「名古屋城復元用のヒノキ伐採作業進む」というNHK岐阜局のニュースを読んだ。
コンクリート建ての天守閣が老朽化したことで、木造に復元をしようという名古屋市の再建計画はいろいろ課題もありそうだが、中津川の加子母地内の森林では再建に使われる予定のヒノキを切り出す作業が先月から始まっているのだという。
樹齢120年前後、高さ20m以上、直径90cmほどの良質でしなやかなヒノキを選んで伐採をする。11月に始まり年末で終了する予定。加子母の森林で伐られた木材は、姫路城や伊勢神宮などの歴史的建築物にも使われており、名古屋城では、天守閣の主柱や梁に使われる計画だというから、城の骨格を構成する大切な芯素材ということになる。
中央線で木曽谷を遡っていけば「木曽路はすべて山の中である」という〈夜明け前〉の書き出し通りで、森林資源が豊かだというのは一目で判る。「尾張藩の御用林」というのは中学の地理で学んだ。
中部森林管理局のHPを読むと、木曽谷の豊富で優良な木材を利用したのは豊臣秀吉が初めたったらしい。木目が緻密で狂いも少なく加工もしやすい木曽のヒノキを、居城の大阪城や伏見城などの建築用材として多用したというわけだ。
秀吉の前例に学んだ徳川家康は木曽を尾張徳川領として木材利用を進める。良材を抜き取る強度伐採を行い伐材は築城などの土木やや造船のために利用した。過伐採によって資源枯渇が始まると尾張藩はこれを危惧し、伐採量を減らす森林保護政策行った。「木曽五木」と呼ばれるのは、伐採を禁止した、ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキのことだ。尾張藩の森林管理は「木一本、首一つ」というほどに厳しいものだった為、豊かに蘇った森林は明治2年まで続き、藩政奉還で国家所有の官林となった、とある。
加子母地区の森も尾張藩の御用林として生きてきたということになるのだから、縁の深い名古屋城の木造再建にはまた特別な思い入れもあるのだろう。
ところが、昨日付けの「共同通信」の記事によると「名古屋城の木造復元行き詰まる」とあるではないか。
名古屋市と建設業者が交わした基本協定によると、平成34年(2022年)末だった天守閣の天守閣の完成期限は各所からの反対に遭って一旦撤回されているが、その後も文化庁に事業許可を申請する目途がたっていない。
文化庁は市側が石垣保全に関する有識者会議の了承を得るのが先決というスタンスの為、市側は延期の経緯を説明する市民説明会を市長出席で複数回実施して理解を求めたが参加者からは「勝手に突っ走った結果だ」という批判的な意見もあったのだという。
たしかに市側、特に市長の思い入れの強さがいろいろとことを面倒にしている感は大きいのだが、「行き詰まった」ということでもなさそうだ。尾張藩自慢の木曽キノキをふんだんに使った巨大な金鯱天守が出現すれば名古屋自慢がまたひとつ増える訳なのだから。
夏の国際芸術祭〈あいちトリエンナーレ〉では 表現の不自由展 を巡って大いに不満だと怒って見せた市長だが、名古屋城天守を巡って「表現の不自由さ」を感じているのはまさしく彼自身なのだろう。
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