イタリアより

滞在日記

カターニアにてその2.「象」のお話

2020年10月25日 | カターニア

青空に映えるカターニアのマスコットの象
Fontana dell`Elefante(像の噴水)
下方には噴水がある

カターニア/ドォーモ広場にて
2019年12月21日撮影


カターニアのシンボルとなる象。折角なので、町の人たちから´ Liotru (リオトル)´と呼ばれているこのマスコットの象のお話を少しだけ。

エトナ山の溶岩で出来たこの「黒い象」については長い間、専門家たちが研究してきましたが、いつ、誰が、どのような意図で作ったのか、今もって詳細は分かっていません。ウィキペディアのイタリア版によると、1239年に公式のカターニアのシンボルになった、とあるから、まさにあのシチリア王フェデリーコ二世の時代からこの象は町の紋章として人々に慕われてきたことになります。


鷹狩が趣味だったフェデリーコ二世

動物学にも造詣が深く
異国の動物も自ら飼育していたらしい


「象の原点」として、12世紀にシチリアを訪れた地理学者イドリスが唱える『カターニアの人々は、象を魔法の像と見なし、エトナ山の噴火から町を守る」とする解釈が、今では受け入れられているそうですが、その誕生には、森には象が住んでいたとする説や古代サーカスの象とするものや、その他神話や魔術師ヘリオドロスが登場する荒唐無稽な都市伝説に至るまで実に様々です。どちらにしてもはるか昔から伝承されるこの象は、現在、市章や大学の紋章、地元のスポーツ団のマスコット等にもなっていて、町のそこかしこで見かけます。

カターニアの市章

アルファベッドのAはカターニアの守護聖人・Agataの頭文字
S.P.Q.Cは、ラテン語でSenatus Populus que Romanus 「ローマの元老院と市民」の意


先のウィキペディアには、この象が町の紋章となる前は、聖ジョルジョがシンボルだったとあります。象をそれにとって変えたのは、カターニアの人々の、それまでの世俗領主を兼ねた司教たちの支配から、自分たちの住む町を国有都市に変えるとした強い決意でした。幾度もの反乱を経て、その成功をもたらしたのが、フェデリーコ二世です。そうして1239年、彼が署名した公式の認可をもって、この象が市の紋章になったのだとか。


ドラゴン退治で有名な古代ローマの殉教者聖ジョルジョ

ウィキペディアより



モスクワの市章になっている聖ジョルジョ

こんな勇壮なジョルジョがカターニアの紋章にもデザインされていたのかも知れません


そういえば、フェデリーコ二世は、動物学にも造詣が深く、異国の動物たちも愛しました。自身の庭園では、キリンやライオン、ラクダ、そして、象なども飼育し、行く先々にこれらの動物も従えていたというから、「象」が、人々の総意の元、新しい町のシンボルになるのは喜ばしいことだったかも知れません。いや、法治国家と政教分離を目指していた稀有な天才王の、もしかしたら、これは策略だったかも!…は、私の妄想ストリーです。なお、ウィキペディアによると、この紋章が公式におひろめされたのは、翌年1240年のこと。後のイギリス議会のモデルとなったともいわれるフォッジャで開催された帝国議会でした。各都市から集結した官僚や議員たちは、新しい紋章を見てさぞかし驚いたことでしょう。何しろドラゴンを倒した殉教者「聖・ジョルジョ」からコロンとしたかわいい「象」に変わっているのだもの。

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2 コメント

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破門も意に介さず (toma)
2020-11-02 17:49:58
kazuさんへ
ルッジェロ二世の戴冠(マルトラーナ教会のモザイク)とグイエルモ二世の戴冠(モンレアーレ大聖堂のモザイク)を思い浮かべてください。

フリードリッヒは、法王からでもなく大司教からでもなく、イエス・キリスト自らの手で王冠を授けられるシチリアの王たちを見ながら育ったのであった。そして、この少年時代のこの体験に加えて、成長した後に彼自らの胸のうちで確かになっていった考えがプラスされる。信者たちの精神面でのケアや死後の安心はローマ法王の管轄下にあることは認めるが、それ以外の世俗の世界における実際の生活面に関してならば、責任はあくまでも皇帝や王にある、という考えだ。(略)だからこそ、『メルフィ憲章』中の各法令は「皇帝が命令する」とういう言葉で始まっている。この法律を制定したのは自分であり、その公正な執行も皇帝である自分が全責任をもつ、ということの宣言だ。現代人が読めば救いようもないくらいの保守反動に聴こえるが、あの時代ではこのような書き方でもしない限りは実現不可能な、実に大胆でキリスト教世界の君主としてはリスクをおかさずにはやれないことの第一である、「政教分離宣言」でもあったのだ。(皇帝フリードリッヒ二世の生涯上 塩野七生 206~207頁)
tomaさんへ (kazu)
2020-11-03 20:55:04
こんばんは。コメントをありがとうございます。ほんとですね。昨年のパレルモやモンレアーレの聖堂を懐かしく思い出しています。そして戴冠式の場面も。行くときは、ルッジェーロ二世の煌びやかな世界観に思いを抱いていましたが、実際に歴史、といっても一部ですが、それでも辿っていけば、なんといってもシチリアではこのフェデリーコ二世が魅力的で、この時代に、何事も宗教にとらわれない生き様は、知れば知るほど凄いと感嘆の思いです。紹介して下さった塩野さんの著書は、読み物として面白くて、もう一気読みでしたが、tomaさんのお陰で、もうちょっと丁寧に再読しなければと思いました。行間には沢山の歴史が隠れていますよね。そうそうパレルモの聖堂に、ルッジェーロ二世とフェデリーコ二世の棺が手前側と奥に並んで置かれていましたが、ルッジェーロ二世の棺の方がやっぱりキンピカなのが印象的でした。

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