ねーさんとバンビーナの毎日

「静」→ 「淡」→ 「戻」→ 「無」→「休」→「解・涛」→「涛・停」→「抜」→24年「歩」 最終章序章スタート!

「自由」ということは「抵抗」を取り込む腹と向き合う謙虚さがなきゃいけない。

2009年07月03日 08時43分58秒 | 伝われねーさん
太宰からわかるもの。


「いったいこの自由思想というのは、」

「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。
圧制や束縛がとりのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。

鳩がある日、神様にお願いした、

「私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない、どうか空気というものを無くして欲しい」

神様はその願いを聞き要れてやった。

しかるに鳩は、いくらはばたいても飛び上がることが出来なかった。



(わかること)

神様は罪ですね。
神様ならば「願いがどうであれ、どうであると飛べるのか。」ということをすでにご存知なはずなのに。

だけどそれを簡単に教えちゃいけない。
自分で体験して自分で考えてわからなきゃいけない。
だからこういう試練を与えるのですよね。

だけどお願いは叶えてやったのですよね。



空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上がる事が出来るのです。

闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。



(わかること)

だから鳩は「空気を無くした神様」を恨んじゃいけないんですよ。

今度は「空気を戻してくれ。」とお願いするんでしょう?

だけどその時に鳩がどんな態度をするかで神様はまた試練を与えるでしょう。

「どうだと飛べるのかがまだ自分でわからんのか。」と。


「圧制」や「束縛」というのを「とりのぞいてやろう」とする考えで流れている世の中がいきつく先は、「自由サイコー!」等とのたまわっても結局自由に飛べずに終わるのです。


管理、官吏されておしまいなのです。
管理、官吏されてるのに自由でしょうかね。

「気まま」は許されるでしょうが、「気まま」と「自由」はまるっきり違います。

責任もなけりゃ、覚悟もなけりゃ、試行錯誤することもしない。

で、自由になりたいとな。


みんな「自由がいい」って口にしながら実は怖くて怖くて仕方ないんだよね。
責任も覚悟も面倒臭いからそれはしたくないんだよね。
だけど求めるのは「自由」なんだよね。


矛盾してるんだよね~。


面倒臭いのが嫌ならば、「自由に飛びたい」なんて言ってないで、謙虚に地味にコツコツ真面目にやっていたほうがいいのにね。


なのにこんな奴らをバタバタと羽ばたかせようとして利用した時代があったね。
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