goo blog サービス終了のお知らせ 

ごまめの歯ぎしり・まぐろのおなら

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ

ウソにウソを重ねる原子力ムラ

2012-07-11 | 政治
首相官邸前に大飯原発再稼働反対を訴える人の数は、6月末の金曜日に、60年安保闘争で国会を包囲した13万人を超えて、20万人に達した。そして、先週の金曜日には雨が降りしきる中でも15万人が集まった。警察発表は1万8千人と2万1千人だという報道があった。相変わらず警察は大幅な過小評価をしているなと思っていた。でも、本当に治安を第一に考えるなら、正しい評価をしないと、警備に支障がでるのではないかと長い間、疑問におもっていた。ところが、なんとなんと。警察は人数についての公式発表はしていないというのだ。では、マスコミが発表した警察発表とはいったい何だったのか。

 どうやら、これはマスゴミが勝手にねつ造した数字らしい。それを勝手に警察発表として報道していたらしい。いったい、彼らはどうしてこのようないいかげんな数字をねつ造したのだろうか。読売、サンケイなどというおよそ新聞とはいえないマスゴミは、官邸前の報道さえしない。報道している朝日や毎日やテレビ各局などは、ウソの警察発表を垂れ流していたのだ。驚くほかはない。

 いったいマスゴミは、なぜそんなことをするのだろうか?官邸前デモが4万5千人に膨れあがったときでさえ、どの新聞もテレビも報道をしなかった。市民の抗議に、唯一真摯に対応したのは東京新聞だけだった。東京新聞は、デモの取材をしなかったことを反省し、紙面で謝罪した。そして、その後は精力的に取材を行い報道している。ウソの警察発表も載せていない。 

 思うに、警察は公式発表はしないで、記者クラブなどでそっと情報をリークしているのではないだろうか。「今日の参加者は○万人」とか言って。公式発表するとその事実との乖離を追求されたときに困るけれど、マスゴミに警察はこの程度とみているとそっと耳打ちすると、マスゴミは喜んでそれを記事にする。しかし、警察は責任を問われない。責任をうやむやにするのが、この日本の体質でもあるから、いつのまにかその数字が一人歩きを始める。

 最近驚いたもう一つのウソは、関西電力大飯原発の再稼働の理由だった。暑い夏が来ると電力が足りなくなるからというのが、再稼働をお願いした関西電力の言い分だった。そして、それをそのままノダ首相は、再稼働容認の理由にした。「国民の安全を守るため」原発の再稼働が必要とのたまわった。そして、大飯原発を稼働しなければ、今年の夏は15%以上の電力が不足し、計画停電をやらねばならないかも知れないと、市民を脅している。大飯原発の再稼働をすると、15%不足のところが、10%の節電要請ですむというのも、マスゴミが大々的に伝えてきたことだった。

 ところが、大飯原発が再稼働し始め、フル稼働になったとたん、関西電力は次々と火力発電所を止め始めた。大飯原発のフル稼働で得られる電力は、118万キロワットだという。ところが、8基の火力発電所を停止するという。その8基の火力発電所の発電量は、300万キロワットだそうだ。これ、どういうこと? これまで火力発電で賄っていた電力でも15%足りないと言っていたのに、原発再稼働すると、火力発電よりも3分の1くらいの電力しか作れない。それなのに、なぜ節電要請が10%に減るの?

 関西電力と政府は、明らかにウソを言って大飯原発を稼働させた。原発を稼働したかったのは、「国民の安全」などありえない。関西電力の経営が赤字に転落するのを防ぐこと、これ以外に大飯原発再稼働の理由はまったく見えてこない。こんなウソがどうして許されるのか? 原発は嫌だけど、停電になったら困るから、再稼働も仕方ないなどと、物わかりの良い風を装っている人たち、自分たちが騙されていたと言うことを、もっと自覚して欲しい。

 ノダ首相はいますぐ辞職をして欲しい。国民を舐めるのもいい加減にしろ! 関西電力の電気代値上げは、許されない。毎週金曜日に官邸前に集まる人の声が聞こえないのか。今週は私も官邸前に行くぞ。
 

愛は世界を救わない

2012-07-04 | 日記風
近くにある有名なお寺に、気軽に散歩に行った。ちょうど、このお寺の住職が法話を話すときだったので、気軽に聞きに行った。このお坊さんは、まだ若いが、かなり有名な人のようで、いろんな人から噂を聞いてはいたが、会うのは(見るのは)初めてだった。

 最初はちょっと聞いて途中で出ようと思っていたが、話を聞いている人が10人くらいと少なかったことも有り、途中で出るのも勇気がいる。観光客と思われる若い女の子の二人連れは、途中でさっさと出て行ったが。でも、法話の内容が面白くて、為になるので、最後まで話を聞いた。終わっても去りがたくなり、しばらくお坊さんと話をした。

 この法話の中では、仏教における宗派の違いについての話があった。キリスト教などでは、カソリックとプロテスタント、その他いろいろな宗派があり、それらの間には決して超えられない確執や憎しみがあると、聞き及んでいた。しかし、仏教の宗派にはどうもそういう気配が薄い。いったい仏教の宗派とはなんだろうと、常日頃から不思議に思っていた。浄土宗と浄土真宗、天台宗。最澄、空海、法然らの間にはどのような確執や憎しみがあったのだろうか。その疑問が彼の法話ですっかり解けた。日蓮は少し違うが、最澄、空海、法然らの教えには、根本的な違いは無い。他力本願は、仏の情けにすがって浄土へ行こうという庶民の願いが反映されている。本願成仏も、自分の努力と勉強で、浄土へいけるというもの。どちらも阿弥陀浄土へ行くことの願いを説いたもので、そのちがいはほとんど無い。多少のお経の解釈の違いがあるだけである。だから、日本では、葬式や法要などでは、違う宗派のお坊さんがきてお経を上げていくことも、普通のことなのだ。キリスト教との違いは、はっきりした。

 宗派のことも面白かったが、もっとも印象に残ったのは、「愛は世界を救わない」というお説教だった。「愛が世界を救う」「愛さえあれば」「愛こそ平和」などという言い方を良く聞いている私には、「愛は世界を救わない」という言葉は一瞬、耳を疑った。でも、お坊さんの説教は、すぐに理解できた。「愛は我欲である」「欲は、愛を要求する」「自己愛、夫婦愛、家族愛、故郷への愛は、日本への愛、愛国心へとつながっていく」「これは平和では無く戦争につながる」「仏は愛を説かない」「仏は我欲を排する」「仏の望むのは無我」と法話は私の理解を導いていった。仏教の説くのは、『愛』では無く『無我』であることを教えてもらった。キリスト教が愛を説いているのとは、あきらかに異なる。愛は欲につながる。これは、今日の私にとって極めて大きな収穫だった。散歩はしてみるものだ。京都はそんなことが散歩の効用にある。

眼が見えるようになって

2012-06-26 | 日記風
年度末から続いていた仕事も、梅雨に入ってようやく一息ついたので、かつてから懸案だった眼の白内障の手術を受けることにした。2年ほど前に手術を受けようと思い立って、病院に行ったところ、医者に様子を見ましょうと言われ、ああ、まだ手術するほど悪くは無いんだと思って思いとどまったことがあった。あれから2年、右目の見え方はかなり悪くなったように思う。我慢できないわけではないが、いつも左目だけで世の中を見ているような気がしていた。病院に行くと、今回は手術しますか様子を見ますかという選択肢を示された。どうやら、そろそろ手術をしてもいいよと言うことのようだ。

 まだ待っても良かったような気がしたが、いろいろ思い悩むのも面倒だし、いつまで生きられるか分からない今の日本では、生きているうちにもっと目を見開いて世の中を見ておきたいという気持ちもあった。もっとも、世の中の美しいものはほぼ見てしまったという気持ちもあったが。よく見えるようになると言うことは、美しいものだけが見えると言うことでもない。汚れたものも、よく見えると言うことだ。汚れた人たちの心までも見える。でも、それが見えないとまちがった世の中が、そのまま進んでしまう。

 もっとしっかり世の中の出来事を見ておこうというつもりもあって、手術を受けることに決めた。実際の手術は、わずか10分~15分程度で終わった。眼の水晶体を吸い取って、人工物に置き換えるという手術なのだが、目をつぶっているわけにはいかない。部分麻酔をするから痛くは無いと聞いてはいたが、目を開いたまま眼の手術を受けるというのは、どう考えても恐ろしい。頭からすっぽりとずきんのようなものをかぶせられ、右目だけを出し、目をつむらないように固定される。そして、医師がよく見えるように眼をものすごく明るい照明で照らし出す。太陽を直接見ているようにまぶしい。目をつぶることも許されないので、これは拷問のようなものだ。でも、痛くは無い。ただひたすらまぶしい。

 まぶしさに耐えているうちに、手術は終わった。その日は、右目に眼帯が懸けられ、どうなったかは分からない。次の日に、医師が眼帯を外してくれた。びっくりするほど世の中がクリアに見える。しかも、近眼で0.3しか見えなかった右目のレンズを1.5が見えるような人工レンズに入れ替えたため、遠く山の上の木までよく見える。これで、両眼とも1.2以上が見えることになった。ただ、今まで右目が0.3しか見えていなかったため、右目と左目のバランスが、それを前提にとっていたのが、バランスが崩れてしまった。しかも、近視は治ったが、老眼は治っていないので、ますます近くは見えなくなった。

 でも、遠くまでくっきりと見えることが、これまでメガネをかけてもそれほど実現しなかったのが、いまや実現してしまった。こんなにくっきりと見えて良いのかしら、と思おうほどだ。でも老眼鏡を作るまで、しばらくは近くが見えないので、仕事をするのが難しい。本も読めないから、時間を潰すのが難しい。しかたなく、テレビを見るが、最近のテレビって、見たいと思う番組がほとんど無いのだ。チャンネルの選択肢は、BSも見えるようになったから、20くらいあるのに、本当に見たいと思う番組が無い。みんなこんなアホ番組ばかり見ているのだろうか。

 せっかく手術をしてよく見える目になったのに、その使い道が見つからない。しばらく本が読めるようになるまで、我慢我慢の毎日だ。

 今日、消費増税法案が衆議院を通過したそうだ。圧倒的な多数で。野田政権は許せない。彼らは自民党に戻るべきだろう。国民を騙すために民主党を作ったのか。原発の再稼働は、もっと許せない。金曜日の夜は、みんなで官邸を取り囲もう。

満腔の怒りを込めて

2012-06-16 | 政治
野田首相に、満腔の怒りを込めて抗議する。大飯原発の再稼働に反対。フクシマの事故にいったい誰が責任をとれたのか。

ホタルを楽しむ京都

2012-06-13 | 花と自然
毎年恒例になっているホタル見物。今年は5月の低温で少し遅くなるかと思ったが、5月22-3日頃に、ホタルが見え始めた。しばらくはあまり飛び回らなかったが、5月末あたりからは、賑やかに飛び始めた。夜になると、夕食を済ませて近くの琵琶湖疎水にホタルを見に出かける。昨年までは夕涼みがてら、出かけていたが、今年はホタルが出ている時期は、夜になると肌寒いくらいで、どうも季節感がおかしくなっている。

 遠くの友人を招いたりして、何度かホタルを見ながら疎水沿いの散歩道を夜歩くのは、楽しみの一つとなった。ホタルを見たことない子供たちも、初めての体験に、しばし言葉を失う。ホタルは黙って静かに見るのが良い。そうすると、ぼやっと光る蛍の灯りがなんともいえず、心を癒やしてくれる。

 ところが、最近、携帯やスマホとかいうものが蔓延し、京都の蛍見物に関する情報サイトができたりして、いろんな人がいっぱいやってくる。蛍の数よりも見物客の方が多い。今年の蛍は、出現数が昨年に比べてかなり少ない。疎水沿いではただ一ヶ所だけ、たくさんの蛍が舞っている場所がある。そこは周りに車が走る道路がなく、周りも草が生い茂り、樹木も枝を水面に伸ばしている。そして街路灯や周辺の家の灯りもほとんどないのが、蛍がたくさん集まる理由なのだろう。疎水沿いの街灯や民家の灯り、自動販売機、車の通行など、この時期だけでも良いからもっと規制できないものだろうか。京都市は、蛍がいっぱいいた高野川の河川改修をやったりして、それ以後ホタルが出てこなくなってしまった。そんなことをしている京都市だから、ホタルなどどうでもいいのかもしれないが、お寺と神社だけが京都の良さではないのだ。

 中には、懐中電灯を持ってきて、蛍を見るのにライトで照らしてみている人がいる。いったいどういう了見なのだろうか。他にもたくさんの人が、幽玄の世界を楽しんでいるのに、自分のためにライトで照らすなんて。本当に、エゴイストだ。ホタルを写真に撮りたいと何度か試してみたが、いまどきの自動制御のカメラでは、写らない。中にはストロボを光らせている人もいる(笑)。

 ようやく、蛍の最盛期が過ぎた。今夜と明晩も蛍を見るために、夜中にいそいそと出かける予定だ。そろそろ今年最後の蛍になるかも知れない。いつまでも蛍が楽しめる町であって欲しい。

めちゃくちゃのドジョウの論理

2012-06-11 | 政治
「国民の生活を守るために、原発を再稼働させる」。野田首相が大飯原発を再稼働させる理由として挙げた理由だ。およそ理解不能な言葉。冗談を言ってるんじゃないかと思ったくらいだ。この人、日本語大丈夫なのかな。「国民の生活が第一」というマニフェストを掲げて政権交代をした民主党だが、野田政権はマニフェストを次々と反故にして、自民党政治へと変身していった。「国民の生活が第一」をきちんと守るべきだという小沢一郎グループの主張が頭にあったのかも知れないが、「国民の生活を守るために」どうして原発再稼働なのかさっぱり分からない。

 福島では、20年たっても帰還できないと言われている地域が有り、そこに住む人々は、国内難民となりはてた。そんな国民を作り出しておいて、「国民の生活を守るため」原発を再稼働する。この論理矛盾にもう言葉もない。日本政府はここまでどうしようもないドジョウを首相にしているのだと思う。

 それにしても日本人はおとなしいね。むちゃくちゃな論理で国民を再び恐怖に陥れる道を選ぶ首相にも、しぶしぶついていこうというのだろうか。「国民の生活を守るために」原発の再稼働政策を今すぐ撤廃して欲しい。

再び「暗闇の思想」を

2012-06-06 | 政治
野田首相は、日本の経済を危機に陥れないために、原発を再稼働させていくと決意をのべたとか聞く。この人は、消費増税にも政治生命を懸けて取り組むと言っている。どうしてそんなに国民が嫌がることばかりに、命を懸けるのだろうか。やはりこの人は、私たちと全く違った方向を向いて政治をしているとしか思えない。

 大飯原発が再稼働しなければ、関西の電力は、この夏15%不足すると関西電力は再稼働をもくろむ。でも、この15%というのは、最も暑い夏の1週間ほどの昼間のそれぞれ数時間のことにすぎない。それも大幅な節電で、かなりの部分は何とかなるという試算もある。福島第一原発の事故の原因も検証されず、事故の責任者がまったく何の処分もされないまま、再稼働なんて、どうしてできるのだろう。

 経済発展のために原発を動かす。これこそ、これまでの原子力ムラの原動力そのものだったはずだ。これだけ原発を推進してきた原子力ムラの構造が批判されているのに、日本の首相自身が、何の反省も無しに「経済発展のため」に原発を再稼働させると言う。人々の健康や命など、経済発展のためならどうなっても良いというのが、野田首相や経済界の一部のお偉方の考え方なのだ。でも、私たちは違う。命と健康を守るためなら、経済などどうなっても良い。右肩上がりの経済発展というのは、一時的な幻想でしかなかったことが分かってきたこの頃。経済的に豊かになろうとして「成功」した日本が、いかに多くの不幸な人間を生み出してきたことか。毎日100人の人たちが自殺をしている日本。金持ちになっても幸福にはならないのが、ようやく明らかになってきたのだ。今、日本の半分以上の土地の人々は、健康と命の危機にある。

 松下竜一という作家が、「暗闇の思想」という本を書いている。彼の主張がいまやっと人々の心に届きかけている。豊前火力発電所の建設が、彼の地元の海とその環境を破壊することに反対して、少々電気が足りなくても生きていけると、ろうそくの下で「暗闇の思想」を提唱した。彼の運動した豊前火力発電所は、豊壌の海を埋め立てて完成したが、その建設の前提になっていた周防灘総合開発は、幸いなことに中断し、瀬戸内海西部に奇跡の海と言われる豊かな瀬戸内海の原風景を残している。そして、中国電力は、その奇跡の海に再び原子力発電所の建設を計画している。野田政権が原発の再稼働を進めれば、次は新しい原発の建設へと動くことになるだろう。いま、再稼働を止めなければ、日本の政治の得意技「なしくずし」に国民は黙ってしまいかねない。

 大阪市長の橋下某は、原発再稼働反対と言って、民主党政権との対決まで唱えていたのが、結局、簡単に再稼働容認に態度を変えた。マスコミなどからは、豹変したなどという言葉が投げかけられているが、私は、必ず彼は最後には容認に動くと思っていた。彼のこれまでの言動を見ていれば、彼の言うのはとりあえず大衆受けする言葉で煽っておいて、最後は適当にごまかすというのが、彼の本質であることがよく分かる。そして、彼の本当にやりたいことは、新自由主義を広め、自己責任という言葉で99%の貧困層を作り、君が代と日の丸の日本軍国主義を復活させ、アメリカに奉仕することでしかない。その上で、自分は日本の指導者になりたい。彼はそのためなら、何でもする。原発再稼働反対派、そのための手段でしかなかったから、用済みになれば簡単に撤退する。それには何のためらいもない。鉄面皮=橋下。

沖縄の海は危機にある

2012-05-28 | 南の海
梅雨の真っ最中の沖縄へ出かけていた。5泊6日の旅行だったが、そのうち一日は大雨に遭った。しかし、それ以外は、天気予報を裏切るように連日の晴天だった。
おかげで、青い空、青い海をゆっくりと見ることができた。顔は真っ黒だ。もう夏が来たように。

一日、ジュゴンがしばしばやってきている嘉陽の海岸で泳いでみようと思ったのだが、低気圧の通過で、海が濁って、とても潜る気にはならなかった。残念。でも嘉陽の砂浜海岸で、のんびりと時間を過ごし、ジュゴンの話で盛り上がった。

その後、泡瀬干潟を訪れた。泡瀬干潟は現在沖縄に残っている最大級の干潟なのだが、数年前から人工島の建設が行われ、この貴重な干潟を埋め立てている。人工島を作って何をするかというと、スポーツ公園のようなものを作るという。沖縄県民の健康のために作るのだという。裁判でも経済的な合理性が見られないとして、埋め立て差し止めが認められたが、その後の計画を見直して合理性が出てきたといって、民主党政権の国交省が埋め立て続行を認めてしまった。

最干潮が過ぎた頃に泡瀬に到着したので、有名なウミエラの群れ棲んでいる砂州には、行くことができなかったが、一見何もないような砂干潟を歩いていると、実に多様な動物や植物たちが見られる。かつて一度ここを訪れたときに見た、一面の青々とした海草の原っぱは、ほとんど無くなってしまっていた。第1期工事で、潮の流れが変わってしまったことや、工事による土砂の堆積もあり、海草の多くは枯れてしまったようだ。なんて残念なことが起こっているんだろう。スポーツジムを作るために、こんな美しい風景と多くの種類の生き物を殺さなければならないなんて、頭がどうかしているのじゃないのか。それとも頭の中はお金のことしかないのだろうか。

泡瀬では、おじいさんたちが彼らの生活のすべてをかけて埋立反対の運動をやっているのに出会った。彼らのやり方はそれぞれ違っているが、この泡瀬干潟を守ろうと一生懸命なのが伝わってくる。泡瀬干潟の正面に喫茶店兼博物館を作って反対運動の拠点を提供しているおじいがいる。喫茶店の経営はまったく赤字のようで、何年続くかと心配されている。でも、こんな店をつぶしたら、沖縄県民の恥になる。他県からやってくる観光客は、大型リゾートに泊まって、作り物の人工ビーチで遊んでいないで、こんなところをこそ見に来たらどうかと思う。博物館を兼ねたその喫茶店の名前は「ウミエラ館」。泡瀬干潟も、ウミエラ館も守っていきたい。

太陽光発電で乗り切ろう

2012-05-13 | 環境
野田内閣は、消費税増税路線をひた走りに走っている。そして、福島第一原発の事件の終息の見通しもないまま、原発の再稼働に突っ走ろうとしている。亡国内閣としかいいようがない。

 原子力ムラは、相変わらず不落城のように健在のようで、経済発展のためなら、国民の命の10万や20万はどうでも良いとばかりに、原発推進をとなえる人たちがまだまだ多い。大飯原発の再稼働を画策する関西電力は、今年の夏の電力不足を20%と唱えた。原発を再稼働させないなら、停電するぞという脅しだろう。政府もそれを見直して14.9%の電力不足と言い直したが、それでも電気が足りないぞと脅している。自然エネルギーでは安定供給はできないというのが、原発推進派の言い分であるが、政府がどれだけ一生懸命自然エネルギーへの転換を図ってきただろうか。むしろ、自然エネルギーの利用を抑えて、原発建設に邁進してきたのがこれまでの政府ではなかったか。

 新年早々、我が家は引っ越しをした。その際に、少々値段は張ったが、思い切ってソーラーパネルを設置して、太陽光発電に取り組むことにした。3月までは、留守にする時を除けば、いくら頑張っても発電量が消費電力量を上回ることは無かったが、4月からは、ほぼ我が家の使用電力は自家発電でまかなえている。さらに関西電力に売電できている。梅雨に入るとちょっと心配だが、4月から10月くらいまでは、関西電力の電気を買わないでも済みそうだ。もっとも設備費などの費用があるので、電気が無料というわけにはいかないが、少なくとも原発の電気を使わなくても良いというのは、精神的にすごくうれしい。ソーラーパネルの発電量と買電量を表示するパネルが部屋に取り付けてあるが、そのランプがオレンジ色だと買電しており、ブルーだと売電していることになる。ソーラーパネルを設置して以来、このランプが常に気になる。青いランプがつくとなんだかうれしくて、拍手したくなり、青いランプが時々オレンジに点滅し始めると、太陽頑張れとつい大きな声で応援したくなる。ランプだけではなく、数字でもいまいくら電力を使っており、発電量はいくらというのが表示板で確認できると、ついつい少しでも電気を消して回る。ソーラーパネルを設置しなくても、この使用電力の表示板だけでも、節電効果は非常に大きいのではないかと思う。

 電力会社や原子力ムラの脅しと圧力に負けないで、今年の夏を過ごしたい。エアコンは毎年使わない生活をしてきたが、新しい家はどの程度暑くなるのか、ちょっと心配している。もっとも今のところ、エアコンは買っていない。電力会社や野田政府のやり方をみていて、エアコンを買わないままに生活する決意を新たにした。

すべての原発が止まった日に

2012-05-07 | ちょっと一言

山口県柳井市まで新幹線と鈍行を乗り継いで出かけた。柳井市は、舟運の港町で、江戸時代からの蔵造りの家が建ち並ぶ町だ。「白壁の町並み」という名前を付けて、観光客を呼び込もうというのだろう。それにしては、観光客もそれほど多くないし、日帰りの客が多い。ホテルや旅館も少ないし、ホテルも古くて狭くて高い。トイレの水もまともに流れてくれない。サービスも良くない。ただ、人は親切だ。

 柳井から上関町室津に出た。室津港から船に乗って、上関原発建設予定地を見て、原発反対で頑張ってきた祝島を見に行こうと思った。何度か行っているのだが、今回は大勢の人たちといっしょで、楽しみだ。中電の工事も中断しており、再開の目処も立っていないから、祝島や長島を見ても、のんびりとした雰囲気がある。そして、ちょうど出かけた日に、日本の全原発が停止した。こどもの日に、子供たちにもっとも良い贈り物ができた。

 瀬戸内海と言うことで高をくくっていたら、風に吹かれてたいへんだった。小型のクルーザーは、波に翻弄された。船酔いする人も出た。私はなんともなかったが、船に乗り付けない人にとっては、内海の海も風が吹けばこんなに荒れるんだと勉強になっただろう。

 それでも、祝島の周辺の海は美しい。水は澄んできれいだ。15mくらいの深さでも底が見える。青い海がきらきらと輝いている。こんな美しい海を壊して原発を作ろうと考える人は、いったいどういう神経をしているのだろう。第一次産業で生きてはいけないと、祝島の人たちに言い放った中国電力の社員。彼らは第一次産業は、自分たちのようなサラリーマンより劣っていると心から思っていたのだろうか。そうでなければあのような暴言は出てこないだろう。今でも彼らはそう思っているのだろうか。社員の資格を失いたくないためだけで、あのような言葉が出てくるものだろうか。「社畜」という言葉が浮かんでくる。

 祝島で道路脇に座り込んで暇そうにしていた男たちは、都会からやってきた者どもを睥睨しているようだ。どうだ、俺たちが原発を止めたんだぞと言わんばかりに。福島の事故で反省して祝島を見学に来る都会の人間たちは、馬鹿ばかりとでもいいたいような態度が、気に掛かった。映画「ミツバチの羽音と地球の回転」や「祝の島」で、もてはやされた島の人間のおごりではないかとも思えた。「お邪魔します」と言った人に、島の男は「邪魔だと思うなら来るな」と言い放った。このような態度を取る男たちは、ひょっとしたら、島の原発容認派の人だったのだろうか。腑に落ちない思いを抱いて、祝島を後にした。