私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  40

2008-11-07 17:15:38 | Weblog
 現在、足守川が岡山市と倉敷市の間を流れています。温羅の最期の地とされている「鯉喰い神社」も、やはりこの川の側にありますし、楯築弥生墳丘墓(3世紀弥生末期の日本最大の御墓)や吉備津神社の旧新宮も見ることができます。
 この楯築遺跡のあるが「西山」で、川を挟んで、その真東にある旧新宮のあるが「東山」です。西と東という地名からしても、この2つの遺跡は何が深い謎を秘めた、今では忘すられてしまっている摩訶不思議な関係がきっとあったに違いないと、楯築遺跡に並んでいる巨石の陰から手に取るように見える東山から想像されます。
 この東山にある旧新宮には、御友別命の父であった日本武尊と従兄の吉備武彦をお祭りしていたのです。しかし、現在では「新宮」という字を刻んだ石の鳥居しか残ってはいません。明治までは、この地にお祭りされていたと、付近の古老が話してくれました。
 その古老の話によりますと、明治の世になって、吉備津神社の規模が小さくなり維持できなくなったので、仕方なく本宮に合祀されてしまったのだそうです。その古老は、続けて次のようなことも、残念そうに話されていました。
 「元々、現在ある吉備津神社の回廊は、江戸の中ごろまでは、ここの新宮までずっと続いていたそうじゃが、どうしてだか分からんのじゃが、おしいことに、のうなってしもうたんじゃ」
 と。
 そんなお話を聞いて、帰りに吉備津神社の回廊に立ち寄りました。古老の言われるように、その一番南には小さい石の鳥居がいまでは誰も通らないのにぽつんと、残っております。古老の話もまんざら嘘ではないのではと思いながら、暮れなずむ西山あたりを見ながら家路に着きました。

 そんな足守川を挟んで、西山の楯築遺跡の真北辺りに、惣爪塔跡と呼ばれているなんとも不思議な石が露出しています。
 これについては明日にでも。