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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
聖書を一日一章、読んでみませんか。

箴言 12章

2015年11月19日 | 箴言

箴言12:15-16 愚かな人の道は、自分の目に正しく見える、しかし知恵ある者は勧めをいれる。愚かな人は、すぐに怒りをあらわす、しかし賢い人は、はずかしめをも気にとめない。

今日の箴言の前半は、神の知恵にしっかりと根を張って生きることの幸いを語っています。「正しい人の根は動くことがない」と述べられているとおりです(12:3)

後半(13節以降)は、口から出る言葉についての戒めです。「言葉」に関する教えは、このあとも多く記されているので、その機会に譲ることにして、今日は上記の聖句を取り上げてみたいと思います。

愚かな人の道は、自分の目に正しく見えるとさとしています。

人はなぜ愚かなことをしてしまうのか。それは、愚かだと分からないからです。むしろ、その人にはその道が正しく見えるからです。

主イエスも自分を十字架で殺そうとする人々について「父よ、彼らの罪をおゆるしください。彼らは何をしているのか分からないのです」と祈られたとおりです。

そのくせ、その愚かさを指摘されると愚かな人は、すぐに怒りをあらわすのです。

聖書が教える賢さとは、失敗しない賢さではありません。この世で上手く生き抜ける単なる処世術のことを言っているのでもありません。

そうではなく、間違いを素直に認めることのできることを、賢さだと教えているのです。だから今日の御言も知恵ある者は勧めを受けいれると言っています。つまり、忠告を聞き入れる柔らかい心のことです。

その勧め(忠告)は時には、自分にとって「はずかしめ」を受けることになるかもしれません。しかし、「賢い人は、はずかしめをも気にとめない」というのです。

確かに、人を辱(はずかし)めるような忠告の仕方は正しいとは思いません。同じ忠告をするにも、言い方、やり方があるはずです。

でも、その辱めの向こうにある「神のご意志」を汲み取ることのできる賢さが必要です。そのような人は、はずかしめを受けるような事態になっても、事の真意を見抜いて黙っているのです。

かつてのイスラエルの王ダビデは、アブサロムの反乱によって城を追われ命からがら逃れ行く道中、シメイという男がダビデをののしってこう言ったのです。

血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。あなたが代って王となったサウルの家の血をすべて主があなたに報いられたのだ。主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」。

これを聞いたダビデ王の側近たちは、この無礼者に対して処刑を進言したのですが、ダビデはこう答えました。

彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえと言われたからであるならば、だれが、あなたはどうしてこういうことをするのかと言ってよいであろうか(Ⅱサムエル16:10)

彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主は私の悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、私に善を報いてくださるかも知れない(同16:11-12)

このようなダビデの対応に、神からの知恵ある者の生き方を見ることができます。

この時のダビデの心は、悔いし砕けし霊魂であったに違いありません。彼はそれまでの歩みをふりかえって、様々な失敗を経験する中で、神によって“砕かれる”という経験をしてきたのです。

それは、「自分は正しい、間違っていない」と自己主張する心ではなく、神からの導きや指摘や警告を受け止める柔らかさのある心のことです。そのような心の持ち主のことを、聖書は「賢い人」と表現しています。

神が求めておられるのは、失敗のない人ではなく、「悔いし砕けし霊魂」です。失敗や挫折を通して、謙遜で砕かれた霊魂を、神は喜ばれます。

“砕かれる”という経験をした人は幸いです。神を畏れ、神に従う知恵を受けた人です。もちろん、砕かれるという経験をした人でも、いつの間にか高ぶって「自我」を再建することもあります。

しかし、一度、砕かれるという経験をした人は砕かれやすいという“心の体質”を持っています。それは丁度、砕かれた陶器の破片をもう一度つなぎ合わせてもとに戻しても、今度は少しの衝撃で再び砕けてしまうようなものです。

さあ、あなたは、砕かれるという経験から逃げて、なおも、自分の道は正しいとする人でしょうか。それとも、神からの忠告を受け入れる、砕かれた霊魂の持ち主でしょうか。(Ω)










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