小野不由美先生の思想・信念を見た、そんな気がします。
それをどのように読者に伝えるか?
推敲して作成された文章たちの美しいこと、そして各登場人物が語る言葉が読者の胸に響くこと、一々感動してしまいました。
『図南の翼』から5年、確かに長いですが、これは5年をかけるに値する文章だと思うのです。
■小野不由美先生のテーマを
自分なりにイメージするとそれは大極図。
「陰極まれば陽と成し、陽極まれば陰と成す」
西洋・中近東で考えられる「善」「悪」という絶対的二元論とは全く異なる考え方、相対的二元論の中で十二国の物語を展開しているように思うのです。
「対立」ではなく「交流」するがゆえに「変化」する。
「変化」するがゆえに「理解」することができる。
だからこそそこに救いがあり、人は変わって行けるのだと思うことができる。
それは第1巻『風の万里 黎明の空』から一貫して訴求しているテーマではないでしょうか。
自分はそんなテーマにこの上ないシンパシーを感じずにはいられません。
■この巻での焦点はやはり李斎自身の変化
に尽きると思います。
『風の海 迷宮の岸』で登場した李斎が冒頭から満身創痍で登場するのは以前の李斎を知っているだけに読者としてはショックでしたが、この巻のヒロインは間違いなく李斎だと思うのです。
泰という国を想い、自分でも間違っていると分かっていながらも慶国に命懸けで支援を求め、最後には天帝とは何だ?とまで詰め寄る。
そんなひたむきな信念を持つ彼女も、様々な人との触れ合い・助力によって大局を見るように変化していく、この変化こそがこの物語を非常に魅力的なものにしているんですね。
■天帝が本当にいるのならば
何故この状況を見過ごしになるのだ?
仁道を以って国を治めろとあるのに、天帝の仁は無いのか?
読者が疑問に思うところを李斎が読者代表として問い掛けるのですが、これに答えを返すのが景王陽子というのがにくいところ。
天だって過ちがあるのではないか、絶対などは存在せず、だからこそ人は犯した過ちを償える、やり直すことができるのだ
これこそ相対的二元論なんだと思った次第。
この国で育っていない陽子だからこそ出せた回答なのかもしれませんが、これがこの物語の核心なのかもしれません。
#これをやってしまったら十二国記のテーマの多くを消化したことになるんではないだろうか。
これはね、ほんとうは陽子自身がずっと自問自答してきたことなんじゃないかと思うんですよ。
作者としてもできるなら慶国でこの問題を取り上げたかったのではないかと思うのですが、陽子も王になってしまったことだし、さすがに満身創痍になるのは『風の万里 黎明の空』でやってるから李斎を通じて問題を掘り下げたのかな、なんて。
■そしてもう一つのポイントは泰王驍宗と泰麒の関係性の変化
この二人の関係性を見るに、王と麒麟も陰と陽なんだと思うのです。
互いの力がバランスしてこそ、国が治まる。
謀反に至る経緯にあたって、泰王は結果として泰麒を遠ざけたし、泰麒は結果として泰王に遠慮してしまった。
これが国のバランスを崩してしまった、陰と陽どちらかのバランスが崩れてしまったということかと。
だからこそ、物語終盤の泰麒の決意に希望が持てるわけです。
今度こそは泰王とのバランスが保てるのではないかと。
#しかしそこで泰麒が角を失っているという設定は秀逸ですねぇ。
#まだまだ前途多難。読者泣かせ。
小野不由美先生の続編、期待せずにはいられません。
#いったいいつになるかは想像つきませんけどね。
■おまけ
『魔性の子』を読んでおくべきですね。これは。
あれを知っておくと、まるでこの『黄昏の岸 暁の天』が二つの作品を行ったり来たりしているような錯覚に陥ります。
いかに泰麒が危機的状況に陥っていくか、泰麒の使令が理性を失っていくかが残酷なまでに描写されていますから。
あれが平成3年に最初に出版されたときには既に十二国記の世界観が固まっていたというのは驚きですよ。
それをどのように読者に伝えるか?
推敲して作成された文章たちの美しいこと、そして各登場人物が語る言葉が読者の胸に響くこと、一々感動してしまいました。
『図南の翼』から5年、確かに長いですが、これは5年をかけるに値する文章だと思うのです。
■小野不由美先生のテーマを
自分なりにイメージするとそれは大極図。
「陰極まれば陽と成し、陽極まれば陰と成す」
西洋・中近東で考えられる「善」「悪」という絶対的二元論とは全く異なる考え方、相対的二元論の中で十二国の物語を展開しているように思うのです。
「対立」ではなく「交流」するがゆえに「変化」する。
「変化」するがゆえに「理解」することができる。
だからこそそこに救いがあり、人は変わって行けるのだと思うことができる。
それは第1巻『風の万里 黎明の空』から一貫して訴求しているテーマではないでしょうか。
自分はそんなテーマにこの上ないシンパシーを感じずにはいられません。
■この巻での焦点はやはり李斎自身の変化
に尽きると思います。
『風の海 迷宮の岸』で登場した李斎が冒頭から満身創痍で登場するのは以前の李斎を知っているだけに読者としてはショックでしたが、この巻のヒロインは間違いなく李斎だと思うのです。
泰という国を想い、自分でも間違っていると分かっていながらも慶国に命懸けで支援を求め、最後には天帝とは何だ?とまで詰め寄る。
そんなひたむきな信念を持つ彼女も、様々な人との触れ合い・助力によって大局を見るように変化していく、この変化こそがこの物語を非常に魅力的なものにしているんですね。
■天帝が本当にいるのならば
何故この状況を見過ごしになるのだ?
仁道を以って国を治めろとあるのに、天帝の仁は無いのか?
読者が疑問に思うところを李斎が読者代表として問い掛けるのですが、これに答えを返すのが景王陽子というのがにくいところ。
天だって過ちがあるのではないか、絶対などは存在せず、だからこそ人は犯した過ちを償える、やり直すことができるのだ
これこそ相対的二元論なんだと思った次第。
この国で育っていない陽子だからこそ出せた回答なのかもしれませんが、これがこの物語の核心なのかもしれません。
#これをやってしまったら十二国記のテーマの多くを消化したことになるんではないだろうか。
これはね、ほんとうは陽子自身がずっと自問自答してきたことなんじゃないかと思うんですよ。
作者としてもできるなら慶国でこの問題を取り上げたかったのではないかと思うのですが、陽子も王になってしまったことだし、さすがに満身創痍になるのは『風の万里 黎明の空』でやってるから李斎を通じて問題を掘り下げたのかな、なんて。
■そしてもう一つのポイントは泰王驍宗と泰麒の関係性の変化
この二人の関係性を見るに、王と麒麟も陰と陽なんだと思うのです。
互いの力がバランスしてこそ、国が治まる。
謀反に至る経緯にあたって、泰王は結果として泰麒を遠ざけたし、泰麒は結果として泰王に遠慮してしまった。
これが国のバランスを崩してしまった、陰と陽どちらかのバランスが崩れてしまったということかと。
だからこそ、物語終盤の泰麒の決意に希望が持てるわけです。
今度こそは泰王とのバランスが保てるのではないかと。
#しかしそこで泰麒が角を失っているという設定は秀逸ですねぇ。
#まだまだ前途多難。読者泣かせ。
小野不由美先生の続編、期待せずにはいられません。
#いったいいつになるかは想像つきませんけどね。
■おまけ
『魔性の子』を読んでおくべきですね。これは。
あれを知っておくと、まるでこの『黄昏の岸 暁の天』が二つの作品を行ったり来たりしているような錯覚に陥ります。
いかに泰麒が危機的状況に陥っていくか、泰麒の使令が理性を失っていくかが残酷なまでに描写されていますから。
あれが平成3年に最初に出版されたときには既に十二国記の世界観が固まっていたというのは驚きですよ。