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おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

いつかどこかで(58)坂口安吾「桜の森の満開の下」を読み込む(4) 

2015年02月19日 12時17分16秒 | いつかどこかで(雑記)

私はいつも、自分の書くものに冷たい風を感じますひゅるる~ ※写真は鈴鹿峠
(前回からの続き)

男が叫び逃げたくなるほど怖ろしく思い、気が変になるという、その桜の正体は何だったのか。

もしこれが試験問題で、学生の時の私だったら「孤独」と答えたかもしれません。
男は孤独が怖かった。または、孤独を知るのが怖かった。・・・とかね。だって、そう書いてあるもの(笑)

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。なぜなら、男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。
(「桜の森の満開の下」より)

そう書いてあるのだから、まんざら間違いではないでしょう。 でも、この場合の「あるいは」は、「もしかして」という意味ですよね? 
じゃあ、もしかしなかったら? 
桜の秘密がなんで孤独? すぐに散る儚い命だから?無常だから?死んじゃうから? それとも美しすぎるから? 美しいと孤独?
ってか、孤独って怖いの? 
あれ?男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。というけど、いつから男は孤独を怖れていましたっけ??
怖れていた時は孤独でなかった? それとも自覚してなかった? んで、いざ孤独になったらもう怖くないの?
どうして?

・・・な~んちゃって、ね。、私は三歳児か!

話を変えよう。(笑)

そう、桜は美しいですね。これは(記述がなくても)大前提。
では、「美しい」とは、どの様なことでしょうか?
って、またまた(笑)  
視覚的に美しいかどうかの基準は、人間の感性にありますよね。本能がもたらす場合もあるでしょう。
現代語の「美しい」の語源は、古きをたどると「可愛い」「愛しい」です。
「見ると愛しさを覚える」ことが、
「美しい」に変化したのでしょうね。
男が女に出会った瞬間、その美しさに衝撃を受けて見とれてしまうならば、それはほとんど一目惚れの状態ですよね。
美人が恋愛の対象になりがちなのは、先ず「目に見て愛しい」からです。
そして、特に男性は視覚から恋が始まりやすいというのは、古今東西の物語が語っていますよね。
「桜の森」の山賊も、女の顔や姿形が美しいので一目惚れしました。対象が花でなく、異性だから恋愛になったわけです。
坂口安吾で、「美しい」がきっかけで始まり、それが恋に至る小説といえば、私はこの「桜の森の」と、「夜長姫と耳男」と「紫大納言」しか読んでいませんが、いずれも「狂気の恋」の物語だと思いました。

安吾は「人は恋愛によっても、満たされることはない。」と言いましたが、「狂気の恋」という程にもなれば、満たされるどころか、むしろ飢えるかもしれません。
今まで全てが簡単に手に入ると思っていた男でも、女の全ては手に入りません。肉体は手に入っても、人は他者の魂(心)を丸ごと永続的に手に入れることなど出来ないのですから。
その飢えは、絶対的に満たされないので、叶わぬ想いは苦しみとなります。

う~ん・・・
ま、そんなことで、桜の恐怖の秘密は、「恋愛の狂気」かな。
どれほどに狂おしく愛しても、愛し足りず、満たされぬ、叶わぬ思い・・・叶わし・・・かなわし・・・悲し。
だから、恋愛は悲しいが、恋愛の悲しみは、どこかなまあたたかい・・・らしい。

とか、まあそんな感じでしょうか?
私が考える、桜の森の秘密とは、今のところ、この辺りで
止まっています。
男が桜の花を怖れたのは、その抗えない美しさゆえに、いつか訪れる「運命の恋」または「運命の女」との出会いの怖ろしさを本能的に嗅ぎ取ったから。

 かな~? とか思うのですが、この先、また変わったりするかも。

さあ、そこでついに現れたのは、今までさらってきた7人の女房達など比べ物にならぬ美しさの女。運命の女、ファム・ファタールだ!
というわけで、

つづく・・・たぶん