私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  55 細谷川を歩く③

2008-11-29 19:09:58 | Weblog
 「身を王事に亡じて ただ名のみ存す」の寂室の石碑のすぐ隣に、こちらも見てくれと、言わんばかりに空に大きく突っ立ている輝緑岩の石碑が目につきます。
 それには、
 「祈ること しるし有木の 山なれば 千とせの程の たのもしきかな」
 と、行書で書かれています。
 この歌は、後三条天皇の冶暦4年(1068年)の大嘗祭の主基方風俗歌として藤原経衡(つねひら)によって詠まれた備中風俗歌八首の中の一つです。(大嘗会和歌集・岡山県通史より)

 なお、大嘗祭というのは、天皇になった最初の年に行う新嘗祭のことです。この時、天皇が初めて神に奉る稲(新饌)を作る国を、京より東北と西南の二国からト定で選びます。東北に当たる国を悠紀(ゆき)、西南に当たる国を主基(すき)と呼んでいました。中世以降になると、悠紀は近江、主基は丹波・備中のいずれかと決められます。

 後三条天皇の冶暦4年の主基は備中国でした。この時、経衡によって詠まれた歌には日差山、鼓山、板倉橋、板倉の里、有木山などが取り上げられています。(岡山県通史)
 これらから考えてみるに、この時の主基は、もしかして、私の町吉備津辺りの何処かの田ではなかったのかと思われます。

 歴史を調べるってことは面白いことですね。
 
 ここでも吉備の国は、わが国でも特別な位置を占める国になっています。