詩篇137:1 われらはバビロンの川のほとりにすわり、シオンを思い出して涙を流した。
人々にとってバビロン捕囚は悲しくつらい思い出です。詩人はその時のことを思い出しています。奴隷としての重労働もつらかったけれど、それ以上につらかったことは、主を馬鹿にされたことでした。
バビロンの人々からは、「お前たちの神はどこにいるのか?。そんな当てにならない神よりは、バビロンの神々を拝んだらどうだ」と、からかわれ、笑われたのです。
詩人はその時の様子を述べています。
「我らをとりこにした者が、我らに歌を求めたからである。我らを苦しめる者が楽しみにしようと、『シオンの歌をひとつ歌え』と言った。我らは外国にあって、どうして主の歌を歌えようか」(137:3)。
「シオンの歌」とは、主への賛美歌のことです。つまり、バビロンの人々は酒宴の席で、「お前たちの神をほめたたえる歌でも歌って見ろ!」と、おもしろ半分にけしかけたわけです。
そこで、「我らの主は全地を支配される神……」などと歌おうものなら、彼らは、あはは~っと笑って、「それなら、どうしてお前たちは奴隷なのだ。お前たちの神は無能なのか。そんな神など早く見切りをつけてしまえ!」と大いに侮(あなど)ったのです。
今日のクリスチャンにも同じような状況があります。イエス様を信じていても、すべてが順調なわけではないからです。私たちの信仰は、悪いことが起きないための「お守り」ではないのです。
ですから、失敗や挫折のどん底を味わうこともあります。つまり、「バビロン捕囚」といえる出来事があります。そして、世の人々からは、それでもイエスは神なのかとからかわれます。
私たちが馬鹿にされる前に、十字架上の主がそうでした。「お前が神の子なら、何で十字架になんかに付けられているのか。おりて見よ。そうしたら信じてやるよ」と侮られました。
苦しみや悲しみに意味を見出せない「ご利益主義」の人々に、キリスト教は分かりません。そして、そのような人々は、「バビロン捕囚」に出くわすと、キリストから離れて行くのです。
この詩人の友人たちの中にも、信仰を捨てた者もいたことでしょう。そんな悔しい思いをしながら、彼はバビロン川のほとりで涙しながら祈りました。
「エルサレムよ、もし私があなたを忘れるならば、わが右の手を衰えさせてください」(137:5)とは、どんな不利な状況の中であっても、神への信仰を捨てることがないように……という願いを込めた誓いです。
あなたにとって「バビロン捕囚」と言える出来事は何でしょうか。事業や家庭の破綻でしょうか。親しい家族や友との死別でしょうか。人には様々な「バビロン捕囚」と言える試練があります。
でも、この詩人のように、なおも主を信じ続ける中で、神の深いなぐさめと出会いが導かれるに違いありません。
人間的に見れば、バビロン捕囚は、神から見捨てられたことをあらわしていました。しかし、そのような苦境の中にも、神は共におられることを知ることは何と幸いなことでしょうか。
バビロンで苦しみの中にある民に向かって、神は預言者エゼキエルを通してこう語られました。
「主なる神はこう言われる、たといわたしは彼らを遠く他国人の中に移し、国々の中に散らしても、彼らの行った国々で、わたしはしばらく彼らのために聖所となる」(エゼキエル11:16)。
今までは恵まれた環境の中で神と出会っていたが、そうではなく、試練や挫折の中にも神は共にいることを、お前たちは知ることになるのだと、主は言われたのです。そして、このことを通して、民はきよめられ、さらに一段と神との関係が深まるのです。
最後まで信じ続けてください。「試錬を耐え忍ぶ人は、幸いである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受ける」のですから(ヤコブ1:12)。(Ω)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます