私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  42

2008-11-09 12:25:16 | Weblog
さて、その惣爪の石の釜にある巨石です。この石はかってこの辺りに建っていた大伽藍の大塔の中心柱の礎石なのです。ここは、奈良に都のあった時代には、吉備の津であった所なのです。そこに建立された大寺院(想像では摂津の港に建っていた四天王寺と規模的には同じぐらいのお寺ではないか?)がこの辺りにあった証拠となるものです。現在この辺りは「津寺」と呼ばれています。その地名のいわれにもなっている証拠の石なのです。
 この巨石の詳しく見てみますと、その中央少し東に偏ったところにお寺の塔の心柱の根が入るように円孔が穿ってあり、さらにその中にもう一つの小さな円孔が穿ってあります。測ってみますと、
    ・礎石の大きさ-約2mと1.6m
    ・大きな円孔 -約75cm
    ・小さな円孔 ー約15cm(佛舎利を入れる所)
もありました。
 
 この巨石を穿つ穴の大きさから考えられることは、この塔を支える心柱の直径が1m50cmぐらいで、ゆうに40~50mのを超える5重塔または3重塔が、当時、この地に聳えていて、港に入る中国などから来る外国船を含めて多くの船人に、“遠くへ来たもんだ”という感慨を与えていたのではないかと想像がつきます。

 今は、こんなん巨石が小さい田圃の畦道の側にポツンと置いてあります。誰かがどこからか持ってきたという話も聞きません。
 大きく聳えていただろう大寺の塔や大伽藍などは、「吉備の津」として多くの異国の人を含めた旅人の足音で喧騒を極めていただろう街並みと一緒に、いつしか消えて完全に無くなり去っています。今は、その面影すら当たりからはうかがうすべもありませんが、ただ、往時語る唯一個の巨石だけが、今もなお、そんな昔の面影を語りかけるように深まりゆく秋風の中に見え隠れしています。
 
 この巨石に穿かれている穴から、この石が「石の釜」と呼ばれ、いつしかそれがこのの字名にもなったということだけですが、今は、知る人も少なくなったと古老が淋しげに笑っていました。
 「むかしの光今いずこ」の感がしきりです。秋の風だけが稲刈りの済んだ田圃をわびしく嘯々と通り抜けていました。


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