今宵も劇場でお会いしましょう!

おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

いつかどこかで(60)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(6)

2015年02月20日 16時37分18秒 | いつかどこかで(雑記)

我ながら、しつこい。しつこいのは嫌いなのに

う~ん、それにしても・・・
「人間の気と絶縁した冷たさ」かぁ・・・

改めて思えば、男は満開の桜を恐れたのでなく、「満開の下」が怖かったのですね。
読み直してみると、桜の花が怖ろしいとは、どこにも書いてありません。下なんですよ、満開の桜の下。そこに注目しなかったのは迂闊だな~
それを思うと、「桜の森の満開の下」の「秘密」は、これを最初に読んだ時に感じた「虚無感」に戻ってしまいます。

堂々巡りをして、変にこねくり回した挙句、振り出しに戻る


虚無感は、孤独よりもなお酷い。
無常感のほうがよほど救いがある。

虚しい、空っぽだ、何も無い。
空洞の器すらない。

孤独は、他者がいてこそ感じるものだ。
大勢の人の中にいて寂しいと感じるならば、それは孤独だ。
愛する人と二人でいてもなお寂しければ、いっそうに孤独を感じるだろう。

それは何も珍しいことじゃない。私だってそう感じる時がある。誰もが孤独だ。
しかし、人は基本的に孤独なのかもしれないが、それならば尚のこと、孤独の全てをネガティブに捉えて絶望する必要はないと思う。
孤独が生きるバネになることもあるし、多くの芸術は孤独から生まれる。孤独だからこそ、人の情けが身に染み、たまに誰かと心が響きあえば嬉しい。
「孤独には救いがない」と言う人もいるが、私はそう思わない。私は孤独が怖ろしくない。怖ろしいのは、孤独のみを見つめ過ぎることだ。

・・・などど、孤独について勝手に呟いて
いる場合じゃなかった(笑)


だけれども、虚無は違います。虚無感には救いがありません。
虚無をどっぷりと感じれば、生も死も虚しく、自分の命さえ惜しむ価値がなく、何も怖くない。何も感じない。肉体どころか魂もない。
何かもが虚(うつ)ろです。

・・・危険だ。
もし、この「桜の森」の、木の下の秘密が「虚無」なのだとしたら、読者がこの男に同調すると甚だしく病的で、不健康極まりない怖ろしい世界を味わうことになりそうです。
孤独を感じる迄にどどめておくか、私のように、あさっての方向へ脱線して読んでみるほうがまだマシかもしれません。 
なにせ、「一つの小説に無数の解釈があるのだから、一つの解釈が真実ではない(by安吾)」ですから。(←ちょっと言い訳)

・・・というわけで、

ここで頓挫したので、「運命の女」、ファム・ファタールや美女
についてと、「恋愛と孤独」に関しては、機会があればまたいつか。


いや~、それにしても、面白かったです。
このブログは更新が少ないのでアクセス数もそれなりに多くはないですが、それでもわりと舞台の題名などで検索して来られる方が多いんですよね。
どうやらbot系に好かれているみたいなんで(笑)
でも、これだけ書いても坂口安吾で検索して来られる方がいない、というのは、そのぶん恥をかかずに済んでほっとしましたが(笑)、つまり、これを読んでくださる皆さんはたぶん「いつもの方」で、エンタメ関係に興味のある方ですよね?
あ~、きっとそうですよねぇ。

まあまあ、本当にすみません、こんな赤恥ものの、ぐるぐるした読書ノートにお付き合いさせてしまって。
それでは、お詫びになるかどうかわかりませんが、次回は去年セルリアンタワー能楽堂で観た「綺譚 桜の森の満開の下 」の「いまさら感想記」を書きましょうか。
えっ? 「もういい!うんざりだ!」って??

ふっ、ふっ、ふ・・・


と、謎の笑いを残して、次回へ続く・・・のか?


いつかどこかで(59)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(5) 

2015年02月20日 02時10分35秒 | いつかどこかで(雑記)

前々回と前回で、「美しい桜が何故に怖ろしいのか?」について考えてみましたが、その作品背景がわかりました。
昭和28年に新聞に連載されたエッセイの、「桜の花ざかり」です。
著作保護期間を過ぎているので、ここにご紹介します。

「桜の花ざかり」

 戦争の真ッ最中にも桜の花が咲いていた。当たり前の話であるが、私はとても異様な気がしたことが忘れられないのである。

 焼夷弾の大空襲は三月十日からはじまり、ちょうど桜の満開のころが、東京がバタバタと焼け野原になって行く最中であった。

 私の住んでるあたりではちょうど桜の咲いてるときに空襲があって、一晩で焼け野原になったあと、三十軒ばかり焼け残ったところに桜の木が二本、咲いた花をつけたままやっぱり焼け残っていたのが異様であった。

 すぐ近所の防空壕で人が死んでるのを掘りだして、その木の下へ並べ、太陽がピカピカ照っていた。我々も当時は死人などには馴れきってしまって、なんの感傷も起こらない。死人の方にはなんの感傷も起らぬけれども、桜の花の方に変に気持がひっかかって仕様がなかった。

 桜の花の下に死にたいと歌をよんだ人もあるが、およそそこでは人間が死ぬなどということが一顧にも価いすることではなかったのだ。焼死者を見ても焼鳥を見てると全く同じだけの無関心しか起らない状態で、それは我々が焼死者を見なれたせいによるのではなくて、自分だって一時間後にこうなるかも知れない。自分の代りに誰かがこうなっているだけで、自分もいずれはこんなものだという不逞な悟りから来ていたようである。別に悟るために苦心して悟ったわけではなく、現実がおのずから押しつけた不逞な悟りであった。どうにも逃げられない悟りである。そういう悟りの頭上に桜の花が咲いていれば変テコなものである。

 三月十日の初の大空襲に十万ちかい人が死んで、その死者を一時上野の山に集めて焼いたりした。

 まもなくその上野の山にやっぱり桜の花がさいて、しかしそこには緋のモーセンも茶店もなければ、人通りもありゃしない。ただもう桜の花ざかりを野ッ原と同じように風がヒョウヒョウと吹いていただけである。そして花ビラが散っていた。

 我々は桜の森に花がさけば、いつも賑やかな花見の風景を考えなれている。そのときの桜の花は陽気千万で、夜桜などと電燈で照して人が集れば、これはまたなまめかしいものである。

 けれども花見の人の一人もいない満開の桜の森というものは、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げだしたくなるような静寂がはりつめているのであった。

 ある謡曲に子を失って発狂した母が子をたずねて旅にでて、満開の桜の下でわが子の幻を見て狂い死する物語があるが、まさに花見の人の姿のない桜の花ざかりの下というものは、その物語にふさわしい狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた。

 あのころ、焼死者と焼鳥とに区別をつけがたいほど無関心な悟りにおちこんでいた私の心に今もしみついている風景である。

 ―坂口安吾-


なるほど、実際の体験に基づいていたのですね。
「人間の気と絶縁した冷たさ」
「にわかに逃げだしたくなるような静寂」
・・・これか。


う~ん、
となると、「桜の恐怖の秘密は、恋愛の狂気」という私の考察は、徒労になったわけだ ひょえぇ~~っ!(爆)

でも、原風景は、あくまでもシーン誕生のきっかけ。
小説は小説で、何を言いたいか、ですよね。

そっか~

「狂的な冷たさ」、ね。

なぁ~るほど。

やっぱり、面白い。



そして、つづく