私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  43   栄西

2008-11-13 20:05:13 | Weblog
 栄西禅師、そうです。日本に最初に禅宗「臨済宗」を伝えた人です。賀陽氏の人です。
 永治元年(1141年) 吉備津神社の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生しました。

 「元亨釈書」という本にその誕生の秘話が書かれています。
 
 母は田氏です。永治元年4月20日に懐妊して8か月で安産にて生まれます。
 「生み月に達しないで生まれた子はその父母に不幸を与える」
 と、人々が噂していました。栄西の母は、それを聞いて不安になり、3日も乳を与えないでいたそうです。それをある一人のお坊様が見て、栄西の父に伝えたのだそうです。
 「そうですか。生まれてから3日も乳を与えてないならば、もうとっくにその子は死んでしまっているだろう。かわいそうなことをしたな」
 と、父親貞遠はたいそう嘆いたと言う。
 「いえ。お子様は元気で生きておられます。不思議なことですが、3日も乳を一滴も飲まなくても元気なのです。何かこの子は、誰にもわからないような特別な力を天から授かって生まれてきたのではないかと思われます」
 と、そのお坊様は言われます。。
 それを聞いた父は、早速、そのことを母親に伝えて、それから以後はその子を大切に育みます。

 その栄西さんは八歳の時に、父と一緒に「俱舎論」という仏教の物の見方、即ち仏教の存在論を勉強したのだそうです。何が何だかちんぷんかんぷんの書物です。こんな本がわかるなんて大したもんだとただただ感心するばかりです。
 「聡明にして常に群児を邁く」
 と説明してありました。
 十四歳で比叡山で台教を学び、仁安3年(1165年)宋の国に渡り、そこで重源と会い、一緒に天台山に上ります。そして、その秋、重源と共に日本に帰ります。栄西は、その後再び、中国への仏教修行を思い立って渡っています。

 この2度もの中国へ渡航、それも自費で行っています。当時、自分で中国に渡るとなると大変な経費が必要だったのです。よくは分からないのですが、現在の金額にすると何千万円も必要だと計算した人もいます。大変な金額が必要であったことには違いありません。それも、2回も行くなんて普通の家では考えられないことなのです。しかも、栄西の弟「良祐」も、宋の国へ同時に留学しています。賀陽氏の家は相当な金持ちの家だあったことには違いありませんが、その母が田氏だということから、この田氏の相当の補助も当然あったと考えるのが普通ではないかと思われます。
 なお、この田氏は、当時の吉備の海(穴海)一帯を抑えていた強大な海の棟梁、というより海賊的な匂いのする海部の一族ではなかったのかと思われます。この母方田氏の援助を得て中国に渡ることができたのではと思えます。
 なお、田氏は吉備津彦神社の宮司の一族でもあったのです。

 吉備津神社の西南の隅にある坤(ひつじさる)御崎に祀っれている吉備海部直櫛振の後裔かもしれません。