私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  45   栄西③

2008-11-17 17:19:51 | Weblog
 栄西は、宋の国で、たまたま「重源」と会います。そして一緒に天台山に上って天台を学んで、9月には、一緒に日本に帰っています。
 栄西は日本に帰ってからもどうしてももう一度宋の国に渡って、さらにインドまで行こと思ったのですが、当時、栄西と親しかった平頼盛(清盛異母弟)がインド行きを強く反対したため宋に渡ることができなかったのです。その頼盛も平家滅亡ととも亡くなり、その期をとらえて、栄西は2度目の宋に渡ります。ここに於いても母方の田氏の経済的な支えがあったから行くことができたのだと思われます。
 宋からインドまでの旅を宋の役人に話すと
 「何しろ我が国の西域を、今は、夷狄が支配しているので、とてもインドまではいけない」
 という。鬱々とした日々を送っていると、船主が「日本に帰った方がいいのでは」と、しきりに勧め連れて帰ります。しかし、運悪く、宋の港から船に乗って3日後、嵐に遭い、再び、宋の国へに流され戻されます。
 この本には書いてはいないのですが、どうも、この時の船主と言うのは、備前一宮を本拠地にして活躍していた瀬戸の穴海の豪族「田氏」で、あらかじめ栄西とは熟知の顔見知りの人ではなかったかと思われます。
 田氏と言うのは当時活躍していた日本を代表するような相当な武力をも持っていた貿易海運業者ではなかったかと思えます。藤原成親を処刑した難波次郎経遠もこの田氏と何らかの係わりがあるのではと思われます。

 ちょっと横道にそれますが、栄西のインド行きを止めた平頼盛とこの成親とは随分と親しい関係であって、成親の罪を許すよう嘆願したとも言われています。清盛は、その弟との関係を、どうしてかはわからないのですが、一説によりますと、弟の頼盛が兄清盛に反旗を翻しそうなのを察知して、早急にこの二人の関係を解消する必要が生じてために、見せしめのために経遠に命じて、大納言成親を無残な殺し方で葬ったのではないかとも言われています。

 また元へ話を戻します。
 「これはきっと自分の仏教の勉学が至らんないため、波風がもっと、宋の国で、仏教の研鑽に励めと激励してくてたのに違いない」
 と、栄西は考え、「萬年寺」という寺で、禅の勉学に数年励み、帰国します。