世相を斬る あいば達也

民主主義や資本主義及びグローバル経済や金融資本主義の異様さについて
定常で質実な国家像を考える

“米・財務・経団連教の熱烈信者” 野田首相の「国益」はファッショに繋がる

2011年11月17日 | 日記
善人ほど悪い奴はいない ニーチェの人間学 (角川oneテーマ21)
中島 義道
角川書店(角川グループパブリッシング)



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“米・財務・経団連教の熱烈信者” 野田首相の「国益」はファッショに繋がる



 最近、野田首相の口から、やたらと「国益、国益、国益」と云う言葉が連発されている。マスメディアも「国益とはなんぞや」について、まったく触れもせず、誰もが知っている、全国民のコンセンサスがある言葉のように垂れ流す。筆者は、野田君が連発する「国益」と云う言葉に極めてファシズム的危険を感じている。その上、本人がファシズム的自覚がないようなので、余計に困りものである。

 「国益を損ねてまで交渉に参加することはない。協議が調うよう全力を尽くすが、国益を明らかに損ねる時の判断はある」、と参議院予算委員会で質問に答えている。取り敢えず、国民も、そうか「国益」日本の利益を考えて慎重に判断してくれるのだな?と受けとめる人が多いだろう。誰も、チョット待てよ?アンタの云う「国益」って誰にとっての国益だ?俺たち庶民にとっての話しか?それとも、いま日本を支配している権力者にとっての国益か?「いやいや、そう云う個人のレベルじゃなく、国家にとっての利益ですよ」。こんな説明で納得する人々も多いのだろうが、納得しない人々も相当いるのだろう。

 そもそも「国益」と云う言葉は、実に曖昧にして主観的なものだ。特に、アメリカ教、財務教、経団連教の熱烈信者として誉れ高き野田佳彦の「国益」なのだから、こりゃどう考えても、一般国民や国家を構成する経団連以外の組織の利益も含まれていると、俄かに信じるのは早計だろう。国の利益って“ひと言”でいわれても、ちっとも判らん。そうなると、そこでいうところの「国」って何なのよ?と云う事になる。おそらく、国体の構成に関わるすべての人々や組織にとってと云う事なのだろうが、それだって雲を掴むような具合だ。あまり議論をしたくない時は、 “なるほど、そう云う事ですか”と話題を替え、鉾をおさめるべきところだが、拙コラムではそうもいくまい。(笑)

 「国益」は読んで字の如く、国の利益だ。この「国益」と云う日本語は江戸時代の諸藩の「地産地消」、「自給自足」による経済的自立の考えから使われだしたようだ。明治維新後は経済合理性の概念として多用されだしたモノのようだ。野田君が主に駆使する「国益」は国家が独立継続を維持する為の、物理的、社会的、政治的、経済的ファクターを国家維持の価値と考えて使っている積りのようだ。つまり、国家の独立維持における“損得勘定”が国家価値の維持であり継続だと思っているのだろう。それをひと言で称するのが「国益」だ。

 ただ、この「国益」と云う言葉は、国家価値と云う概念が異なる度に、「国益」の現実的意味は異なる。主観的と云うより、依拠する立ち位置によって、語られる「国益」そのものが持つ具体的判断は異なる。つまりは、極めて曖昧な国家価値の概念を、一人の人間の価値観に委ねる、と云う事でもある。この世では忘れられかけている“イデオロギー”の色彩まで帯びるのである。現代では、外交上使われることが増えているが、「国益」の根っ子はイデオロギー論争になるものだ。多分、野田君の気軽に口にする「国益」は外交上の妥協の言い訳用に準備された語彙だろうが、国家価値の理念優先ではなく、外交交渉における妥協のエクスキューズとして振り撒かれる言葉として理解したい。

 外交上の妥協のエクスキューズ用の語彙だとしても、「国益」の価値決定において、総理とか時の政府が勝手気ままに、「これが国益」と定義される危険な兆候と見ることも出来る。民意を蔑にと云うか、選挙の洗礼も受けていない野田政権が、勝手に判断する「これが国益」が通用するのであれば、中国と戦争するのも「これが国益」が通用する事になる。つまり、政治家が極めて我田引水的状況で「国益」を語り出すのは危険な兆候で、あらゆる政治的判断行動を「国益に鑑み」で切り抜けるファシズム政治に陥る兆候と云う事だ。まして、野田首相は個人的に偽善的体質を有し、“アメリカ教、財務教、経団連教の熱烈信者”なのだから、おして知るべし。


財界の正体 (講談社現代新書)
川北 隆雄
講談社



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