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朝マナ

人はパンだけで生きるのではなく、神の御言によって生きる。
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詩篇 137篇

2015年01月09日 | 詩篇 第5巻

詩篇137:1 われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。

人々にとってバビロン捕囚は悲しくつらい思い出です。詩人はその時のことを思い出しています。奴隷としての重労働もつらかったけれど、それ以上につらかったことは、主を馬鹿にされたことでした。

バビロンの人々からは、「お前たちの神はどこにいるのか?。そんな当てにならない神よりは、バビロンの神々を拝んだらどうだ」と、からかわれ、笑われたのです。

詩人はその時の様子を述べています。

我らをとりこにした者が、我らに歌を求めたからである。我らを苦しめる者が楽しみにしようと、『シオンの歌をひとつ歌えと言った。我らは外国にあって、どうして主の歌を歌えようか(137:3)

「シオンの歌」とは、主への賛美歌のことです。つまり、バビロンの人々は酒宴の席で、「お前たちの神をほめたたえる歌でも歌って見ろ!」と、おもしろ半分にけしかけたわけです。

そこで、「我らの主は全地を支配される神……」などと歌おうものなら、彼らは、あはは~っと笑って、「それなら、どうしてお前たちは奴隷なのだ。お前たちの神は無能なのか。そんな神など早く見切りをつけてしまえ!」と大いに侮(あなど)ったのです。

今日のクリスチャンにも同じような状況があります。イエス様を信じていても、すべてが順調なわけではないからです。私たちの信仰は、悪いことが起きないための「お守り」ではないのです。

ですから、失敗や挫折のどん底を味わうこともあります。つまり、「バビロン捕囚」といえる出来事があります。そして、世の人々からは、それでもイエスは神なのかとからかわれます。

私たちが馬鹿にされる前に、十字架上の主がそうでした。「お前が神の子なら、何で十字架になんかに付けられているのか。おりて見よ。そうしたら信じてやるよ」と侮られました。

苦しみや悲しみに意味を見出せない「ご利益主義の人々に、キリスト教は分かりません。そして、そのような人々は、「バビロン捕囚」に出くわすと、キリストから離れて行くのです。

この詩人の友人たちの中にも、信仰を捨てた者もいたことでしょう。そんな悔しい思いをしながら、彼はバビロン川のほとりで涙しながら祈りました。

エルサレムよ、もし私があなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください(137:5)とは、どんな不利な状況の中であっても、神への信仰を捨てることがないように……という願いを込めた誓いです。

あなたにとってバビロン捕囚と言える出来事は何でしょうか事業や家庭の破綻でしょうか。親しい家族や友との死別でしょうか。人には様々な「バビロン捕囚」と言える試練があります。

でも、この詩人のように、なおも主を信じ続ける中で、神の深いなぐさめと出会いが導かれるに違いありません。

人間的に見れば、バビロン捕囚は、神から見捨てられたことをあらわしていました。しかし、そのような苦境の中にも、神は共におられることを知ることは何と幸いなことでしょうか。

バビロンで苦しみの中にある民に向かって、神は預言者エゼキエルを通してこう語られました。

主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる(エゼキエル11:16)

今までは恵まれた環境の中で神と出会っていたが、そうではなく、試練や挫折の中にも神は共にいることを、お前たちは知ることになるのだと、主は言われたのです。そして、このことを通して、民はきよめられ、さらに一段と神との関係が深まるのです。

最後まで信じ続けてください。試錬を耐え忍ぶ人は、幸いである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるのですから(ヤコブ1:12)。(Ω)



 



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