とうちゃんのぷらぷら日記

アウトドア系の日記及びうんちく

高村光太郎の審美眼

2017-08-26 00:03:31 | 音楽 美術
「書を見るのはたのしい。画は見飽きることもあるが、書はいくら見ていてもあきない。
またいくどくり返しみても、そのたびに新しく感じる。」・・・・書の深淵

「神護寺の薬師はまったくいい。特殊なもので、ああいうものはあれだけぽっつり在るのだけれど、いろいろな方面から考えてあの像は大変面白い。・・・中略・・・神護寺の薬師になると丸鑿(まるのみ)の絶頂なのだ。あれは最もいい条件で丸鑿を使って居り、丸鑿でしゃくってあるけれども非常に謹んで使っていて決してやり過ぎていない。・・・中略・・・あの像は技術の上からも非常に立派なもので、素晴らしいと思う。」

「更に遡れば、私は夢殿の観音を最高のところに置きたい。此は彫刻などと呼ぶ以上に精神的な部類に入って了ふ。この御像は彫刻の技術としては不器用であるけれども、その不器用な所が素晴らしい。彫刻的には不調和で無茶苦茶な作であるが、寧ろその破綻から良さが出て来て居り、完全に出来ていない所から命が湧いて来ている例である。」
・・・・・・・・・・・以上 高村光太郎選集、回想録より

「ロダンなんかでも、まだ「考える人」あたりはあぶらっこいが、しまいの「法王の首」なんか作った時代のはとてもいい。けれども多くの人はそれを認めない。やはり大きいものをこしらえた時代がいちばん全盛時代だなと思う。そして、晩年小さくなってくると、いくらか下り坂なんだろうぐらいに思っている。けれどもロダンのいちばんいいのは、いちばん終わりにこしらえたピオ何世かの「ローマ法王の首」なんだ。これはもう本当に芸術だけになったような人の作品だね。ミケランジェロだっていちばんしまいの「ロンダニーニのピエタ」、あれがいちばんいいんだよ。「モーゼ」なんかはまだあくどい。」
・・・・・晩年の高村光太郎より

どうでしょう、これらの高村光太郎の言葉。
さすがは高村光太郎、ただ者ではありません。
その見識の深さに脱帽いたしました。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿