ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

ヤマハの音楽教室

2010年11月08日 19時21分01秒 | 思い出ねーさん
多分、昭和40年代前半の人の幼児教育として流行った感のあるヤマハの音楽教室。


オバチャマが通った横浜の緑区の幼稚園も週1くらい?で放課後にヤマハの音楽教室が開催され、お約束みたいに通ったもんだった。


これに関しては自ら「通いたい」と主張した。
「通いたいというなら通いましょう」ということで、結構ウキウキ通い始めたもんだった。


もちろん幼稚園低学年当時だからどの子供もひとりで通ってくるような子供はおらず母親同伴で、兄弟がいればそのまだバブバブしてるような幼児まで連れてくる格好で、教室はいつもいっぱいだった記憶がある。


まずは先生のピアノのまわりに皆が集まって、

♪…ヤマハ、ヤマハの音楽教室~

のお決まりのお歌を唄う。

先生は、

「今日もみんな元気がいいわね。(ニコ)」

みたいに優しく微笑む訳だ。


そしてひとり一台与えられたオルガンに座る。
母親らは横につく。


音を出したり、マグネット式の教材(購入)で和音とかを勉強したり、ノートを広げて記号の書き方の練習をしたり、そんなことをしたような記憶がある。


多分それが1時間程度で終わり、終わると参加ノートに丸い可愛いシール(絵が書いてある)を貼ってくれる。
これが何回かに一度、大判の横長の(角の丸い)シールになって、これを貼ってくれる日は妙~~に嬉しくなったりしたもんだ。
(これは狙いがあるんでしょうけど(これだけ通えばこんないいこと…みたいな。)、オバチャマといえば「だから練習熱心になる」より「シール収拾に熱心」になって通った気がする。所詮そんな人なんだなぁ…。いいと思うんだけど、それで。(笑))


そんなこんなで通い続けたヤマハの音楽教室なんだが、途中で突如「もう絶対にやめる、やめるったらやめる。」と言い出し、母親を困惑させた。


なんでかと言うと、理屈を覚える段階になってくると相当にツマラナイわ、そうなってくると母親が、

「何回やったら覚えるの、違う、違う、こうでしょう?ほらっ。」

とか横から手を出してくるわ、口を出してくるは。

「た、た、助けてくれぇぇぇ…、そんなこたぁわかってるんだ、こっちもさぁ…、でも自分はそんなこたぁ、どーでもいいのだ…、あぁどーでもいいのだ…、音楽家を目指している訳でもないんだし…。」

と、幼稚園の幼児の子供であろうが心の中でそんな旋風が吹きまくり、どーにもこーにも耐えられなくなったからだ。


「いいじゃんよ~~、も~~~ぉ。辞めるっ。」

ってなもんだった。


あれを言った時のココロの中の感じは今でも妙に記憶に残っている。



とにかく、オバチャマとしては勉強したくて行ってるというより、

「楽しみたい」

「ヤマハの音楽教室がどんなもんかね?(興味津々)」

「これに行けばヤマハから出た新品の(ほとんど使ってなかった従姉妹の)オルガン(しぞーかの人はやっぱヤマハ贔屓だわな)がうちに貰える(鍵盤楽器に興味津々、ピアノでなくとも良い訳。)」

という意識(と下心が強い)で通った訳で、

行ってみたらみたで今度は、

「みんなに同じ進み方が(なんとなく)強制される」

というで苦痛感で仕方がなくなった訳だ。


シール収拾のお楽しみも放り投げてもいいくらい苦痛になってきて、母親がいくら「自分がやりたいでやりだしたものは最後までやり通しなさい。」と言おうが、ガンとして聞き入れずに食い下がって辞めたんだっけ。


おかげでうちの親のこのヤマハの音楽教室に通った想い出話と言えば、「オバチャマがどーのこーの」はまず忘れてしまったかの如く何も出ず(笑)、まだバブバブしてた実弟が、ほかのバブバブしてた幼児と幼稚園のおもちゃでお行儀よく遊んでいて、

「一番女の子に優しかったのよねぇ、「はい、どうぞ?」なんて譲ってあげたりしてねぇ。
○○さん(一緒に通ったご近所さん)も「○○君は優しいのねぇ…」って感心していたわ。」

という、

結局は我が家じゃ実弟に一番徳がまわる話題にすりかわっていて、まったく損な性格のオバチャマである。


(だはははは…)



余談

なんだか弟に徳がまわっているのはこれだけではない気がするので、「いつかは「おかげさまで…」と感じて欲しい」と、そう願っている姉である。(都合のよい姉である)
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