私は霊で祈ると共に、知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に、知性でも歌おう。(14・15)
聖霊によって各自に分け与えられたカリスマ(賜物)の中でも、異言(いげん)と預言について14章は記しています。
両者に共通していることは、「言葉」に関するカリスマです。ただし、異言は何を言っているのか分かりませんが、預言は普段使う言葉で語ります。しかし、両方とも聖霊によって語ることです。
両方とも「言葉」に関する賜物であることは興味深いことです。なぜなら、人が最も制御しにくいのが言葉、つまり「舌」であるからです。
ピアニストは指を巧みに制御しています。サッカー選手は足を巧みに制御しています。しかし、「舌」を制御できる人はいません。舌を制御できる人は「完全な人だ」と聖書は記しています(ヤコブ3・2)。
この「舌」は船の舵(かじ)のように、小さくても大きな船体の行き先を決めてしまいます。つまり、私の舌が何を語るかによって、人生の行き先を決めます。他者の人生を左右さえします。
だから、この「舌・言葉」を聖霊によって支配していただく人は幸いです。
聖霊による賜物の顕著な現れとして、異言と預言があげられているのは、それほど聖霊が舌(言葉)を支配なさることが重要であることの証拠です。 ※9つあげられた聖霊の賜物の中で、「異言」と「預言」の他に、「知恵の言葉」「知識の言葉」「異言の説き明かし」と、言葉に関する賜物が半数以上である。
異言は何を言っているのか分からないので、異言を説き明かす人がいないなら、公の場では慎むように勧めています(Ⅰコリ14・26~27)。
かたや預言とは、神の御言を預かって語ることです。旧約の時代は、預言者が神の御言を預かって語りました。新約の時代になって、神の御言はイエス・キリストとなって世に現されました。そういう意味で、イエス・キリストを伝えることは預言といえます。もう少し平易に表現するなら、キリストが語られるように語ることです。
コリント教会への手紙は、異言も大切だが、それ以上に皆が預言をしなさいと勧めています(14・1、5、39)。それは、キリストを伝え、キリストのように語ることが、だれにも必要な賜物だからです。
たとえば、人から相談を受けたとき、どう語って良いだろうかと悩みませんか。イエス様を伝えたいのに適切な言葉が出てこないのです。ところが、不思議と聖霊によって言葉が与えられ、その言葉によって人が活かされ、励まされます。
これは預言の賜物です。だから、教会の人間関係が建て上げられるためには、クリスチャンであればだれでも預言のカリスマが必要です。
なのに、肉の力で語り、肉で対応して人を傷つけたり、人生の方向性まで歪めることもあります。まさに、舌は制しにくい悪であり、人生航路の行き先を決めてしまう舵です。
ですから、聖霊が自分の舌を支配なさるように求めます。預言の言葉で語ることができるように求めます。私たちのチョットした普段の対応に、預言の賜物は必要なのです。
聖霊によって語るとき人間関係は建て上げられます。しかし、肉なる言葉の応酬は教会の交わりを壊すことが多いのです。
預言は「教会の徳を高める」とありますが、それは教会を建て上げることを意味しています。聖霊によって与えられた言葉……すなわち預言は、教会の交わりを整えてキリストの体なる教会として建て上げるのです。それが、教会の徳を高めることです(14・4)。
そうは言うものの、異言も大切です。今日の聖句は、「霊で祈ると共に、知性でも祈ろう」と記されていますが、「霊で祈る」とは異言で祈ることです。「知性で祈る」とは普段使っている言葉で祈ることです(14・15)。もちろんこの場合も、異言のことを知らない人が同席する場合は慎むようにと勧めています。
コリント教会では、パウロが注意しなければならないほど異言が一般的であり、多くの人があちらでも、こちらでも異言で語るなど、異言で賑やかな教会だったようです。だから、知性の祈りも大切であることを戒めたわけです。
しかし、逆に知性で祈ることばかりに偏っていて、霊の祈りが沈滞している場合もあります。聖霊のカリスマは初代教会の時代で終わったとする神学もそれを後押ししてます。
知性での祈りは、知性の領域に実を結びます。しかし、この知性の領域は、見えない霊の範囲からすれば、わずかな領域です。実は、私たちの知性では把握できないほどの広さや深さを持っているのが霊です。
海面に浮かぶ氷山は、海面に出ている部分はわずかで、その数十倍が海面下に隠されています。そのように、海面に現れているのは知性の領域ですが、海面下には大きな霊の領域が隠されています。
私の知性では、あのことが必要だと感じて祈ります。持っている知性を総動員して、私の思いを神に祈ります。しかし、私の霊はもっと深い必要を知っています。もっと先の必要、天における永遠を見据えた上での必要を求めています。目に見えない霊的な世界の戦いの必要を感じています。
しかし、私の知性では、それを祈り切ることができません。把握し切れないのです。言葉にできずに、もどかしさを覚えています。
「人の思いは、その内なる霊以外にいったいだれが知っているだろうか」(Ⅰコリ2・11)と記されているように、私の真の必要は、私の霊が知っています。かたや知性が知りうる範囲はほんのわずかです。
だから、私の霊は祈りたいのです。言葉にして祈れるのであれば、今にでも祈り出したいのです。それを祈れるようにしてくださったのが霊による祈り。つまり異言で祈ることです。
ですから、異言で祈っても知性は実を結びません(14・14)。しかし、私の霊は満たされます。私の霊はいやされ、きよめられ、実を結んで行きます。霊の深い部分から満たされるためにも、異言で祈ります。こうして、異言は自分自身を建て上げるのです。
異言で祈ることは「自分自身の徳を高める」とありますが(14・4)、徳を高めるとは「建て上げる」という意味の「オイユドメオー」というギリシャ語です。預言は「教会を建て上げる」のに対して、異言は「自分自身を建て上げる」ことになるのです。
霊で祈ることと、知性で祈ることがバランス良く成されますように……。
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