お二人さまの老後

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開創1,200年の高野山を訪ねて その2 奥の院を参拝し、唐招提寺へ

2015-10-15 16:23:28 | 旅行記
5時頃起床し、6時20分からのお勤行に参加するため本堂に行きました。すでに大勢の人が集まって座っていました。般若心経などを唱えた後、順にお焼香しました。お願いしておいたお札を頂いてから朝食会場の大広間へ。
宿坊の地蔵院を改めて外から眺めるととても立派であることがわかりました。M寺のご住職の説明では火事で焼失したため建て替えたので立派な新しい建物になったとのことです。


8時にバスで弘法大師の御廟がある奥の院に向けて出発しました。一の橋でバスを降り、
昨日と同じ案内人の説明で参道を歩いていくと両側に企業の殉職した従業員の慰霊碑やお墓がたくさん並んでいました。会社の宣伝を兼ねてつくられているようです。高野山は誰でも受け入れるということで菩提寺のお墓の他に高野山にお墓をつくる人もいるとのこと。
奥に行くにしたがって古いお墓が並び戦国武将の苔むしたお墓も沢山ありました。写真は加賀百万石の前田家2代利長のお墓です。石塔の大きな丸い石は重いので山の上まで運ぶため、中をくり貫いて軽くして運んだそうです。
高野山まで参詣に上がってこられなかった人の五輪塔を集めたお墓です。
弘法大師の御廟があるところは撮影禁止で写真は撮れませんでした。
前述の朝日新聞の記事によると「高野山は戦乱に巻き込まれ幾度となく存続の危機に見舞われたが、戦いを避けてきた歴史がある。南北朝の動乱では政治的中立を宣言。信長の軍勢に包囲されたこともあったが本能寺の変で信長が亡くなり比叡山のような焼き討ちはまぬがれ、秀吉とは武装解除を決めて和解した」そうです。「戦って失うより、戦わないことで得るもののほうが大きい。草も木も人の命も、すべてを受け入れる寛容さを重んじてきた」という高野山真言宗の総長公室長の言葉も紹介されていました。
空海は835年に入定しましたが、高野山で今も瞑想していると信じられていて、毎日午前6寺と午前10時半に食事を届ける「生身供」が行われているそうです。
一番奥に弘法大師の御廟がありました。お線香とローソクを炊いて参拝しました。
10時45分頃高野山を後にし、麓の女人高野・慈尊院に向かいました。空海の母親が滞在したお寺で、空海は山を下りて幾度となく母親を訪ねたとのこと。

次に紀の川を渡り、奈良県に入って五条のリバーサイドホテルで昼食になりました。ここは昨年、桜めぐりのツアーで吉野山に向かう前に宿泊したホテルです。
食事に出た柿の葉寿司がとても美味しかったので、お土産にほしいと思い、ホテルのスタッフに近くで買える店はないか尋ねると徒歩10分ほどのところにあるとのこと。出発時間まで25分ほどあるので急いで買いに行きました。これでお隣の弟の家族への良いお土産ができました。
最後に唐招提寺に向かいました。
数年前に訪ねた時は解体修理のため見ることができなかった金堂が秋空の下おおらかな姿を見せていました。

唐招提寺の僧から鑑真和上や唐招提寺について解説を聞くことができました。檀信徒の参拝には観光とは異なる対応があるのだと感じました。

「唐招提寺は高野山より60年ほど早く鑑真和上により開かれたお寺で、戒律を授けていただこうと2人が唐にわたって要請したけれど当時は帆船での風が頼りの航海で日本にわたるのは容易ではなく命の危険を冒してまで来ようとする者はいなかった。それで鑑真和上自らが来ることにすると和上を慕う多くの弟子たち30人ほどがついてきた。いかに鑑真和上が皆に慕われていたかがわかる。台風などに遭い5度の失敗の後、鑑真和上は失明し、6度目にやっと日本にたどり着いた。鑑真和上とその弟子たちは戒律だけでなく唐の進んだ文化を伝えた」ということでした。
金堂の前では檀信徒の役員住職のリードで大日経?を唱えました。みなさんきちんと唱和しているので感心しました。私は勉強不足でただ手を合わせているだけでした。
鑑真和上の御廟です。
駐車場にある土産物店で写経用の筆を求めました。
これで研修はすべて終わり、京都駅から18時33分のひかりで帰路につきました。
ガイドさんの説明では5隻の遣唐使船で唐に向かったが戻ってこられたのは2隻だけで、1隻には空海がもう1隻には天台宗を開いた最澄が乗っていた。最澄はいわばエリートで空海は讃岐の豪族の息子だったそうです。
春に延暦寺を訪ね根本中堂で「一隅を照らす」意味についてありがたいお話をききましたので、この話はとても興味深く、これを機会に空海や真言密教についてももっとしっかり勉強したいと思いました。

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