我ながら、しつこい。しつこいのは嫌いなのに
う~ん、それにしても・・・
「人間の気と絶縁した冷たさ」かぁ・・・
改めて思えば、男は満開の桜を恐れたのでなく、「満開の下」が怖かったのですね。
読み直してみると、桜の花が怖ろしいとは、どこにも書いてありません。下なんですよ、満開の桜の下。そこに注目しなかったのは迂闊だな~
それを思うと、「桜の森の満開の下」の「秘密」は、これを最初に読んだ時に感じた「虚無感」に戻ってしまいます。
堂々巡りをして、変にこねくり回した挙句、振り出しに戻る
虚無感は、孤独よりもなお酷い。
無常感のほうがよほど救いがある。
虚しい、空っぽだ、何も無い。
空洞の器すらない。
孤独は、他者がいてこそ感じるものだ。
大勢の人の中にいて寂しいと感じるならば、それは孤独だ。
愛する人と二人でいてもなお寂しければ、いっそうに孤独を感じるだろう。
それは何も珍しいことじゃない。私だってそう感じる時がある。誰もが孤独だ。
しかし、人は基本的に孤独なのかもしれないが、それならば尚のこと、孤独の全てをネガティブに捉えて絶望する必要はないと思う。
孤独が生きるバネになることもあるし、多くの芸術は孤独から生まれる。孤独だからこそ、人の情けが身に染み、たまに誰かと心が響きあえば嬉しい。
「孤独には救いがない」と言う人もいるが、私はそう思わない。私は孤独が怖ろしくない。怖ろしいのは、孤独のみを見つめ過ぎることだ。
・・・などど、孤独について勝手に呟いている場合じゃなかった(笑)
だけれども、虚無は違います。虚無感には救いがありません。
虚無をどっぷりと感じれば、生も死も虚しく、自分の命さえ惜しむ価値がなく、何も怖くない。何も感じない。肉体どころか魂もない。
何かもが虚(うつ)ろです。
・・・危険だ。
もし、この「桜の森」の、木の下の秘密が「虚無」なのだとしたら、読者がこの男に同調すると甚だしく病的で、不健康極まりない怖ろしい世界を味わうことになりそうです。
孤独を感じる迄にどどめておくか、私のように、あさっての方向へ脱線して読んでみるほうがまだマシかもしれません。
なにせ、「一つの小説に無数の解釈があるのだから、一つの解釈が真実ではない(by安吾)」ですから。(←ちょっと言い訳)
・・・というわけで、
ここで頓挫したので、「運命の女」、ファム・ファタールや美女についてと、「恋愛と孤独」に関しては、機会があればまたいつか。
いや~、それにしても、面白かったです。
このブログは更新が少ないのでアクセス数もそれなりに多くはないですが、それでもわりと舞台の題名などで検索して来られる方が多いんですよね。
どうやらbot系に好かれているみたいなんで(笑)
でも、これだけ書いても坂口安吾で検索して来られる方がいない、というのは、そのぶん恥をかかずに済んでほっとしましたが(笑)、つまり、これを読んでくださる皆さんはたぶん「いつもの方」で、エンタメ関係に興味のある方ですよね?
あ~、きっとそうですよねぇ。
まあまあ、本当にすみません、こんな赤恥ものの、ぐるぐるした読書ノートにお付き合いさせてしまって。
それでは、お詫びになるかどうかわかりませんが、次回は去年セルリアンタワー能楽堂で観た「綺譚 桜の森の満開の下 」の「いまさら感想記」を書きましょうか。
えっ? 「もういい!うんざりだ!」って??
ふっ、ふっ、ふ・・・
と、謎の笑いを残して、次回へ続く・・・のか?