私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  46   栄西④

2008-11-18 13:57:13 | Weblog
 栄西が初めて日本に中国からお茶の木を持ち帰り植え、お茶を広めたのは知っていたのですが、もうひとつ天台山にあった菩提樹の木も持ち帰って植えています。
 この菩提樹の木は如来道の霊木であり、仏舎利と一緒にインドから中国に伝えられたものです。日本にはこの木がそれまではなかったので、天台山にあったその菩提樹の1枝を採って、備前の田氏の商船に託して、九州の香椎宮に植えてもらったのです。
 「もしこの木が根付いたなら、自分がこれから日本に帰って布教しようと志す“禅”は広まるだろう。もし反対に、枯れたなら自分の吾道は興らないだろう」
 と、その効を験(ため)したのです。
 なお、栄西自身も日本に帰る時に、ここの菩提樹の一枝を持ち帰って、建仁寺の東北の隅にも植えたのです。この二か所に植えられた枝は両方とも根付いて、その後、繁茂成長します。
 栄西はその後、重源の後を継いで、二代目の東大寺の大勧進の職に就いております。また、関東へも下り、将軍源実朝にも会い問答をしたと言い伝えられています。
 その後京に帰った栄西は、
 「自分は今年の秋七月五日に死ぬ」
 と、衆に告げます。
 その日、これを聞いた天皇は使いを遣わして「問わした」と書いてありますが、何をどう問わしたのかはわかりんせん。ただ、栄西は
 「もう私は死にます。己近」とのみ応えたそうです。
 そして、
 「姿は壮健で椅子に腰かけたまま一二時を回ったころ静かに逝く。七月五日、年は七五歳、知見広大なり」
 と、書いてあります。
 その死にざまの見事なことと言ったらありません。人はみなこのように死にたいものでね。老醜を曝すことなく、自らの死期を予見して、その時に座ったままで死ぬなんてと、あらためて栄西の素晴らしさがわかります。

 なお、この栄西に関する資料がこの吉備津に一つぐらいあってもよさそうなものですが、そんな噂もありません。藤井高尚先生でも集めることができなかったのかなとも思います。まあ、名前だけでもこの吉備津から出たのですよと後世の人もしっかりと覚えてほしいものだと思います。吉備津出身の大歴史的人物ですので。近所にある赤浜出身の雪舟もそこには何も残ってはいません。まして栄西はと、言えるのでしょうか。昔の人はそれほど自分の故郷に愛着を感じなかったのでしょうかね。
 もしかして、栄西に関する資料は、観応二年(1351年)の吉備津神社の大火災で、全部焼け失ったのかもしれません。重源の寄進した仏像もみ皆。
 現在に残ったのは、重源は教えた「大仏造り」の建築様式のみであったのかもしれません。
 形あるものは物は、何もかも、全てきれいさっぱりと消え、それとともに、人々の心からも完全に忘れ去られていまったのです。それが歴史かもしれませんが、何か虚しさだけが心の中に去来します。