チャンネル桜・瓦版:世論(多数意見)の真逆(少数意見)がほとんど正しい・西村浩一ブログ

全ての情報は「誰か(犯人)の利益のプロパガンダ」で見ると『真相』が分かる。 チャンネル桜の「草莽崛起。」を応援しょう!

朝日廃刊をめざす:世界で、唯一の開放的な都市を築いた日本

2014-09-17 17:25:22 | 日本の都市は世界一

 日本は、都市が、高くて、厚い城壁に囲まれて、出入りの際は、必ず衛兵がチェックするという環境だったことが1度もない、世界で唯一の国です。

 これが、『日本人が、どうしてこんなに幸福だったのだろうか?』ということの理由です。

 朝鮮半島から、大ブリテン島やアイルランド島に至るまで、都市は必ず、高くて、熱い城壁に囲まれて、門では、厳重に出入りをチェックされる場所であり、これは、ユーラシア大陸中、どこでもそうでした。

 世界的に、狩猟・漁猟経済から、農耕・牧畜経済に発展していくときに、リスク分散のために、農耕民族と牧畜民族が分かれて暮らしていました。

 しかし、天候不順で、2~3年凶作が続いたりすると、問題が生じます。

 牧畜民のほうは、草がやせ、枯れていったら、今まで侵入しなかった『畑作』をしている場所にまで押しかけて行って、家畜に草を食べさせざるを得ません。

 一方で、農耕民の方も、今までは耕していなかった牧草地まで、耕さざるを得ません。

 この争いは、結局、民族皆殺し戦争につながるのです。 そういうことが現実に何度もあり、その苦い経験から、都市民は、厳重な守りを固めた城壁を作り、そこには、不審な人間は、一切入れないという、閉鎖的な都市社会しか築けなかったのです。

 ところが、日本は違いました。 縄文時代から、海の幸も山の幸も豊かで、稲作が入ってくる前も、雑穀などもとれるようになっていました。

 縄文人は、結構バランスの取れた、健康的で、満ち足りた食生活をしていたらしいのです。

 そのため、農耕民と牧畜民に分かれるという、リスク分散をとる必要がなく、その結果、民族『殲滅』戦争のような経験をしたことがないのです。


チャンネル桜の軍略が、朝日謝罪に追い込んだ:日本の民主主義に将来はあるか?

2014-09-17 06:58:03 | 民主主義

  ◇、民主主義の「無謬性。」を、疑う

  我々が、自明の如く『善』であると信じてきた、この「民主主義。」は、果たして無謬(過ちがない)なのか、どうかか?、そこをまず検証する必要がある。

  典型的、戦後左翼の「管理思想教育下。」で義務教育を修了した我々は、『憲法(9条)』、『人権』、「平和主義(国連)。」は、“三種の神器”として脳の根底に刷り込まれてきた、経験を持つ。

  そして、この「3種の神器。」に『通底』する価値観こそが、「民主主義。」そのものであると思考してきた。

  “公衆が、公然と広く公論で、決するもの”が、民主主義の本質であり、それに基づけば独裁や寡頭制は、間違いなく『悪』で、よって軍部独裁だった戦前昭和の一時期は、「魔法にかかったように、駄目。」という、またぞろ「NHK。」が大好きな、司馬史観の出来上がりである。

  「民主主義とは、遠心力。」である。 つまり民主主義とは、その構造上必然的に、反権力の性質を有し、ホッブスのいう“万人の、万人に対する闘争”状態になりうるので、それを「愛国心。」という、「求心力。」で集合されなければならない。

  ジョン・ロックは、その求心力の源泉を神と信仰に求めたが、「民主主義の遠心力を、引きもどす求心力は、その国の民族性に則った、歴史と伝統から涵養された愛国心。」であるとしている。

  決して、中国の愛国無罪の暴徒が求めた、求心力とは違う。

  民主主義が普遍化した一例として、マグマ・カルタの事例がある。 イングランド王のジョン・失地王が、対仏戦争に負けた財政破綻のしわ寄せに対し、地元諸侯が結束して求めた、「王権の制限。」という史実だ。

 注目すべきは、これが単に反権力闘争ではないという、解釈だ。 ジョンは、イングランド諸侯にとっては、大陸出身の「よそ者。」の血統であり、土着の豪族ではなかった。

  つまり、マグマ・カルタは、よそ者横暴に対抗したイングランド土着の民による、「慣習法。」の明文化であるという点で、「人工的。」な反権力の色彩の濃い、日本の所謂「戦後民主主義。」とは、全く異なる源流を有するという事実だ。

  この民主主義の求心力とは、常にその国の「土着の。」民族性と不可分である、という問題提起は、クーデターと「民主制。」を繰り返しながら、遠心と求心のバランスを上手く使いこなしてきた、タイ王国の実例からも伺える。

  「恒例行事。」ともいえるタイの政変で、何故、同国が血みどろの内戦にならないのか?  それは、繰り返すように民主主義とは、「反権力。」の人工物ではなく、本来「土着性。」の賜物であり、「民主主義とて『無謬』でない。」ことの、何よりの証明だ。

 GHQの占領統治により、日本国憲法からは、明治憲法の有する「土着性。」が全て破壊され、「清廉潔白な。」人工的民主主義の看板に入れ替えられた。

  これが諸悪の『根源』である。

  人類が、七転八倒して形成した「土臭さ。」を有する、「暗黙知。」の一応の到達点こそが、現行の民主主義であり、決して突然登場した、最善の「不磨の大典。」ではない。

  人類と日本憲政史の道程をなぞることにより、その事実が炙り出される。

                       以上

 


SakuraSoTV 【討論!】朝日新聞を糾す!を視よう:脊柱管狭窄症

2014-09-17 06:31:03 | 腰痛・ひざ痛・脊柱管狭窄症

 Y 様 先日は、お会いできて良かったです。 日本文化などについて、何がしかFAX致しましたが、如何ご覧いただけましたか? 

 ところで、たまたま、知人のNさんのことを思い出したのです。 この方は、京都に行き(3月16日から)、京都府のNPO法人でボランティアガイド(何級試験とかの資格を持っているみたい…)をしているというのです。

  ちなみは、N君は、脊柱管狭窄症で車いす生活となり入って整形外科に入院したり、薬物注射治療を長く受けていたのですが(直使から「手術をしてはいけませんよ…。」と言われており、手術をしなかったのが幸いして)、私から木村整骨院の話を聞き、6回目で車いすから立てるようになり、京都ボランティアに復帰できています。

  時期的に、京都府庁の桜は見ごろになるため、連日、京都府庁内のNPO法人に詰めているのだそうです。

 Yさんご夫婦は、半端なく、奈良・京都界隈には、お詳しくていられるとは思いますが、気が向かれて、ご連絡いただければ、「何かをお話しすることが、出来るかも知れません…。」と申しております。

 本人には話してありますので、宜しかったら、TELしてみてください。 

 


【朝日追撃】 不読・山手線一周ラリーと朝日新聞を糺す国民会議:美の文明。 カントの3批判書

2014-09-17 05:48:18 | 哲学

 近代哲学の父と言われる、ドイツのカント(1724~1804)に、有名な3批判書、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』があります。

  カントのいう、真・善・美・という価値の問題は、 

  真とは、「人は、何を、知りうるか?」、善とは、「人は、何を、為すべきか?」、何か?、美とは、「人は、何を、願いうるか?」という問いに、おきかえられるであろう。

  第1の、「人は、何を、知りうるか?」という問いは、人間の認識の限界について、の問いであり、『純粋理性批判』の中心課題である。

  第2の「人は、何を、為すべきか?」と言う問いは、人間の好意の期案についての問いであり、『実践理性批判』の中心課題せある。

  第3の「人は、何を、願いうるか?」という問いは、せんじつめれば、人間の理性を超えた、宗教の問題になるであろう。

  このような、本質的な問いに挑み、その答えをカントなりに出した『三著』は、18世紀末に形を見せ、「19~20世紀。」に隆盛した近代西洋文明を、あらかじめ総括しているばかりか、その総括の上にポスト近代を予見していた。

  第1批判書『純粋理性批判』は、科学的法則を『真理』だと思う、『理性』について考察している。 数式という『体裁』をとって「科学的法則を。」提示されれば、我々は、それを『真理』だと思う。

  理性に裏づけられた科学技術の発達は、その恩恵に浴して富を蓄積できる強者と、できない弱者とに二極分解させ、貧富の差を生み階級対立を生みおとした。 

  そうなれば、否応なく『道徳』問題が、出てくるであろう。

  それを予見するかの如く、カントは、第2批判『実践理性批判』を書いた。

  『自由』主義と社会主義の対立は、自由競争で富全体のパイを大きくすれば、幸福になれるという「正義論。」と、富は、計画して作り上げ、『平等』に分配されるべきだという「正義論。」の対立であり、互いに『正義』を主張した。

  イデオロギーというのは、『正義』の体系である。 その(東西陣営)対立は、いわば神々の争いであり、決着がつかない。

  相異なる信念のぶつかりあいであり、自由か平等かという『道徳』の価値をめぐる争いであった。

  カントは、真や善が『理性』のうちに働くのに対して、快・不快など五感に訴えかけてくる、領域の存在が立ち現れてくるのを予見していたかのごとく、最後の第3批判書『判断力批判』を書いた。

  それは、美と『崇高』を扱っている。

  「ミネルバのフクロウは、夕暮れ時に飛び立つ。」と言ったのは、ヘーゲルであった。 物事の本質は、事が収まって『後に』、はじめて見えてくるということだ。

  それは、人間が、反省する能力を持つということに、ほかならない。

  しかし、人間には、反省能力とともに、予見能力がある。 カントの予見に従うならば、『真』に続いて立ち現れるのは、『善』、そして『善』に続くのは、『美(および崇高)』の価値である。

  科学的真理(西欧型能動主義)を技術に適用したところに立ち現れた、「近代文明。」は、「富国強兵。」と特徴づけられる、「力の文明。」であった。

  科学の真理とイデオロギー(正義の正体)をふりかざした、近代の「力の文明。」が道を譲るのは、「美の文明。」であると、予見できる。

  ヨーロッパに、急速に森の復権、みどりへの関心が高まり、美の創造に向けた、強烈な運動がおこっているのは、すでにその予見のあたっていることを、示しているのではないか?