蒼穹のぺうげおっと

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ガンダムSEED DESTINY 第50話 「最後の力」 感想

2005-10-02 17:37:48 | ガンダムSEED DESTINY
ガンダムSEED DESTINYという物語も1年という時間を経てここに終着。
純粋にエンタメを楽しんだところもあれば、色々と考えさせられることもたくさん有りましたが、最後の最後に描いたのは救いだったのかもしれないと思った第50話「最後の力」。
全体的なテーマ部分についてはほぼ結論が出ていたので、後は個人視点での帰結を描いてくれれば個人的には満足と思っていたのですが、それがどういう形であれ救いの表現がなされて帰結したことで正直僕も救われたかもしれません。

DESTINYという作品では各キャラに相反する視点に善・悪では判断しきれない部分を持たせつつ、視聴者にその判断を問いかけるスタイルをとって来たと思っているのですが、個人視点レベルでは最後の最後までそのスタンスを崩さずに描いてくれたのは良かったと思いますし、自分自身この感想を書いていく上で楽しむことをベースとしてたくさんのコメントを頂き、いろんな意見が出ていろんな見方ができた、多面性・多様性を何よりも楽しめた、このことが個人的には一番楽しかったかなと思います。
初めましての方も、常連の方も、コメント欄を支えてくださった皆様含めてお礼申し上げます。
本当にありがとうござました。

■ラストバトル
最後の最後でこのバトルエンタメの密度、作画は相当スケジュール的に厳しいという噂は聞いたことはありますが、それを踏まえても十分に手に汗握る攻防を見せてくれた制作陣に感謝を。
このバトル展開が3週くらいかけて描かれたならば・・・なんてことも思ったりしましたが、やっぱりガンダムという作品の性質上、MSの、そして最近の主流(とまではいかないか?)となりつつあるガンダム対ガンダムのバトルは素直に燃えました。
僕が個人的に期待していたデスティニーの最終激燃え出撃が無かったことは残念でしたが、気持ちと気持ちのぶつかり合いがMS戦で擬人化されたかのようなバトルはやっぱり良かったと思います。
願わくばこういった白熱バトル部分が恐らく出るであろうスペシャル・エディション等で「めぐりあい宇宙」ばりに補完されると良いなと思ったり。
お願いしますよ、偉い人(って誰に言ってんだ)。
とは言え、1年間のバトルエンタメ、楽しませて頂きました。

■個人視点での帰結
全体的なテーマ部分についてはオーブ戦が終了したあたりでほぼ提示されていたので、宇宙にあがってからの展開は恐らく個人レベルの着地点をどこに持ってくるのか?ここにポイントを絞って見て来ました。
前作キャラの着地点は早々に描かれていたので、特にポイントとしては今作キャラの着地点を前作キャラと絡めてどう持ってくるのか?ここが非常に気にかかっていました。
ということで最終話感想は今作キャラについて個人視点で書いていきたいと思います。

■レイ・ザ・バレル
特に僕が個人的に感心があった、というか救いを描いて欲しいと思っていたのがミーアとレイだったのですが、ミーアという個人の物語については第46話「真実の歌」で切なく、そして救いのあるエンドでまとめたこともあり個人的には満足していたのですが、ミーアにしてもレイにしても作中の陰の部分を背負うところが大きかったので、ここは何とか小さくても良いから救いを描いて欲しいと思っていました。
#特に第48話「新世界へ」の感想を読み返すと、レイという存在に少しでも救いを与えて欲しいなんて切実に思っていますね、自分・・・。

僕は第49話「レイ」の感想でレイのモノローグこそが、彼自身の存在証明であり救いなのかもしれない、なんて書いたのですが、そうじゃなかった。
その先にもう一つ救いが用意されていたんですよね。

ラストはレイの私怨に近い復讐劇になることを(復讐劇では救いは描かれないので)心配していたのですが、今作キャラの帰結を描くのにそれだけでは終わらなかったわけです。

そこには前作からの継続されたテーマ、ラウ・ル・クルーゼという前作で唯一独り勝ちした男との再戦という部分と、それに対するキラの回答という部分があって、そこが無ければレイにも救いが描かれないという、今作キャラと前作キャラが居てこそ初めて描かれた回答であり、救いになっていました。
この引っ張り方、このクロスするポイント、そこに地味に感動。

でも違う!
命は何にだって一つだ!
だからその命はキミだ!
彼じゃない!!


キラとレイ、異なるようでその実似ていたのかもしれない、そんな二人。
そんなキラからぶつけられた言葉。
それは、これまで新世界のために自分で考えて自分で行動してきたレイが、一番自分を殺していたということでもあり、私怨に立って復讐という個人を顕わにしたことで逆説的に、君は君だ、個人を大事にしろ、自分を大事にしろ、というメッセージが届くのが熱い。

でも僕はそれを知っている
分かっていけることも
変わっていけることも
だから明日が欲しいんだ!


望んでそう(スーパーコーディネータ、クローン)なったわけではない二人だけれども、世界を終わらせる道を選んだ自分に対して、あくまで変わっていける「明日」を選んだキラに自身のIFをみたのかもしれない、個人的にはキラとレイの間にも「君は僕に似ている」があったのかもしれない、そんな気がしました。

前作では力には力でしか対抗できず、クルーゼを結局は力で滅ぼすしかできなかったキラが、前作からの呪詛部分を受けて、レイという存在を説得したという部分で呪詛を解放することができた、そんな救いがあったんじゃないかな、と個人的には思うのです。

レイへの救い表現は作品全体への救いにも通じる部分があるんじゃないかなと思うし、今回のレイについてはそれこそ作中ジョーカー的な、自分としては嬉しい誤算だった、そんな気がします。

■ギルバート・デュランダルとタリア・グラディス
僕は第29話「FATES」に議長の行動原理があり、その行動原理の根幹はタリアさんにあるんで、議長、もしくはタリアさんの着地点を描くならこの二人はセットで描かれなくてはいけない、この二人の原点に戻ってこなくてはいけない、とずっと思っていたので、今回の着地については色々と思うところがあるものの、ある意味では納得なところです。
#離反は無かったですね、残念。

最期の最期にタリアさんが皮肉を交えて「運命」という言葉を口にするのですが、それに対して議長も皮肉を分かった上で「やめてくれ」と返す。
運命論者を口にしながらも、運命に抗おうとした議長、最期の最期に運命論を皮肉を交えて否定するあたり切なくもニヤリとする場面でした。
また、表現が難しいのですがラストのタリアさんの存在は、「救い」というより「赦し」、子供を怒り、そして「赦す」そういう存在にも見えました。
最終的にはレイをも含めて「赦し」の表現が描かれたことで、僕個人としても救われた気分になりました。

ただ、ここからは僕の超個人的意見なんで読み流して頂きたいところなんですが・・・。
子を持つ親の立場からすれば、自分の子供を置いてこういう形で死んでしまっていいのか?子供のために戦うと決意したなら、子供の下に戻ることを考えるべきだと思ったんですね、僕は。
過去も大事です。作中でも過去を与えられたから生きていけたというステラたんのメッセージがあったように、過去があるから未来がつながるんでしょう。
でも、その未来を担う子供、しかもわが子が居る中であの行動は、同じ親としてはどうしても解せない、そう思ってしまいました。
自分にも子供がいるからこそ、どうしてもここはスルーできませんでした。

とは言え、3人の着地の描き方としてはある意味美しく、原点に戻るという意味での帰結は描かれた、そういう気がします。

■シン・アスカ
50話をかけてシン・アスカがたどり着いた先、着地点はスタート地点でした。
本当にいろんな意味で長かったですね。

これまでずっと家族との死別、妹マユとの死別から、ステラたんを失ってずっとマイナス面、気持ちの負の面ばかりを先行させてきたシンが、第43話「反撃の声」を境に疑問を持ち始め、第49話では議長に対して賛成を唱えながらもマユの携帯を見て「これでいいんだよな」と自問自答。
そして最終話にきて第43話でのアスランの台詞を引き継いで

なのに未来まで殺す気かお前は!
お前が欲しかったのは本当にそんな力か!


これでようやく殻が割れた、そんな気がしました。
完全なる敗北を経て、初めて自分の中にあった本当の気持ちに辿り付けるというのは微妙に切ないところです。

あのステラたんが登場する幻想シーンですが、これはやっぱりシンの心の奥底にあった本心、ステラたんやマユが望んでいたこと、それが将来であり、それにつながる一番近い未来、明日だった、それにようやく、自分が敗北することでそれに辿りついた、今ようやマイナスからゼロになった。

自分の目の前で死んでいった大切な人たちの想いを受け取り損ねた来たシンが生き残ったのは、やはり改めてその気持ちを受け止めて贖罪を果たす、新たなスタートを切らせる、そういう明日につなげる、そういう着地点だったのかもしれませんね。

そしてルナマリア・ホーク。
彼女自身は福田監督も言っていたのですが、やっぱりもったいないキャラでした。
しかしながら、最後の最後、ゼロに戻ったシンを現実点で救っている、シンに赦しを与えている、そういう存在なのかもと思いました。
それこそ月(ルナ)のマリア像のように。

■終わりに
これまでテーマとして僕個人としては個人の「自立」部分に集約されてくるんじゃないかという感想を書いてきて、それについてはコメント欄での意見交換等を含めても大分満足しているところではあるんですが、この最終話を見て感じたところは最後の最後に自立など、運命を切り開いていく大切さ、強さというメッセージの後に来る「赦し・許し」という部分、肯定されても良いんだという、受け止めてくれる優しさみたいなものがあわせて必要なんじゃないか、そういうものがセットでこの世の中には存在して欲しいんだ、という受け止め方をしました。

これはDESTINYの感想とは関係のないレベルなのかもしれませんが、自立面という厳しさと、それを報いる優しさ、そういうバランスが、そういう多面性、それを許容する多様性がある、そういうことを考えると、やはりSEED、DESTINYを通じて描かれたのは「相互理解」というキーワードに落ちてくるのかなと。

この1年間、いろいろと思うところもありましたが、この作品には楽しませて頂きました。
それはこの作品だけというわけではなく、この作品の感想を書いていくうえで、たくさんの人たちと知り合えましたし、またコメント欄では毎週たくさんの意見を頂いたりして、非常に大きな刺激を受けることができました。
皆さんのマナーの良さもさることながら、相手がどういう意図でこのコメントを残しているかというそれこそ「相互理解」を実践するかのごとく、たくさんの意見が出て、交流して、新しい意見が生まれてきた、そういうプロセスが何よりも楽しかったです。
これもひとえにこのブログを支えて頂いた皆様のおかげです。
改めて御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

このブログはまだ(たぶん)続くと思いますが、縁がありましたらまた他の記事でお会いしたいと思います。
そのときは気軽にコメントを残して頂ければ、この管理人は素直に喜びますので。

それでは皆さん、またお会いしましょう!