永年音楽に携わる私であっても決して「音楽家」とは言えない。
「音楽家」と言えるのはそういう才能がある人達だけ。
わたしはその才能がなかったから音楽教師の道を選んだ。
そういう人のことを私は「音楽人」と言っている。
音楽が好きで永年ずっと何かしら音楽に触れている人のことをそう言っている。
ここに集う生徒にも、いつまでも音楽を楽しむ心を忘れない「音楽人」になっていって欲しいと思う。
先日中3の甥っ子の中学生活最後の定期演奏会があった。神奈川県民ホールにて。
この定期演奏会はこの言葉を喋った顧問にとっても教師生活最後となるもので、副題が「○○○ラストコンサート」となっていた。
2000名収容の会場は3階席まで観客が入る盛況ぶり。
決して満席ではなかったが、昔の教え子や、他校の音楽教師、父兄や、生徒など、大勢の観客で埋まっていた。
3時間に渡る演奏会には、昔の教え子でプロになった人や、各パートを教えに来ているセミプロ?みたいな方々も参加した合同バンドの演奏もプログラムに組み込まれていた。
この演奏を聴いていて何か痛感した。
生徒達だけの演奏の時と、プロの方の演奏する姿(背中)を見て演奏する時とで、明らかに生徒達の何かが違う。
観客に伝わってくるものがやっぱり違う。
「この感じって…なんだ?」
そう、WBCのイチローの背中に引っ張られるチームメイト→雰囲気が盛り上がる、あの感じなのだ。
プロの演奏家はやはり聴き手を意識して感情豊かに謙虚に真剣に演奏する。
それが表情や身体に表現されている。
それに生徒は完全にのせられている感じなのだ。
「あんたの演奏にのってやるぜ」じゃなく、「一緒にのるよ!楽しいよ!」って感じなのだ。
中学生といえどもあなどれないモーツァルトのレクイエムやビゼーのカルメンが聴けた。
60歳を迎えたこの顧問は、自分の生い立ちや教師生活を振り返り、舞台の上で語った。
(ね)が中学生の時に卓球部の顧問をしていた熱血英語教師(現・とある中学の校長)も同世代だなぁ…と分かった。
(ね)はなんでこうやって足を運ぶのかと言えば、
「甥っ子たちの演奏を聴くもそうだけど、自分が小さい頃から感じていた思いを再確認・再整理したい為なのかもしれないなぁ。」
とそんなことも頭によぎった。
そんな風な気持ちでいたところに、
「○○家」でなくてもいい。
「○○人」でいて欲しい。
というような言葉が染みた。
(ね)の横に座っていた母は、
「あらっ、早速映画の「おくりびと」にかけたのねぇ。(きっとそうね、きっとそうね風)」
と、疑いもなく純粋に呟いていた。
「ガクッ…この人って…、ま、いっかぁ。ウハハハ」
と、ほほえましくなった。
「音楽家」と言えるのはそういう才能がある人達だけ。
わたしはその才能がなかったから音楽教師の道を選んだ。
そういう人のことを私は「音楽人」と言っている。
音楽が好きで永年ずっと何かしら音楽に触れている人のことをそう言っている。
ここに集う生徒にも、いつまでも音楽を楽しむ心を忘れない「音楽人」になっていって欲しいと思う。
先日中3の甥っ子の中学生活最後の定期演奏会があった。神奈川県民ホールにて。
この定期演奏会はこの言葉を喋った顧問にとっても教師生活最後となるもので、副題が「○○○ラストコンサート」となっていた。
2000名収容の会場は3階席まで観客が入る盛況ぶり。
決して満席ではなかったが、昔の教え子や、他校の音楽教師、父兄や、生徒など、大勢の観客で埋まっていた。
3時間に渡る演奏会には、昔の教え子でプロになった人や、各パートを教えに来ているセミプロ?みたいな方々も参加した合同バンドの演奏もプログラムに組み込まれていた。
この演奏を聴いていて何か痛感した。
生徒達だけの演奏の時と、プロの方の演奏する姿(背中)を見て演奏する時とで、明らかに生徒達の何かが違う。
観客に伝わってくるものがやっぱり違う。
「この感じって…なんだ?」
そう、WBCのイチローの背中に引っ張られるチームメイト→雰囲気が盛り上がる、あの感じなのだ。
プロの演奏家はやはり聴き手を意識して感情豊かに謙虚に真剣に演奏する。
それが表情や身体に表現されている。
それに生徒は完全にのせられている感じなのだ。
「あんたの演奏にのってやるぜ」じゃなく、「一緒にのるよ!楽しいよ!」って感じなのだ。
中学生といえどもあなどれないモーツァルトのレクイエムやビゼーのカルメンが聴けた。
60歳を迎えたこの顧問は、自分の生い立ちや教師生活を振り返り、舞台の上で語った。
(ね)が中学生の時に卓球部の顧問をしていた熱血英語教師(現・とある中学の校長)も同世代だなぁ…と分かった。
(ね)はなんでこうやって足を運ぶのかと言えば、
「甥っ子たちの演奏を聴くもそうだけど、自分が小さい頃から感じていた思いを再確認・再整理したい為なのかもしれないなぁ。」
とそんなことも頭によぎった。
そんな風な気持ちでいたところに、
「○○家」でなくてもいい。
「○○人」でいて欲しい。
というような言葉が染みた。
(ね)の横に座っていた母は、
「あらっ、早速映画の「おくりびと」にかけたのねぇ。(きっとそうね、きっとそうね風)」
と、疑いもなく純粋に呟いていた。
「ガクッ…この人って…、ま、いっかぁ。ウハハハ」
と、ほほえましくなった。