がいかに大きな古墳かということは、同規模の河内の石津丘古墳の場合と比較してもわかります。
 石津丘古墳を調べた学者の報告によると、この古墳の規模は次の通りです。
 一人1日1立方㍍の土砂運んだとすると60万人以上、1日1000人としても1年8か月もかかるとしています。
 吉備王国がいかに巨大な勢力を保持していたかということが一目でわかります。
 そんな土地に私たちは住んでいるのです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿