私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  53   細谷川を歩く ②

2008-11-27 12:34:00 | Weblog
 紅葉せぬ谷川の水はどうして秋を知るのだろうかと、鹿と谷川を扱き混ぜながら、私の秋を楽しみ楽しみして南細谷川を吉備津彦命の御陵まで上ります。
 「もうとっくに秋は来ていますよ」
 と、帰りに谷川の水に教えてやろうかなとも思ったのですが、あまりの上天気に誘われ、もう一本ある北細谷川のもみじは如何にと思い、その道の方を下りることにしました。藤原成親の墓跡に軽く頭を下げて、急峻な斜面に敷かれた九十九折りの山道をゆっくりと下ります。
 途中にある成親の高麗寺山門の礎石辺りの楓の紅葉は見事です。こちらの細谷川は向こうの細谷川とは違って日当たりがよく、沢山はないのですが数本ある楓の木々は今を千度と身を真っ赤な色で飾り立てて、自分の秋をしきりに奮い立たせています。その木々の赤に合わせるように、谷川の水も、「秋がきた お山は燃えて 真っ赤か」と、爽やかに水音を立て流れ落ちています。
 そんな水音に歩調を合わせるようにして谷川の道を下ります。福田海の墓地を通りすぎ、ようやく中山の山裾に辿り着きます。しばらく進むとこんもりと茂った木々の間から人目をはばかるように苔むした石碑が覗いています。この石碑には寂室と言う人の詩が彫りこまれていました

 この詩を作った「寂室」というお人は、足利時代に、真庭市(勝山)に生まれた、栄西より150年ほど後の名僧です。
 このお坊様も、また、、栄西と同じく、やはり宋の国に行って禅宗の勉強をして帰った人です。慈円がこっぴどく「名利も求めるくそぼうず」と罵った栄西と違って(しかし、永平寺の道元は栄西をものすごく尊敬していたと言われています。最も、道元は建仁寺で修行をした栄西の孫弟子に当たる人ですから、あたりまえだと言えばそれまでですが)この寂室は、名利を超越した誠に清貧な高僧だったといわれます。
 将軍足利義詮から鎌倉の建長寺に、また、後光厳天皇からは天竜寺に招かれたのですが、光源寺という近江の小さい寺で、平俗から離れて生涯黒衣の平僧として生涯を終えた人です。

 この寂室が、吉備の中山にある藤原成親の墓を訪ねた時に作った詩の石碑です。
   
 この石碑に書かれている詩は、藤井俊先生の著した「吉備津神社」によれば、次のように読むのだそうです

  「身は王事に亡じてただ名のみ存す  悲しみ看る荒墳の蘚痕を長ずるを
   千古中山春寂寞たり  巌花の香は幽魂を返すなるべし」
 
 今では、この道を行く誰もが詩が書かれた石碑にも、まして「寂室」という名前にも無関心で、秋風と同じように、無情にも、ただ、通り過ぎているだけです。
 せめて、その石碑にだけでもと、足を引き留めて立ち寄ってみました。短い秋の日が大分西に傾いて、夕暮れがそこはなとなく差し迫って見え隠れしています。いくら見渡しても、ここからは山の紅葉は見えません。わびしさだけが辺りを覆いつくすように広がっているだけでした。