1~2回と思っていたのですが、ついいらないことをあれこれと詮索している間に回数が重なりましたが、今日で栄西については最終にします。
栄西が宋に渡るとき、その船の舳先に吉備津宮にあった恵比須宮の宮標を付けて行ったという話を吉備津の古老から聞いたことがありました。現在は新たにえびす宮が造られてお祭りもしていますが、どうして吉備津様と恵比須様が結びついているのかはわかりませんでした。
元禄年間に作られた吉備津神社絵地図にも「えびす」の字は見えません。その他吉備津神社の古い絵地図を見ても、それらしき建物も字もありません。かって聞いた古老からの話はうそなのかとも思っていました。
それが、今度、栄西の立てた建仁寺に関しての書物の中を見ていますと、やっとのことに、それらしきものを見つけ「こんなところにあった」と小躍りしました。
その本の中には
「吉備津神社には曽祖父薩摩守貞政が信仰していた蛭子社(えびすしゃ)があり、それを真似て栄西が建仁寺の中にも建てた」
「宋からの帰りに船が遭難しそうになった時、一緒に持って行った吉備津神社の恵比須像の御蔭で難を逃れた」
と、書かれています。
もうだいぶん前になりますが、私が聞いた古老からの話も、まんざらでたらめな作り話ではなかったのかと思いました。
900年もの前に語られた昔話がそのままの形で、何の変化もなしに人の口から口へと今日まで細々とですが伝わってきたということに、吉備津の人々のなにかしら栄西さんに対する強い思いがあったからこそだと思えます。単に同郷の人であるという以上の、何か誠に不思議な栄西さんに対する崇拝にも似た念があったからからではないでしょうか。
そんな話もいまだに残る吉備津の里です。
秋の夜長にお孫さんにでもどうですか。昔々のお話が心に沁みるいい時期でもありますので。
栄西が宋に渡るとき、その船の舳先に吉備津宮にあった恵比須宮の宮標を付けて行ったという話を吉備津の古老から聞いたことがありました。現在は新たにえびす宮が造られてお祭りもしていますが、どうして吉備津様と恵比須様が結びついているのかはわかりませんでした。
元禄年間に作られた吉備津神社絵地図にも「えびす」の字は見えません。その他吉備津神社の古い絵地図を見ても、それらしき建物も字もありません。かって聞いた古老からの話はうそなのかとも思っていました。
それが、今度、栄西の立てた建仁寺に関しての書物の中を見ていますと、やっとのことに、それらしきものを見つけ「こんなところにあった」と小躍りしました。
その本の中には
「吉備津神社には曽祖父薩摩守貞政が信仰していた蛭子社(えびすしゃ)があり、それを真似て栄西が建仁寺の中にも建てた」
「宋からの帰りに船が遭難しそうになった時、一緒に持って行った吉備津神社の恵比須像の御蔭で難を逃れた」
と、書かれています。
もうだいぶん前になりますが、私が聞いた古老からの話も、まんざらでたらめな作り話ではなかったのかと思いました。
900年もの前に語られた昔話がそのままの形で、何の変化もなしに人の口から口へと今日まで細々とですが伝わってきたということに、吉備津の人々のなにかしら栄西さんに対する強い思いがあったからこそだと思えます。単に同郷の人であるという以上の、何か誠に不思議な栄西さんに対する崇拝にも似た念があったからからではないでしょうか。
そんな話もいまだに残る吉備津の里です。
秋の夜長にお孫さんにでもどうですか。昔々のお話が心に沁みるいい時期でもありますので。