山城国一揆
~平和と自治の郷土づくり~
綴喜ライオンズクラブ製作のDVD解説書より
東 義 久
はじめに
山城国一揆は、日本史のなかの有名な出来事、事件であるのにも関わらず、一揆ということから、反体制であり、暗い、という一般的な見方があるのも事実だろう。これは江戸時代の後半から明治にかけて権力者がつくりだしたイメージだと思われる。そのためか、これまでほかの歴史の事件に比べその露出度が少ないという不満を持っていた。
先聖後聖その揆を一にする、との孟子の言葉があるが、一揆とは本来は一味同心することである。
そんなこともふくめて、山城国一揆をがどんなものか、ここに記してみるのもいいのではないかと思ったのが、これを書くきっかけといえばきっかけだ。
最近、情報化社会ということで、都会も田舎もそう違わなくなった。距離感がなくなり便利になって、日本のどこにいても同じ、総てが平準化されていくような錯覚に誰もが囚われているのではないだろうか、という気がしたからでもある。
それはそれでいいことではあるのだろうが、たとえば歴史を紐解いてみれば、各々の地域には各々の歴史があるし、南山城にも当然それは存在する。
それらをもう一度確かめ、知ることで、自分たちの足下を見つめなおすことが出来ないか。平準化されていく故郷が、そこに住むものにとって誇りの感じられる掛け替えのない故郷になるのではないか………。
今回の話が、そのためのきっかけとなれば嬉しい。
これまで、山城国一揆研究は地道に続けられている。その熱意と努力には頭の下がる思いだ。が、正直なところそれらの成果は、歴史の門外漢にとっては難解であることも否めない。
そんな方たちがこのブログを見て、山城国一揆に興味を持ち、それぞれが研究を深めてもらえれば幸いである。このブログが山城国一揆の入門書としての役割を果たしてくれれば嬉しい限りだ。
山城国一揆とは
今から五百年ほど前、南山城で山城国一揆と呼ばれる事件が起きた。
一般に知られている一揆、すなわち徳政一揆や土一揆などと確実に違うのは、山城国一揆が単に徳政を要求し、幕府や朝廷、大名、寺社などに対し、農民などを主とする貸借関係の破棄を求め、また、土蔵を破り米や金銭を一時的に奪い去ることで由とした一揆などとは一線を画した一揆であったということだ。
それでは、山城国一揆とはなんなのか。山城国一揆はほかの一揆と違い、国人と呼ばれる侍の大将が主となり、農民や馬借、商人などの土民と呼ばれた南山城のひとたちが力を合わせて八年の間、自分たちの手で南山城を治めた。
つまり、山城国一揆はほかの土一揆などとは違い、一過性のものではなかった。それも山城国一揆を無血で勝利させたのである。
今から五百年以上も前といえば、物質的にも情報的にも、また、政治的にも、生活意識においても、現在とは比べものにならない時代であったろう。にも関わらず、それはなされたのである。
そんな山城国一揆が歴史のなかでどんな位置をしめ、どんな役割を果たしたのかを知ることは、意識するかしないかに関わらず、わたしたちが拠って立つものがなんであるのかを知るきっかけ、さらにはわたしたちの暮らしのルーツを探るヒントになるはずである。
山城国一揆前夜
山城国一揆は文明十七年(一四八五年)に一味同心が成立している。
そのころ南山城の住民は、たび重なる戦や重税に苦しみあえいでいた。
税だけを見ても、従来から領主に差し出す決まった年貢や、公事にかさねて関銭などを臨時に徴収されたり、他国から来た侍衆の集団はやたら関をつくるし、それだけではすまず大川(木津川)にも関をつくった。
さらには戦の費用を捻出しようと、村の一軒一軒に税をかけた。
もとはといえば、当時の将軍足利義政の跡目あらそいが、この世にこれほど無益なあらそいはなかったといわれる応仁の乱という内乱を生んだのが発端である。
これが京の都を焼土と化し、足利幕府の権威を地に落としめることになった。
政治は混乱し、各地の守護大名や管領たちの権勢力を駆り立てていた。
応仁の乱は一応の終息を見せたが、それはあくまで京の都でのこと。戦の舞台が南山城に移っただけの話だった。
南山城では、当時、山城国の守護であった畠山氏がこれも跡目あらそいから従兄同士の畠山政長と畠山義就の二派に分かれてあらそっていた。
南山城の農民をはじめとする人々は、日常と化した戦と重税と賦役にあえぎ、それはまさにこの世の地獄の様相を呈していた。
こんななかでも惣の村々に生きる人たちは、農業や商業に励み、神や仏を信仰して、共同で暮らしていた。
侍の大将である国人
中世の時代には、国人と呼ばれた侍衆の頭となっている武士がいた。普段は農業を経営しているが、戦になれば侍になる。そんな国人がいた。
そして、南山城にも三十六人衆と呼ばれる国人がいた。
なかでもよく知られているのが山城町の大里に今も残る環濠集落に住んだ国人狛山城守秀、通称狛秀である。
大里は、レモン型の村の周囲に環濠をめぐらせ、外敵から自分たちの生活と暮らしを護った。
村のなかにはその当時使われた郷井戸や狛秀の館があった辺りには、今も「狛どん」の井戸と呼ばれ親しまれている井戸も遺されている。また、西福寺には、戦国時代に入ってからの狛氏の当主であった狛秀綱の画像と位牌と墓石が遺されていて、国人の様子を想像することが出来る。
中央と中央のその中央、南山城
南山城は昔から豊穣な土地であった。
地理的にみても、都のある京と、荘園の領主である興福寺や東大寺があり宗教や文化の中心だった南都と呼ばれたかつての都、奈良との間にあった。
つまり、中央と中央のその中央にあったのが南山城だったのである。
なんといっても将軍のお膝元といってよかったし、木津川は豊かな作物を得るための恵みの水と運航を約束し、権力者にとっては大いに魅力のある地であった。
都の洛中、洛外とともに南山城を支配することは、すなわち中央を治めることにもつながっていたといっても決して過言ではなかった。おかしなものでその豊穣さと地理的な位置が、南山城を悲劇に巻き込んで行くことになるのである。
山城国一揆の成立
「おまえたちは食い扶持だけを残して、あとは仏さまがお食べになるのじゃ」
との興福寺をはじめとする寺側の言い分や、余所者の侍たちが大きな顔をし、この地を蹂躙し乱暴狼藉をつくした。
新しい関を乱立し、南山城に居着く軍資金とした。
これでは農民や馬借、商人など南山城の住人たちは生きては行けないとの危機感が蔓延するのである。そんな思い、すなわち住民の力が国人を押し上げ、ついに文明十七年(一四八五年)十二月十一日、
・両畠山軍を南山城にはいれない。
・荘園は興福寺などの元の領主に戻す。
・南山城には新しい関所を設けない。
・他国のものを代官としてはならない。
・税金や年貢はきちんと領主に納める。
と、いう神水集会で決めた掟法の項目に従い、畠山両軍に山城国からの撤退をせまるのである。
ここでいう神水集会とは、一味神水ともいい、同盟を結ぶ人々が神や仏の前に水を供え、自らの掟書や神や仏の名を挙げてそのもとに誓いをたてた起請文などをつくり、神前に供えてそれを焼き、その灰を神水に混ぜて酌み交わすことをいった。
約束に違反しないことを神仏の前で誓う。こうした儀式によって心を同じくすることを「一味同心」ともいい、神水を呑むということには、身の毛がよだつ思いがする絶対的ともいえる行為であった。
南山城を代表する三十六人衆はそんな一味神水をして掟法を定めた。こうして、国人や農民たちは起ち上がり畠山両軍に南山城から出て行くように仕向けるため、要求をつきつけたのである。
もしも要求を呑まなければ、どちらかの軍に加わるという威嚇と、そして、裏では礼銭を送ったりというしたたかさもまじえて、巧妙な交渉を繰り返した。
東西両軍も長引く戦に厭戦気分も重なっていたことも手伝い、両軍は到頭、南山城からの撤退を呑んだ。
山城国一揆の勝利、山城国一揆の成立である。
平等院での集会
国人たちは農民たちとともに国一揆の勝利に大いに酔ったことだろう。
長引く戦に苦しめられていた百姓たちの解放感と喜びは想像するに難くない。が、山城の国人や土民たちは東西両軍の南山城からの撤退で総て由としたのではなかった。
両畠山軍を撤退させた翌文明十八年(一四八六年)の二月十三日、宇治の平等院で国人の会合が開かれた。
平等院では、国掟法の不備を訂正したり、付け加えたり、惣国と呼ばれた国の運営の手続きや調整もした。会議を運営する月行事も選んだ。
国一揆の勝利で終わりではなく、これからの南山城をどんなふうに運営していくかなどを決めたのである。
その集会を平等院で行ったのはなぜだったのか。
この世で極楽浄土を見たければ、宇治の平等院を見よ、とまでいわせた場所で、これからの南山城の会議を持ったのは、ひょっとすれば国人や農民の思いの底に、自分たちの郷土である南山城を現世の浄土にしたいという願いがあったのかも知れない。
そしてもうひとつ、平等院のある宇治が南山城から宇治川を超えて、京を見すえる地であったことも見逃せない。
とにもかくにも自分たちの地域は自分たちで治めて行こうとする、今でいう地域の自治の試みだった。
それまで守護が持っていた権限を国、すなわち国人が持つという国持体制の確立である。
上山城(南山城)三郡の自治が始まった。
平和への歓喜
宇治の平等院での国人の会合が行われた文明十八年の春、山城と大和の国境の平野で能狂言の催しがあった。この興行は、焼失した中川寺の勧進興行として行われた。
役者は京の都からやって来た若い役者たちで、もとは素人の京町衆が能をたしなみ、職業的な一座を組織して芸能を始めるようになったといわれている。
興行は八銭出せば誰もが観ることが出来た。
それはきっと二十年ぶりの平和のなかで、人々の歓喜とエネルギーが満ち溢れた集いだったのだろう。
そして、そこには南山城の国人や農民たちも大勢参加し楽しんだことだろう。
自治国の運営
自治国といっても、山城国一揆は国持体制を運営して行くためにどんなことをしていたのだろう。
国を運営して行くには約束事が必要となってくる。
山城国一揆は、掟法をつくり惣国運営の基本とした。惣とは、中世の村落共同体のことであり、全体としての農民の組織である。信仰の拠りどころとして寺社と田畑などの共有財産を持ち、祭祀と山野、用水などの管理を行った。
これには村の指導層が中心となってあたり、対外的には、近隣の惣や領主の権力に対応した。
こういう自治的村落を惣村といい、荘園がそのまま惣を形成しているときは、惣荘とも呼ばれていた。
惣とは判りやすくいえば「みんな」と、いうことだろう。
山城惣国の運営や活動は国人の会合で議決し、月行事が執行していた。
国人の会議の議題の調整も月行事が行い、惣国の政治は、その下にある惣や惣荘と呼ばれる村々の組織があって行政を行った。
山城国一揆はそんなふうにして、決められたことを進めて行った。
半済といって、領主に納める年貢の半分を国一揆に出すことにし、(この措置は文明十八年の一年限りだった)東西両軍の撤退のための礼銭に充てたり、高(多賀)というところで油売りが殺人を犯したとき、本来は守護が行う権断を国一揆が執行した。
山城国一揆が自治の雛形といわれるのはこのあたりにある。
今から五百年以上も前に、人々はなにを範としてこれらのことを進めて行ったのか、と考えると、先人たちの先見性と叡智に驚きを禁じえない。
地域には地域の歴史がある
山城国一揆はつい最近まで日本史のなかに登場して来なかった。
一揆というと下剋上ということで、どうしても世に出にくかった。
興福寺の門跡である尋尊も「寺社雑事記」のなかで、山城国一揆のことを「下剋上の至り云々………」と、記している。
一九八五年の夏、山城国一揆五百周年記念講演で、黒川直則氏が「山城国一揆は三浦周行氏が発見し、鈴木良一氏によて体系化。中津川保一・敬朗父子が中心となり発刊された城南郷土史研究会の機関誌『やましろ』により大衆化された」と、述べている。
その通り、山城国一揆は一九一二年、奈良の興福寺の史資料のなかから発見され、第二次世界大戦中から研究が始まった。
一方、戦後の社会になるまで、南山城の人たちは山城国一揆の事件を知ることはなかった。
当時は草深い田舎に歴史などないというのが、一般の意識であった。そのため、郷土史家の中津川保一氏が始められた城南郷土史研究会の結成で漸く地元の人たちと山城国一揆との衝撃的な出合いが実現したのである。
村には村の、地域には地域の誇るべき歴史があるのだ、と………。
山城国一揆の解体
さて、話を山城国一揆に戻そう。
畠山両軍を南山城から撤退させた国一揆は、相楽、綴喜、久世の三郡、つまり宇治川以南の惣国を自分たちで運営して行った。
けれども国一揆の成立から八年の後、国持体制に揺らぎが出てくる。
国人はそれぞれが強い武士の家来となっており、多くは大和の古市氏との関係を強めていた。
そんなことや、また、ほかに政治的なことも作用し、国持体制にひびが入ることになったのである。
一方、将軍足利義政の政治に対する無関心と、日野富子の悪政などが重なり、そんななか、幕府のなかにあっての細川氏の権威を回復せんがための細川政元のクーデターが起きる。
細川政元が国一揆を利用していたともいわれ、細川氏の権威を回復した結果、政元は国一揆を見限ったともいわれている。
そんなもろもろのことが作用し、山城守護に伊勢貞陸の入部を認める動きが出てくるのである。
それはどいうことかといえば、南山城への幕府の介入を意味する。
国人たちは守護の命に従え、という幕府からの命に従うかどうかを決める会議をしたことであろう。
その結果、多くの国人たちはそれに従うべきだとの結論に達した。
南山城はとにもかくにもこれまで国一揆の国持体制で運営してきたのである。
そこに守護が入って来るということは、山城国一揆の崩壊、山城国の自治の終わり以外のなにものでもなかった。
稲屋妻城の最後の攻防
明応三年(一四九三年)九月、山城守護の入部にあくまでも反対する一部国人は、稲屋妻城(精華町)にこもり徹底抗戦することになる。
国一揆にとってみれば、最初から負け戦であることは判っていたであろう。
そこには、自分たちが創造した八年間に及ぶ南山城の自治というものに対する熱い思いがあったのだろうか、今となっては判らない。
が、彼らは戦った。
稲屋妻城があったとされる城山の麓にある北稲共同墓地には逆修の碑といわれる石碑が遺っている。これは、地元では稲屋妻城にこもった侍たちが、自分たちの死を覚悟し、先に墓を建立したのだという言い伝えとして今も語られている。
抗戦空しく、稲屋妻城は落城。
山城国一揆はここで終焉を迎える。
おわりに
これが山城国一揆の概略である。
地道に続けられている山城国一揆研究においては、その研究成果として、山城国一揆は自治と平和の戦いであったとしている。
八年という年月が長いのか短いのかは一概に断定できないが、少なくともこの八年は、時代を経れば経るほどにわたしたちの郷土の誇りとして一層輝きを増すことだけは確かなことであろう。
了。
付録
山城国一揆めぐり
山城国一揆が起きた中世の時代を自分の目で見、体感してもらうため、主な場所を掲げておく。
★大里環濠集落(山城町)
山城町の上狛通称「大里」の集落は、レモン型をし、周囲は堀で囲まれている。狛氏の居館があった大里は狛城として、外敵から村を護った。村と田畑を堀によって仕切り、堀の内には土塁を築き、竹やぶや雑木林を連ね、そのなかに家々があった。堀はその後、現在に至るまで、農業用水路や悪水落とし堀として利用されてきた。
★狛どんの大井戸(山城町)
大里環濠集落の角垣外郷の東南端にある。この井戸は「狛どんの井戸」と伝えられてきたが、「戌亥の井戸」といわれることから、この村の頭であった狛氏の居館の北西端に位置していたと推定されている。
★西福寺(山城町)
大里環濠集落にあるこの寺には、戦国時代に入ってからの狛氏の当主であった狛秀綱の画像と位牌と墓石がある。
★平等院(宇治市)
宇治市にある元天台・浄土系の寺。藤原頼 通が寺とした。本堂の阿弥陀堂は、近世になって鳳凰堂と呼ばれた。「この世で浄土を見たくば宇治の平等院を見よ」と、いわれたほど重々しく華やかで美しいこの寺で、文明十八年(一四八六年)に国人の会議が開かれた。
★岡田国神社(木津町)
里山のふところに抱かれて、西から東へ一直線に伸びる松林の参道の奥に整然と鎮座していたこの神社は、近年、東の森の中腹へ新たに造営されたが、古い社殿は昔のまま保存されることになった。もともとの社殿は山の一段高いところに神殿を設け、その下の広場には能舞台を置き、能や狂言が鑑賞しやすいようになっていて、中世の劇場といえる。社は南山城の村々の惣社の姿をよく遺している貴重な例となっている。
★高神社(井手町)
高神社には鎌倉時代以来の四百点もの古文書が伝えられていて、長い坂道を登った東の里山のひとつの峰にある。木津川へ注ぐ南谷川には川の奥に龍神を祀っている。いつのころからか、村人たちは干ばつのときの雨乞いには、先ず龍神に祈り、一人ひとり松明をかざして山へ登った。多賀で最も高いその山の名を万灯呂山というが、人々の掲げた松明の列が万灯籠のように映ったからだと伝えられている。多賀で油売りが殺人を犯したとき、国一揆は検断権を行使し、これを裁いている。
★田辺城(京田辺市)
京田辺市役所の西南にある丘陵の先端部、田辺奥ノ城の「田辺城跡」遺跡は細川勝元に仕えていた東軍方山城国人三十六人衆のひとりである田辺氏の居城との説もあり、また、寺であったとの説もある。
★酬恩庵(一休寺)(京田辺市)
応仁元年(一四六七年)、一休宗純が応仁の乱を避けて酬恩庵に入る。文明元年(一四六九年)には戦火が薪にせまり、一休宗純は加茂の瓶原へ、さらには奈良から住吉へと移る。文明十年(一四七八年)には住吉を出て酬恩庵へ戻るが応仁の乱中の文明十三年(一四八一年)十一月二十一日に一休宗純は入寂する。酬恩庵を訪ね、異端の僧、一休宗純が生きた乱世の時代を偲ぶのも一興である。
★草路城跡(京田辺市)
現草内小学校の前にあったとされる。文明十四年(一四八二年)畠山義就の軍勢が、狛氏などがこもっていた草路城を攻め落とし、数十人が切腹をしている。
★天神の森・棚倉彦神社(京田辺市)
文明二年(一四七〇年)七月、西軍方大内氏の軍勢が田辺城を攻め、寺院や民家を焼き払う。天神社だけが残った。明応三年(一四九三年)、山城国一揆が解体し、古市氏とその家来の井上九郎が南山城に入って来、もともと治めていた西軍の地を取り戻す。その時、天神の森と十六ノ宮(城陽市)を繋ぐ線の南側を治めることになる。これを南山城の住民は、どんな思いで見ていたのか、天神の森は知っているが語りはしない。
★泉橋寺
奈良時代の高僧行基が泉大橋を守るために建立した。ここには鎌倉時代の末期につくられた日本一の石地蔵がのこっている。もともとはお堂のなかに坐っておられたが、文明三年(一四七一年)四月二十一日、西軍方の大内氏の軍勢が木津を攻め、地蔵堂を焼き払い、地蔵も焼けただれ、両手と頭部は、江戸時代になって造り直された。応仁の乱の証人として、今も地蔵は露座のまま坐っている。
★水主城(城陽市)
この城は、国人水主氏の居城であったといわれており、その場所は、現在の水主北垣内辺りと考えられる。文明十七年(一四八五年)国人の代表三十六人は掟法に従い東西両軍に撤退を求めて行く。両軍対峙の最前線は、大川(木津川)東岸の水主(西軍)、富野、枇杷荘(東軍)の辺りであった。東西両軍が睨みあいを続ける最前線の緊張感に、国人や百姓はどんな思いで対応していたのか、水主の辺りに立って想像してみてはいかがだろうか。
★稲屋妻城(精華町)
明応二年(一四九三年)九月、あくまでも山城守護の入部に反対する国人は、稲屋妻城に立て籠もり徹底抗戦をすることになる。国一揆側にすれば最初から負け戦と判っていたであろう。それでも稲屋妻城にこもらなければならない思いがあったのだろう。抗戦むなしく稲屋妻城は落城。山城国一揆はここで終わりを迎える。山城国一揆終焉の地に立って、当時の国人や農民たち、南山城に生きた人々の願いや思いを、ぜひ一度味わって欲しい。国創りに懸けた熱い思いが伝わってくるかもしれない。
追記
山城国一揆の8年は、この南山城に平和と自治を試みる貴重な時間だった。
それを、この地の先人が行ったことを誇りに思うし、後世の人たちに伝えて行かなければならない。
えんえんと続いた応仁の乱は山城国一揆が成立したことで終わった、といわれている。守護同士の争いは結局、南山城の土民の力で治められたといってもよい。
戦乱の中で苦しみ、お互いの立場を出しながら、新しい地域社会をどう創るのかを試み、自治・民主主義・平和を考えた貴重なときであった。
今から五百年以上も前に、この地の祖先たちはすでに国創りの夢に燃えていたのだ。
~平和と自治の郷土づくり~
綴喜ライオンズクラブ製作のDVD解説書より
東 義 久
はじめに
山城国一揆は、日本史のなかの有名な出来事、事件であるのにも関わらず、一揆ということから、反体制であり、暗い、という一般的な見方があるのも事実だろう。これは江戸時代の後半から明治にかけて権力者がつくりだしたイメージだと思われる。そのためか、これまでほかの歴史の事件に比べその露出度が少ないという不満を持っていた。
先聖後聖その揆を一にする、との孟子の言葉があるが、一揆とは本来は一味同心することである。
そんなこともふくめて、山城国一揆をがどんなものか、ここに記してみるのもいいのではないかと思ったのが、これを書くきっかけといえばきっかけだ。
最近、情報化社会ということで、都会も田舎もそう違わなくなった。距離感がなくなり便利になって、日本のどこにいても同じ、総てが平準化されていくような錯覚に誰もが囚われているのではないだろうか、という気がしたからでもある。
それはそれでいいことではあるのだろうが、たとえば歴史を紐解いてみれば、各々の地域には各々の歴史があるし、南山城にも当然それは存在する。
それらをもう一度確かめ、知ることで、自分たちの足下を見つめなおすことが出来ないか。平準化されていく故郷が、そこに住むものにとって誇りの感じられる掛け替えのない故郷になるのではないか………。
今回の話が、そのためのきっかけとなれば嬉しい。
これまで、山城国一揆研究は地道に続けられている。その熱意と努力には頭の下がる思いだ。が、正直なところそれらの成果は、歴史の門外漢にとっては難解であることも否めない。
そんな方たちがこのブログを見て、山城国一揆に興味を持ち、それぞれが研究を深めてもらえれば幸いである。このブログが山城国一揆の入門書としての役割を果たしてくれれば嬉しい限りだ。
山城国一揆とは
今から五百年ほど前、南山城で山城国一揆と呼ばれる事件が起きた。
一般に知られている一揆、すなわち徳政一揆や土一揆などと確実に違うのは、山城国一揆が単に徳政を要求し、幕府や朝廷、大名、寺社などに対し、農民などを主とする貸借関係の破棄を求め、また、土蔵を破り米や金銭を一時的に奪い去ることで由とした一揆などとは一線を画した一揆であったということだ。
それでは、山城国一揆とはなんなのか。山城国一揆はほかの一揆と違い、国人と呼ばれる侍の大将が主となり、農民や馬借、商人などの土民と呼ばれた南山城のひとたちが力を合わせて八年の間、自分たちの手で南山城を治めた。
つまり、山城国一揆はほかの土一揆などとは違い、一過性のものではなかった。それも山城国一揆を無血で勝利させたのである。
今から五百年以上も前といえば、物質的にも情報的にも、また、政治的にも、生活意識においても、現在とは比べものにならない時代であったろう。にも関わらず、それはなされたのである。
そんな山城国一揆が歴史のなかでどんな位置をしめ、どんな役割を果たしたのかを知ることは、意識するかしないかに関わらず、わたしたちが拠って立つものがなんであるのかを知るきっかけ、さらにはわたしたちの暮らしのルーツを探るヒントになるはずである。
山城国一揆前夜
山城国一揆は文明十七年(一四八五年)に一味同心が成立している。
そのころ南山城の住民は、たび重なる戦や重税に苦しみあえいでいた。
税だけを見ても、従来から領主に差し出す決まった年貢や、公事にかさねて関銭などを臨時に徴収されたり、他国から来た侍衆の集団はやたら関をつくるし、それだけではすまず大川(木津川)にも関をつくった。
さらには戦の費用を捻出しようと、村の一軒一軒に税をかけた。
もとはといえば、当時の将軍足利義政の跡目あらそいが、この世にこれほど無益なあらそいはなかったといわれる応仁の乱という内乱を生んだのが発端である。
これが京の都を焼土と化し、足利幕府の権威を地に落としめることになった。
政治は混乱し、各地の守護大名や管領たちの権勢力を駆り立てていた。
応仁の乱は一応の終息を見せたが、それはあくまで京の都でのこと。戦の舞台が南山城に移っただけの話だった。
南山城では、当時、山城国の守護であった畠山氏がこれも跡目あらそいから従兄同士の畠山政長と畠山義就の二派に分かれてあらそっていた。
南山城の農民をはじめとする人々は、日常と化した戦と重税と賦役にあえぎ、それはまさにこの世の地獄の様相を呈していた。
こんななかでも惣の村々に生きる人たちは、農業や商業に励み、神や仏を信仰して、共同で暮らしていた。
侍の大将である国人
中世の時代には、国人と呼ばれた侍衆の頭となっている武士がいた。普段は農業を経営しているが、戦になれば侍になる。そんな国人がいた。
そして、南山城にも三十六人衆と呼ばれる国人がいた。
なかでもよく知られているのが山城町の大里に今も残る環濠集落に住んだ国人狛山城守秀、通称狛秀である。
大里は、レモン型の村の周囲に環濠をめぐらせ、外敵から自分たちの生活と暮らしを護った。
村のなかにはその当時使われた郷井戸や狛秀の館があった辺りには、今も「狛どん」の井戸と呼ばれ親しまれている井戸も遺されている。また、西福寺には、戦国時代に入ってからの狛氏の当主であった狛秀綱の画像と位牌と墓石が遺されていて、国人の様子を想像することが出来る。
中央と中央のその中央、南山城
南山城は昔から豊穣な土地であった。
地理的にみても、都のある京と、荘園の領主である興福寺や東大寺があり宗教や文化の中心だった南都と呼ばれたかつての都、奈良との間にあった。
つまり、中央と中央のその中央にあったのが南山城だったのである。
なんといっても将軍のお膝元といってよかったし、木津川は豊かな作物を得るための恵みの水と運航を約束し、権力者にとっては大いに魅力のある地であった。
都の洛中、洛外とともに南山城を支配することは、すなわち中央を治めることにもつながっていたといっても決して過言ではなかった。おかしなものでその豊穣さと地理的な位置が、南山城を悲劇に巻き込んで行くことになるのである。
山城国一揆の成立
「おまえたちは食い扶持だけを残して、あとは仏さまがお食べになるのじゃ」
との興福寺をはじめとする寺側の言い分や、余所者の侍たちが大きな顔をし、この地を蹂躙し乱暴狼藉をつくした。
新しい関を乱立し、南山城に居着く軍資金とした。
これでは農民や馬借、商人など南山城の住人たちは生きては行けないとの危機感が蔓延するのである。そんな思い、すなわち住民の力が国人を押し上げ、ついに文明十七年(一四八五年)十二月十一日、
・両畠山軍を南山城にはいれない。
・荘園は興福寺などの元の領主に戻す。
・南山城には新しい関所を設けない。
・他国のものを代官としてはならない。
・税金や年貢はきちんと領主に納める。
と、いう神水集会で決めた掟法の項目に従い、畠山両軍に山城国からの撤退をせまるのである。
ここでいう神水集会とは、一味神水ともいい、同盟を結ぶ人々が神や仏の前に水を供え、自らの掟書や神や仏の名を挙げてそのもとに誓いをたてた起請文などをつくり、神前に供えてそれを焼き、その灰を神水に混ぜて酌み交わすことをいった。
約束に違反しないことを神仏の前で誓う。こうした儀式によって心を同じくすることを「一味同心」ともいい、神水を呑むということには、身の毛がよだつ思いがする絶対的ともいえる行為であった。
南山城を代表する三十六人衆はそんな一味神水をして掟法を定めた。こうして、国人や農民たちは起ち上がり畠山両軍に南山城から出て行くように仕向けるため、要求をつきつけたのである。
もしも要求を呑まなければ、どちらかの軍に加わるという威嚇と、そして、裏では礼銭を送ったりというしたたかさもまじえて、巧妙な交渉を繰り返した。
東西両軍も長引く戦に厭戦気分も重なっていたことも手伝い、両軍は到頭、南山城からの撤退を呑んだ。
山城国一揆の勝利、山城国一揆の成立である。
平等院での集会
国人たちは農民たちとともに国一揆の勝利に大いに酔ったことだろう。
長引く戦に苦しめられていた百姓たちの解放感と喜びは想像するに難くない。が、山城の国人や土民たちは東西両軍の南山城からの撤退で総て由としたのではなかった。
両畠山軍を撤退させた翌文明十八年(一四八六年)の二月十三日、宇治の平等院で国人の会合が開かれた。
平等院では、国掟法の不備を訂正したり、付け加えたり、惣国と呼ばれた国の運営の手続きや調整もした。会議を運営する月行事も選んだ。
国一揆の勝利で終わりではなく、これからの南山城をどんなふうに運営していくかなどを決めたのである。
その集会を平等院で行ったのはなぜだったのか。
この世で極楽浄土を見たければ、宇治の平等院を見よ、とまでいわせた場所で、これからの南山城の会議を持ったのは、ひょっとすれば国人や農民の思いの底に、自分たちの郷土である南山城を現世の浄土にしたいという願いがあったのかも知れない。
そしてもうひとつ、平等院のある宇治が南山城から宇治川を超えて、京を見すえる地であったことも見逃せない。
とにもかくにも自分たちの地域は自分たちで治めて行こうとする、今でいう地域の自治の試みだった。
それまで守護が持っていた権限を国、すなわち国人が持つという国持体制の確立である。
上山城(南山城)三郡の自治が始まった。
平和への歓喜
宇治の平等院での国人の会合が行われた文明十八年の春、山城と大和の国境の平野で能狂言の催しがあった。この興行は、焼失した中川寺の勧進興行として行われた。
役者は京の都からやって来た若い役者たちで、もとは素人の京町衆が能をたしなみ、職業的な一座を組織して芸能を始めるようになったといわれている。
興行は八銭出せば誰もが観ることが出来た。
それはきっと二十年ぶりの平和のなかで、人々の歓喜とエネルギーが満ち溢れた集いだったのだろう。
そして、そこには南山城の国人や農民たちも大勢参加し楽しんだことだろう。
自治国の運営
自治国といっても、山城国一揆は国持体制を運営して行くためにどんなことをしていたのだろう。
国を運営して行くには約束事が必要となってくる。
山城国一揆は、掟法をつくり惣国運営の基本とした。惣とは、中世の村落共同体のことであり、全体としての農民の組織である。信仰の拠りどころとして寺社と田畑などの共有財産を持ち、祭祀と山野、用水などの管理を行った。
これには村の指導層が中心となってあたり、対外的には、近隣の惣や領主の権力に対応した。
こういう自治的村落を惣村といい、荘園がそのまま惣を形成しているときは、惣荘とも呼ばれていた。
惣とは判りやすくいえば「みんな」と、いうことだろう。
山城惣国の運営や活動は国人の会合で議決し、月行事が執行していた。
国人の会議の議題の調整も月行事が行い、惣国の政治は、その下にある惣や惣荘と呼ばれる村々の組織があって行政を行った。
山城国一揆はそんなふうにして、決められたことを進めて行った。
半済といって、領主に納める年貢の半分を国一揆に出すことにし、(この措置は文明十八年の一年限りだった)東西両軍の撤退のための礼銭に充てたり、高(多賀)というところで油売りが殺人を犯したとき、本来は守護が行う権断を国一揆が執行した。
山城国一揆が自治の雛形といわれるのはこのあたりにある。
今から五百年以上も前に、人々はなにを範としてこれらのことを進めて行ったのか、と考えると、先人たちの先見性と叡智に驚きを禁じえない。
地域には地域の歴史がある
山城国一揆はつい最近まで日本史のなかに登場して来なかった。
一揆というと下剋上ということで、どうしても世に出にくかった。
興福寺の門跡である尋尊も「寺社雑事記」のなかで、山城国一揆のことを「下剋上の至り云々………」と、記している。
一九八五年の夏、山城国一揆五百周年記念講演で、黒川直則氏が「山城国一揆は三浦周行氏が発見し、鈴木良一氏によて体系化。中津川保一・敬朗父子が中心となり発刊された城南郷土史研究会の機関誌『やましろ』により大衆化された」と、述べている。
その通り、山城国一揆は一九一二年、奈良の興福寺の史資料のなかから発見され、第二次世界大戦中から研究が始まった。
一方、戦後の社会になるまで、南山城の人たちは山城国一揆の事件を知ることはなかった。
当時は草深い田舎に歴史などないというのが、一般の意識であった。そのため、郷土史家の中津川保一氏が始められた城南郷土史研究会の結成で漸く地元の人たちと山城国一揆との衝撃的な出合いが実現したのである。
村には村の、地域には地域の誇るべき歴史があるのだ、と………。
山城国一揆の解体
さて、話を山城国一揆に戻そう。
畠山両軍を南山城から撤退させた国一揆は、相楽、綴喜、久世の三郡、つまり宇治川以南の惣国を自分たちで運営して行った。
けれども国一揆の成立から八年の後、国持体制に揺らぎが出てくる。
国人はそれぞれが強い武士の家来となっており、多くは大和の古市氏との関係を強めていた。
そんなことや、また、ほかに政治的なことも作用し、国持体制にひびが入ることになったのである。
一方、将軍足利義政の政治に対する無関心と、日野富子の悪政などが重なり、そんななか、幕府のなかにあっての細川氏の権威を回復せんがための細川政元のクーデターが起きる。
細川政元が国一揆を利用していたともいわれ、細川氏の権威を回復した結果、政元は国一揆を見限ったともいわれている。
そんなもろもろのことが作用し、山城守護に伊勢貞陸の入部を認める動きが出てくるのである。
それはどいうことかといえば、南山城への幕府の介入を意味する。
国人たちは守護の命に従え、という幕府からの命に従うかどうかを決める会議をしたことであろう。
その結果、多くの国人たちはそれに従うべきだとの結論に達した。
南山城はとにもかくにもこれまで国一揆の国持体制で運営してきたのである。
そこに守護が入って来るということは、山城国一揆の崩壊、山城国の自治の終わり以外のなにものでもなかった。
稲屋妻城の最後の攻防
明応三年(一四九三年)九月、山城守護の入部にあくまでも反対する一部国人は、稲屋妻城(精華町)にこもり徹底抗戦することになる。
国一揆にとってみれば、最初から負け戦であることは判っていたであろう。
そこには、自分たちが創造した八年間に及ぶ南山城の自治というものに対する熱い思いがあったのだろうか、今となっては判らない。
が、彼らは戦った。
稲屋妻城があったとされる城山の麓にある北稲共同墓地には逆修の碑といわれる石碑が遺っている。これは、地元では稲屋妻城にこもった侍たちが、自分たちの死を覚悟し、先に墓を建立したのだという言い伝えとして今も語られている。
抗戦空しく、稲屋妻城は落城。
山城国一揆はここで終焉を迎える。
おわりに
これが山城国一揆の概略である。
地道に続けられている山城国一揆研究においては、その研究成果として、山城国一揆は自治と平和の戦いであったとしている。
八年という年月が長いのか短いのかは一概に断定できないが、少なくともこの八年は、時代を経れば経るほどにわたしたちの郷土の誇りとして一層輝きを増すことだけは確かなことであろう。
了。
付録
山城国一揆めぐり
山城国一揆が起きた中世の時代を自分の目で見、体感してもらうため、主な場所を掲げておく。
★大里環濠集落(山城町)
山城町の上狛通称「大里」の集落は、レモン型をし、周囲は堀で囲まれている。狛氏の居館があった大里は狛城として、外敵から村を護った。村と田畑を堀によって仕切り、堀の内には土塁を築き、竹やぶや雑木林を連ね、そのなかに家々があった。堀はその後、現在に至るまで、農業用水路や悪水落とし堀として利用されてきた。
★狛どんの大井戸(山城町)
大里環濠集落の角垣外郷の東南端にある。この井戸は「狛どんの井戸」と伝えられてきたが、「戌亥の井戸」といわれることから、この村の頭であった狛氏の居館の北西端に位置していたと推定されている。
★西福寺(山城町)
大里環濠集落にあるこの寺には、戦国時代に入ってからの狛氏の当主であった狛秀綱の画像と位牌と墓石がある。
★平等院(宇治市)
宇治市にある元天台・浄土系の寺。藤原頼 通が寺とした。本堂の阿弥陀堂は、近世になって鳳凰堂と呼ばれた。「この世で浄土を見たくば宇治の平等院を見よ」と、いわれたほど重々しく華やかで美しいこの寺で、文明十八年(一四八六年)に国人の会議が開かれた。
★岡田国神社(木津町)
里山のふところに抱かれて、西から東へ一直線に伸びる松林の参道の奥に整然と鎮座していたこの神社は、近年、東の森の中腹へ新たに造営されたが、古い社殿は昔のまま保存されることになった。もともとの社殿は山の一段高いところに神殿を設け、その下の広場には能舞台を置き、能や狂言が鑑賞しやすいようになっていて、中世の劇場といえる。社は南山城の村々の惣社の姿をよく遺している貴重な例となっている。
★高神社(井手町)
高神社には鎌倉時代以来の四百点もの古文書が伝えられていて、長い坂道を登った東の里山のひとつの峰にある。木津川へ注ぐ南谷川には川の奥に龍神を祀っている。いつのころからか、村人たちは干ばつのときの雨乞いには、先ず龍神に祈り、一人ひとり松明をかざして山へ登った。多賀で最も高いその山の名を万灯呂山というが、人々の掲げた松明の列が万灯籠のように映ったからだと伝えられている。多賀で油売りが殺人を犯したとき、国一揆は検断権を行使し、これを裁いている。
★田辺城(京田辺市)
京田辺市役所の西南にある丘陵の先端部、田辺奥ノ城の「田辺城跡」遺跡は細川勝元に仕えていた東軍方山城国人三十六人衆のひとりである田辺氏の居城との説もあり、また、寺であったとの説もある。
★酬恩庵(一休寺)(京田辺市)
応仁元年(一四六七年)、一休宗純が応仁の乱を避けて酬恩庵に入る。文明元年(一四六九年)には戦火が薪にせまり、一休宗純は加茂の瓶原へ、さらには奈良から住吉へと移る。文明十年(一四七八年)には住吉を出て酬恩庵へ戻るが応仁の乱中の文明十三年(一四八一年)十一月二十一日に一休宗純は入寂する。酬恩庵を訪ね、異端の僧、一休宗純が生きた乱世の時代を偲ぶのも一興である。
★草路城跡(京田辺市)
現草内小学校の前にあったとされる。文明十四年(一四八二年)畠山義就の軍勢が、狛氏などがこもっていた草路城を攻め落とし、数十人が切腹をしている。
★天神の森・棚倉彦神社(京田辺市)
文明二年(一四七〇年)七月、西軍方大内氏の軍勢が田辺城を攻め、寺院や民家を焼き払う。天神社だけが残った。明応三年(一四九三年)、山城国一揆が解体し、古市氏とその家来の井上九郎が南山城に入って来、もともと治めていた西軍の地を取り戻す。その時、天神の森と十六ノ宮(城陽市)を繋ぐ線の南側を治めることになる。これを南山城の住民は、どんな思いで見ていたのか、天神の森は知っているが語りはしない。
★泉橋寺
奈良時代の高僧行基が泉大橋を守るために建立した。ここには鎌倉時代の末期につくられた日本一の石地蔵がのこっている。もともとはお堂のなかに坐っておられたが、文明三年(一四七一年)四月二十一日、西軍方の大内氏の軍勢が木津を攻め、地蔵堂を焼き払い、地蔵も焼けただれ、両手と頭部は、江戸時代になって造り直された。応仁の乱の証人として、今も地蔵は露座のまま坐っている。
★水主城(城陽市)
この城は、国人水主氏の居城であったといわれており、その場所は、現在の水主北垣内辺りと考えられる。文明十七年(一四八五年)国人の代表三十六人は掟法に従い東西両軍に撤退を求めて行く。両軍対峙の最前線は、大川(木津川)東岸の水主(西軍)、富野、枇杷荘(東軍)の辺りであった。東西両軍が睨みあいを続ける最前線の緊張感に、国人や百姓はどんな思いで対応していたのか、水主の辺りに立って想像してみてはいかがだろうか。
★稲屋妻城(精華町)
明応二年(一四九三年)九月、あくまでも山城守護の入部に反対する国人は、稲屋妻城に立て籠もり徹底抗戦をすることになる。国一揆側にすれば最初から負け戦と判っていたであろう。それでも稲屋妻城にこもらなければならない思いがあったのだろう。抗戦むなしく稲屋妻城は落城。山城国一揆はここで終わりを迎える。山城国一揆終焉の地に立って、当時の国人や農民たち、南山城に生きた人々の願いや思いを、ぜひ一度味わって欲しい。国創りに懸けた熱い思いが伝わってくるかもしれない。
追記
山城国一揆の8年は、この南山城に平和と自治を試みる貴重な時間だった。
それを、この地の先人が行ったことを誇りに思うし、後世の人たちに伝えて行かなければならない。
えんえんと続いた応仁の乱は山城国一揆が成立したことで終わった、といわれている。守護同士の争いは結局、南山城の土民の力で治められたといってもよい。
戦乱の中で苦しみ、お互いの立場を出しながら、新しい地域社会をどう創るのかを試み、自治・民主主義・平和を考えた貴重なときであった。
今から五百年以上も前に、この地の祖先たちはすでに国創りの夢に燃えていたのだ。