ガラテヤ書 4章
そして、あなた方は子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(4・6)
先の3章では、イエスを信じて御霊を受けたことが、とても重要なことであると見ました。
聖書で啓示されている神は、三位一体(さんみいったい)の神です。御父なる神、御子なる神(キリスト)、そして御霊(聖霊)なる神です。三つの神が別々におられるのではなく、ひとりの神です。これを理屈で分かろうとしないことです。イエスを信じるようになると、直感的とでもいいましょうか、神からの霊感によって、あぁそうだなと腑(ふ)に落ちるようになるでしょう。
御父なる神は、とても大きな方で、見ることもふれることもできない。でも確かにいらっしゃる……そんなイメージです。御子なる神は、キリストとして世に来られました。人の姿で来られ、私たちに近づいて来てくださった神です。そして、御霊なる神です。御霊は信じる者の中に住んでくださる神です。このように、父…子…聖霊と、どんどんと近づいてくださる神であることが分かります。
旧約の時代……キリストが来られる以前の時代は、神は遠くに感じられました。それを象徴しているのがシナイ山です。モーセが十戒の石板を受け取った山です。この時、シナイ山に登って神に近づくのをゆるされたのはモーセだけでした。シナイ山は雲につつまれ、稲妻が鳴り響いており、人々は恐ろしくて、とても近づける状況ではありませんでした。
しかも、シナイ山の麓(ふもと)には注連縄(しめなわ)のようなものがはられていて、これ以上近づいてはならない。近づくと、神の聖さにふれて死ぬのだと言われていました。
このように、罪人にとって神は遠い存在でした。また、神は人間と共に住まおうと願っておられるのですが、人間の罪深さゆえに、そのままでは共に住むことができないのです。
さて、シナイ山で受け取った十戒の石板には律法が刻まれていて、神に近づくことのできる水準が記されていました。その水準に到達できれば、人間は神に近づくことができるし、神もその人の中に住むことができます。
そこで、旧約の人々(イスラエルの民)は、一生懸命に十戒に刻まれた律法を守ったのですが、到底その水準に到達できるものではありませんでした。
そして、ついに子なる神(イエス・キリスト)が来られました。神の方から近づいて来てくださいました。そして、十字架の血で人間の罪をきよめてくださいました。このキリストを信じる人は、罪のきよめを受けることができます。
御子が来られて、随分と神は近くになりました。それどころか、信じた者には御霊なる神がその人の中に住まわれます。これ以上近い関係はありません。これが、イエス様によって成立した新しい約束です。
それなのに、ガラテヤ教会の人々は、旧約に戻ろうとしていたわけですから、パウロは困惑したのです。「もう一度あなた方の所に行って、語調を変えて話してみたい」と願ったのです(4・20)。
さて、御霊(聖霊)が内住されるということは……、
第一に、罪がきよめられた〝しるし〟です。 換言すれば、神に義と認められたしるしであり、救いを確証する印鑑のようにして与えられました。このことは、先の第3章で述べました。
第二は、神の子どもだという〝しるし〟です。 私の内に住まわれる御霊は、神を「アバ父」と呼ぶ心をくださいました。 ※「アバ」とは「とうちゃん」という、幼な子の父に対する親しい呼び方。
御子イエス様も、神のことを「わが父」と呼ばれました。そのイエス様が私の中におられるので ―御霊が内住なさっているので―、私も神のことを「アバ父」と呼ぶことができます(4・6)。
これは理屈を越えて、天の神は私の父だと〝分かる〟のです。
肉親の父でもそうでしょう。血液型を調べたり、DNA鑑定をしたり、戸籍を根拠に、自分のお父さんを認めますか。そんな証拠があろうとなかろうと、お父さんだと分かります。そのように、御霊を受けた人は、神がお父さんだと分かります。
でも、旧約にとどまっている人 ―律法にとどまっている人― は、神のことを「主よ」としか呼ぶことができません。つまり、「主人よ」と呼んでいるわけですから、呼んでいる本人は僕(しもべ)の身分です。※4章21節以降、「女奴隷の子」と「自由の女が生んだ子」との区別がされている。
神に服従するにも、僕(しもべ)の心で恐れながら服従するのと、子の心で父を尊敬する思いで服従するのとでは違います。神の子供としての身分を受ける救いを、しっかりと受け取ってください。
さて、神の子どもであることがこんなにも素晴らしいことなのに、どうしてガラテヤの人々は容易に律法の世界に戻ってしまったのでしょうか。
実は、律法的に生きるのは人間としての性(さが)です。人の集団が生まれると「決まり」を作ります。そうしないと統率できないからです。得体の知れない〝自由〟に身をまかせるよりは、〝決まり〟によって管理するほうが容易(たやす)いのです。こうして、「決まり」という名の律法によって奴隷の身分に陥るのです。
新約の信者は奴隷ではなく神の子たちです。律法の下にいるのではなく御霊によって生きる者です。しかし、御霊によって生きることをやめてしまうと、容易に律法の生き方に逆戻りしてしまいます。 ※罪人という奴隷の性(さが)は、律法で管理されることに親和性がある。
だから、御霊によって目をさましていよう。聖霊の油を絶やさないようにしよう。「御霊によって生きる」という生活は、意識的にそうしないと身につきません。せっかく御霊によって神の子どもとされたのに、神の子であるキリストの姿は薄れて行きます。
だからパウロは、「ああ、私の幼な子たちよ。あなた方の内にキリストの形ができるまでは、私はまたもや、あなた方のために産みの苦しみをする」と述べています(4・19)。
本来、私たち人間は神のかたちに創造されたのですが、神はそのかたちを回復するために産みの苦しみをなさっています。その回復過程の基本が「アバ父よ」と呼ぶ御子の御霊なのです。
この御霊によって神を「おとうさん」と呼ぶのです。神の子どもとしての本来の姿を回復するのです。こうして、神の御子であるキリストのかたちが回復して行きます。ですから、今日も神に向かって「おとうさん」と親しく呼んで生きよう。
そして、あなた方は子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。(4・6)
先の3章では、イエスを信じて御霊を受けたことが、とても重要なことであると見ました。
聖書で啓示されている神は、三位一体(さんみいったい)の神です。御父なる神、御子なる神(キリスト)、そして御霊(聖霊)なる神です。三つの神が別々におられるのではなく、ひとりの神です。これを理屈で分かろうとしないことです。イエスを信じるようになると、直感的とでもいいましょうか、神からの霊感によって、あぁそうだなと腑(ふ)に落ちるようになるでしょう。
御父なる神は、とても大きな方で、見ることもふれることもできない。でも確かにいらっしゃる……そんなイメージです。御子なる神は、キリストとして世に来られました。人の姿で来られ、私たちに近づいて来てくださった神です。そして、御霊なる神です。御霊は信じる者の中に住んでくださる神です。このように、父…子…聖霊と、どんどんと近づいてくださる神であることが分かります。
旧約の時代……キリストが来られる以前の時代は、神は遠くに感じられました。それを象徴しているのがシナイ山です。モーセが十戒の石板を受け取った山です。この時、シナイ山に登って神に近づくのをゆるされたのはモーセだけでした。シナイ山は雲につつまれ、稲妻が鳴り響いており、人々は恐ろしくて、とても近づける状況ではありませんでした。
しかも、シナイ山の麓(ふもと)には注連縄(しめなわ)のようなものがはられていて、これ以上近づいてはならない。近づくと、神の聖さにふれて死ぬのだと言われていました。
このように、罪人にとって神は遠い存在でした。また、神は人間と共に住まおうと願っておられるのですが、人間の罪深さゆえに、そのままでは共に住むことができないのです。
さて、シナイ山で受け取った十戒の石板には律法が刻まれていて、神に近づくことのできる水準が記されていました。その水準に到達できれば、人間は神に近づくことができるし、神もその人の中に住むことができます。
そこで、旧約の人々(イスラエルの民)は、一生懸命に十戒に刻まれた律法を守ったのですが、到底その水準に到達できるものではありませんでした。
そして、ついに子なる神(イエス・キリスト)が来られました。神の方から近づいて来てくださいました。そして、十字架の血で人間の罪をきよめてくださいました。このキリストを信じる人は、罪のきよめを受けることができます。
御子が来られて、随分と神は近くになりました。それどころか、信じた者には御霊なる神がその人の中に住まわれます。これ以上近い関係はありません。これが、イエス様によって成立した新しい約束です。
それなのに、ガラテヤ教会の人々は、旧約に戻ろうとしていたわけですから、パウロは困惑したのです。「もう一度あなた方の所に行って、語調を変えて話してみたい」と願ったのです(4・20)。
さて、御霊(聖霊)が内住されるということは……、
第一に、罪がきよめられた〝しるし〟です。 換言すれば、神に義と認められたしるしであり、救いを確証する印鑑のようにして与えられました。このことは、先の第3章で述べました。
第二は、神の子どもだという〝しるし〟です。 私の内に住まわれる御霊は、神を「アバ父」と呼ぶ心をくださいました。 ※「アバ」とは「とうちゃん」という、幼な子の父に対する親しい呼び方。
御子イエス様も、神のことを「わが父」と呼ばれました。そのイエス様が私の中におられるので ―御霊が内住なさっているので―、私も神のことを「アバ父」と呼ぶことができます(4・6)。
これは理屈を越えて、天の神は私の父だと〝分かる〟のです。
肉親の父でもそうでしょう。血液型を調べたり、DNA鑑定をしたり、戸籍を根拠に、自分のお父さんを認めますか。そんな証拠があろうとなかろうと、お父さんだと分かります。そのように、御霊を受けた人は、神がお父さんだと分かります。
でも、旧約にとどまっている人 ―律法にとどまっている人― は、神のことを「主よ」としか呼ぶことができません。つまり、「主人よ」と呼んでいるわけですから、呼んでいる本人は僕(しもべ)の身分です。※4章21節以降、「女奴隷の子」と「自由の女が生んだ子」との区別がされている。
神に服従するにも、僕(しもべ)の心で恐れながら服従するのと、子の心で父を尊敬する思いで服従するのとでは違います。神の子供としての身分を受ける救いを、しっかりと受け取ってください。
さて、神の子どもであることがこんなにも素晴らしいことなのに、どうしてガラテヤの人々は容易に律法の世界に戻ってしまったのでしょうか。
実は、律法的に生きるのは人間としての性(さが)です。人の集団が生まれると「決まり」を作ります。そうしないと統率できないからです。得体の知れない〝自由〟に身をまかせるよりは、〝決まり〟によって管理するほうが容易(たやす)いのです。こうして、「決まり」という名の律法によって奴隷の身分に陥るのです。
新約の信者は奴隷ではなく神の子たちです。律法の下にいるのではなく御霊によって生きる者です。しかし、御霊によって生きることをやめてしまうと、容易に律法の生き方に逆戻りしてしまいます。 ※罪人という奴隷の性(さが)は、律法で管理されることに親和性がある。
だから、御霊によって目をさましていよう。聖霊の油を絶やさないようにしよう。「御霊によって生きる」という生活は、意識的にそうしないと身につきません。せっかく御霊によって神の子どもとされたのに、神の子であるキリストの姿は薄れて行きます。
だからパウロは、「ああ、私の幼な子たちよ。あなた方の内にキリストの形ができるまでは、私はまたもや、あなた方のために産みの苦しみをする」と述べています(4・19)。
本来、私たち人間は神のかたちに創造されたのですが、神はそのかたちを回復するために産みの苦しみをなさっています。その回復過程の基本が「アバ父よ」と呼ぶ御子の御霊なのです。
この御霊によって神を「おとうさん」と呼ぶのです。神の子どもとしての本来の姿を回復するのです。こうして、神の御子であるキリストのかたちが回復して行きます。ですから、今日も神に向かって「おとうさん」と親しく呼んで生きよう。
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