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おおるりが赤裸々に綴る脱線転覆の感想記!(舞台やライブの感想です)

映画「ヒアアフター」

2011年03月09日 23時00分00秒 | 映画

あなたは何故この記事をご覧になっているのでしょうか?

この映画はもう上映していませんので、検索して来られる方はたぶんいないだろうと思われます。
設定した日付からしても、このブログを新着記事として発見されることもないでしょう。
ですから、何らかの偶然によって、この記事を見つけてしまわれたのでしょうが、私はこれを、これからこっそりとした独白文として書くつもりです。
なので、何を書くのかは、実はまだ自分でもわからないのですが、映画の本筋からはかなり脱線したものになり、しかもダラダラとした長文になると思います。
また、映画とは全く関係ない自分自身のエピソードも書きたいので、映画の話だけを期待なされている方はうんざりするでしょうから、それはこうして前もって言っておきますので、どうぞご注意なさってください。

「ヒア アフター」(原題: Hereafter
監督:クリント・イーストウッド
出演:マット・デイモン/セシル・ドゥ・フランス

  

ヒアアフター(Hereafter)とは、映画の中では「来世」と訳されていましたが、「今後・将来・未来」という意味もあります。
観終わった後、私にはそちらの意味に感じられました。

この感想記は4月28日に書いていますが、映画を見たのは3月9日です。
その日からすると、今現在は、まさに「Hereafter」。
あの日あの時にはまだ、そのたった二日後に一体何が起こるのか…それを知る者は誰もいなかったに違いありません。
震災直後、「ヒアアフター」は全国で上映中止となりました。
その理由は、今度の震災の痛ましい場面を思い出させるシーンがあったからです。
無理もないことだと思いました。
大震災の津波の様子をテレビで見たときに、私はすぐに「ヒアアフター」の映像を思い出しました。
それは映画のほうを先に見たからですが、逆に今ならば「ヒアアフター」を見れば、必ずあの震災の様子や被災地を思い出すと思います。
「ヒアアフター」には確かに津波のシーンもあれば、「亡き人」を見てしまうシーンもあります。
けれども、この映画が描きたいところはそこではないので、むしろそのあたりはとても押さえられていました。
映画は想像していたのとは違い、思いがけなかったほどに静かなトーンの、じわりとした良作で、徒(いたずら)に衝撃的に描いてショックを煽るようなシーンはひとつもありませんでしたが、この映画は日本ではもう今後は、映画館やテレビでも放映することができないだろうと思います。
私もさすがに、とても感想など書く気がしなくなりましたが、けれども今になって「書いておかなければ」という気もします。 
何のためにかというと、それは自分のため。…たぶん将来の自分のためにです。

* * * *

小さい頃から津波の夢をよく見ました。
私の話です。
頻繁に、というわけでもありませんが、子どもの頃から今まで、何年かにいっぺんという具合で、忘れた頃になると思い出すように津波の夢を見ます。
この前に見たのは4年くらい前だったかもしれません。
それは大概に、まるで映画のような非現実的な大津波から逃げる、ただそれだけのシーンです。
私は民衆と共に逃げる中で、背後の海辺を振り返り、そのあまりに巨大な津波がもうすぐそこに間近に迫るのを見て、「もう間に合わない」と思います。
そしてその直後に必ず夢から目覚めます。

ところで、私は六年ほど前までの約八年間、パソコン通信という場で、文章を介して遊んでいた時代がありました。
そこは主に、特に読み書きの好きな者が集まるところでしたから、何かというと架空の世界を創り、空想の人物になりきって会話をするという遊びが始まったものでした。
私はその時に、しばしばある方と、互いに女性ではありましたが、架空の三兄弟となり、その末弟役を演じることがありました。
ある時、別の人との雑談で「私はときどき津波の夢を見る」などと話していましたら、長兄が横入りでこう言いました。
「さすがは我が弟、私も津波の夢はよく見るよ。けれども、必ず山の上か、それとも空からなのか、高いところからそれを眺めている。」
そうしたら、今度は次兄が「私も津波の夢はよく見る」と言ったのです。
私は、これは偶然としては良く出来た話だと思いました。
世の中には、そんなにも津波の夢を度々と見る者が多いものなのか…、そうでなければ、まるでこの三人が前世で繋がっていたかのようではないか…。
それは、確かにファンタジー好きの者には、ちょっとした面白いエピソードだと思いました。
けれども、「もう間に合わない」と思った私はきっとその後は津波に呑まれてしまったに違いない、そこへいくと、長兄のほうは高台のお城にでも住む王族だったのかもしれない、などと空想をしたものです。
なぜなら、その長兄というのは私のこの世で最も敬愛する女性で、王族に例えるにふさわしい人物だと思われたからです。

実は、映画「ヒアアフター」をぜひ見たいと思った理由のひとつは、そんな津波の夢の思い出が私の中にあったからです。
この映画は津波によって来世を見てしまう女性が登場すると聞いていましたので。
そして、わずか二日後に今度の大震災で本物の巨大津波をテレビの映像で見てしまうことにもなったのですが、それと私の夢を混ぜこぜにするのはあまりに不謹慎かもしれませんが、私にはどうもこの偶然が不思議でなりません。
なぜなら、私は日本で起きたまさかの巨大津波を、少し離れた東京で、テレビの画像を通して目にし、次兄だった女性はもう少し近い水戸市で、そして長兄は……やはり彼女は、たぶんとても高い場所から見ていたのでしょう。
彼女は二年前に亡くなり、今は天国にいます。

前世も来世も、ほんとうにあるのかどうか、私にはわかりません。
それを確かめるすべはないので、前世・来世占いなどは眉唾物の、もっともあてにならないものだろう、などとも思ってはいます。
けれども、人はどこかしら、それを信じていたい気分になる時もあるのです。
それは大切な人や、亡くなった人との繋がりを信じたい時なのかもしれません。

さて、やっと映画の話をしましょう。
「ヒアアフター」の主な三人の登場人物のひとり、アメリカ人ジョージ(マット・デイモン)は、過去に大怪我をした際に臨死体験をしたのをきっかけに、霊能力者として死者の姿を見てその声を聞く力を得ます。
彼は依頼人の手を握っただけで、その人の気にかかる亡き人が見えてしまいます。
その力は多くの似非(えせ)霊媒師とは違って、かなり具体的に当事者しか知らぬ事実も言い当ててしまうので、彼はそれだけにとても辛い思いをするのです。
やがて「この力は呪われた力なのだ」と思うようになったジョージは、その才能を嫌悪し、霊能力を隠して、工場で普通の仕事に就いてはいるのですが、やはりその力に縋りたい依頼者が「どうしてもお願いしたい」と来てしまいます。
大切な亡き人に心を残し、涙ながらに会いたいという依頼者をどうしても断りきれなくなる時、死者と再会して更に悲しみの涙を流す依頼者に向けて、ジョージは必ずこう言うのです。
「so sorry」
これは、「お気の毒に」と訳されます。
けれども、私には「ごめんなさい」としか聞こえませんでした。
「見るだけで、何もできなくて、ごめんなさい。あなたに悲しい想いをさせてごめんなさい」と。

ジョージはだから、見るのは嫌だと言ったのに、「どうしても」と頼んだのは依頼者のほうなのに、そして、彼こそがこの能力を悲しいと思うのに、「so sorry」と言わずにはいられません。
私はこの彼の悲しみや深い孤独を思い、ほんとうに胸が締め付けられました。
見たくもないのに過去ばかりを見なければならぬその人生は、どれほどに苦しいものなのか…。
ジョージは依頼者ばかりでなく、ほのかに恋心を寄せた相手の手に触れたたけでも死者の姿を見てしまい、彼女はそれを知ることになり、やはり「どうしても」と頼まれ、彼女の亡き父親の声を聞いてしまいます。
そして、それは彼女の心の傷を抉り、二人の恋は始まると同時に終りました。
ジョージはその力ゆえに孤独です。誰にも理解されない悲しみゆえに、この世で、「たったひとり」なのです。

そう、この映画は、理解されない苦しみを持つ者の、孤独の物語なのでした。
主要人物三人のうちのもう一人、フランスの女性ジャーナリストのマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、津波にのまれた時に経験した臨死体験が度々フラッシュ・バックするので、ジャーナリストとしての輝かしい現在と未来を失い、やはり周囲の人から理解されずに孤独になります。
三人目のイギリスの少年マーカスは、魂の片割れともいえる双子の兄を事故で亡くし、言葉も出なくなるほどの悲しみと喪失感の中で、ひたすら兄と再会することだけを願い霊能者を探します。
そして、アメリカ、フランス、イギリスと、全く別の場所に住んでいたこの三人が巡り合うこの奇跡に、いったいどのような目に見えぬ力が加担されていたのでしょうか。

ジョージは、どうしても兄と会いたいと懇願し、ホテルの外で日暮れてもなお立ち尽くすマーカスに根負けして、結局は霊能力者として兄の言葉を聞く事になりました。
けれどもマーカスの兄は、弟がこの先の未来を自分の足で歩いて前に行くようにと促します。
過去の者の言葉を聞くことで、ようやくその死を受け入れ、未来へ一歩を踏み出すことが出来るようになったマーカスは、そのお礼にジョージにマリーの居場所を教えます。
実はジョージはマリーに出会った瞬間に、マリーにただならぬものを感じて彼女に惹かれていて、マーカスはそれに気付いていたのでした。
翌日、ジョージがマリーに会いに行ったこのラストシーンは、実に静かで暖かく、じわりとした感動に胸を打たれました。
マリーの姿を目にした瞬間、ジョージの胸に、まだ見ぬ場面が映ります。
まるでデジャヴのようなその光景は、二人が微笑みながら慈しみあい抱き合う姿でした。
そして、勇気を出して彼女に近寄り、その手に触れた時……ジョージは彼女の過去を見てしまうことはありませんでした。
その時、彼の現在は初めて未来へ向かい流れ出し、二人は何かを感じ、言葉も無く理解し合い、ジョージが直前に予知した通りの姿で抱きあって、この物語は静かに幕を閉じました。
過去にとらわれた二人が未来を見つけたことで、もう二度と孤独にはならないだろうと思うと、私は何故だかどうしようもなく涙が止まりませんでした。

Hereafterは、やはり、生きていく者へ、「これから先」を示唆する映画なのだと思いました。
大切な亡き人への想い…それを思いながらも、自分が「今」を生きることとはどういうことなのか。
そして、奇跡のような出会いのなかで、「この人」と思うその手を掴むこと…。
生きる喜びとは何か。

観る者へどうしろ、こうしろと言うのではなく、それぞれに何がしかの「想い」を感じさせてくれるであろうこの作品は、大感動でダダ泣きするようなものでも、癒しのスピリチュアルなものでもないにせよ、ほんとうに静かなじわりとした良作だと思いました。

全米では3月15日にこの映画のDVDがリリースされたそうですが、その収益の一部は東日本大地震で被災した人々のための義援金として寄付されるそうです。

このような脱線だらけの長い文を最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。


「ACCIDENTS 2(俳優私塾POLYPHONIC第二回公演)」

2011年03月09日 02時01分22秒 | 観劇(ストレートプレイ/人形劇)

早いものでもう三月ですね。なのに、さ、寒い!!
今週もまだダウンのコートにマフラーが手放せないのかと思うと、いいかげんその自分の姿も飽きてきたことだし、春が待ち遠しいです。

ところで、二月は思いのほかお出掛け続きで、舞台を6本、ライブにも三つほど行きましたが、さすがに今月はちょっと大人しくしています。
3月のこれからは、後半に入って「ウェディング・シンガー」、それといよいよ文楽で「曽根崎心中」を見ます!楽しみ~!
それからやっぱ岡本太郎展は行かなくちゃ!なにせ生誕100年ですもんね!あとは見たい映画があるので、明日あたり見てこようと思います。

そして4月以降はぐっと観るものが絞られて、作品数としては月に一本とか二本とか、そのくらいの予定しかありません。
ってか、予算がありません(笑)

神様、誰かが私に都内劇場フリーパス券をくれますように!
って、はいはいはい!、言ってみただけよ!

さて、3/4に観た「ACCIDENTS 2」ですけど。

神楽坂の「die pratze」は80人も入るかどうかという小さな芝居小屋といった感じの場所ですが、その昔に中島梓さんが実験劇場として使われていたことがあったので、私にとっては思い出深く、とても懐かしい場所です。
ハコの大きさや雰囲気としては、先月に行った「新宿のタイニイアリスとよく似ています。
去年はこういった小劇場のお芝居を何本か観ましたが、小劇場には豪華なセットや衣装もなく、テレビでよく見かけるような有名な俳優さんも多くは出演していませんが、それはそれで…というか、だからこそ(?)の面白さがあるんですよね~。
もっとも「当たり外れ」もあるんですけど…。

この「ACCIDENTS 2」にご出演の「俳優私塾POLYPHONIC」の方々はそれぞれにキャリアをお持ちで、演出の石丸さち子さんも勿論そうですから、「外れ」ということはありません。
面白かったです。
特に最後の「命を弄ぶ男ふたり」(作:岸田国士)は短いながらも見応えがあったし、俳優さんでは「しらみとり夫人」(作:テネシー・ウィリアムズ)に出演していた杉浦大介さんは私好みの魅力的な演技をする役者さんだと思いました。

この舞台は前回の「ACCIDENTS」の続編だそうです。
初演の時は、まさにアクシデントの真っ只中を思わす舞台でした。
その真っ只中から二年。
続編の「続」とは、どう続くのか。
私はアクシデントの中から抜けたその先を見に行こうと思いました。
大きなアクシデントを経験し、それを乗越えた人の、その先で創られた舞台を見たかったので。

そして、今回もオムニバス形式で、それぞれの作品にアクシデントが起きるわけですが…
だけど…人生には多かれ少なかれアクシデントがつきものだもの。
ましてや舞台になる物語には大概「えっ?!」と驚く展開がないほうが珍しいです。
だからその、それぞれのアクシデントを通して根底に語られる何がしかの共通のテーマがあるからこそ、オムニバスにする面白さがあるのだと思います。

そういう意味でも二年前の初回公演「ACCIDENTS」は、どの作品にも「人の心の病」とか孤独が感じられて、作品ごとも面白かったけど、舞台全体としてのひとつの面白さがありました。
けれども今回は良作をバラバラに見た感じがして、オムニバスとして根底に流れるものが何なのか私にはわかりませんでした。

舞台全体としていったい何を表現したかったのだろう。
まさか「一寸先は何があるかわからない」とか、それだけじゃないはずだけど…

あ~、最近あんまり本とか読んでないしなぁ…。
自分の駄作にばかり構っているから、頭がすっかり幼稚になっちゃって、とんと理解力が低下しているかも(笑)

それにしてもです、
この公演は三回目の次もまだ「ACCIDENTS」と銘打つ舞台になるのでしょうか?
それはそれで良いと思いますが、だとしたら、この先どこへ行こうとするのか…せっかくなので、次回はしっかりとそれを見に行きたいと思いました。