第二の職場で出会った仲間が親睦会をつくり、交代で幹事を務め、年に1回の秋の旅行と暑気払いの食事会を開催してきましたが、10年を経過した後の2014年度からは日帰りの散策と食事会に縮小し、2年目の今年度は何かと行事のある秋を避け、2月に江の島と片瀬を案内し、昼に懐石料理を頂くという計画を立てました。
昼食場所の「かくれ家わたなべ」にお昼に到着するために、9時30分に小田急・片瀬江ノ島駅集合とし見学場所は江島神社辺津宮と児玉神社、片瀬の龍口寺、昼食の後、元使塚と梅で有名な常立寺に絞りました。今年は梅の開花が早まると予想されましたので実施日は2月12日(金)に設定。
案内を出した11名中参加のお返事は8名で、内2名は12時45分頃江ノ電江ノ島駅で合流する約束です。
9時15分頃片瀬江ノ島駅に行きますとすでに3名が集まっていて定刻通りに全員集合。江の島に向かいました。弁天橋を渡り辺津宮への参道を上りましたが、傾斜がきつくその後の長い急な石段もゆっくり休みながら上りました。辺津宮を参拝してから中津宮に向かう石段を下りるとカワヅザクラがすでに開花していました。
中津宮下の展望台でヨットハーバーや海を展望した後、さらに坂を上ってサムエルコッキング苑前の亀ヶ岡広場を散策。数本あるカワヅザクラも五分咲きでした。ここで引き返し、石段を下りて途中から右手の石段を上がり児玉神社に向かいます。ここは若い人は関心がなく通り過ぎてしまう所です。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に児玉源太郎の名前は出てきたように思いますが江の島との関係は知りませんでした。
夫が今回の江の島・片瀬散策のためにネットで調べたものをもとに作ってくれた資料を皆さんにもお配りしましたがそれによると「児玉源太郎は明治31年から39年までの9年間は台湾総督として民生にもその手腕を発揮し、島民からも慕われていた。日露戦争では大山巌元帥のもとで満州軍総参謀長として作戦の指導に当たり大きな戦果を挙げて勝利に導いた。この土地は明治時代に政・財界で活躍した中村豊次郎が別荘を建てて楽しんでいた。当時長谷に住んでいた児玉源太郎はしばしば中村氏を訪れ要談する機会を持っていた。その縁により神社建設に際しこの地を寄進した。児玉源太郎は明治39年、55歳で病のため急逝した。神社の創建に当たっては後藤新平を中心に有志で神社造営を定め伊藤忠太博士の設計で進められた。本殿の用材は台湾の檜を使い、鳥居や灯篭は源太郎の故郷徳山の花崗岩を使用し、大正10年に創建遷座式が行われた。大鳥居をくぐると右側に蒋介石、次に後藤新平、石黒忠悳の石碑が源太郎の功績をたたえ、拝殿前には台湾産の石材で掘られた中国的な2匹の狛犬がいます。その犬の口の中に玉が見事に彫り抜かれているのもたいへん珍しいといわれています」とありました。
祭神を拝し年末ジャンボ買ふ 資料に載せた夫の句です。
この後ゆっくり下り5分ほど待って10時56分発の江ノ電バスに乗り三つめで下車。龍口寺に向かいました。ここは「立正安国論」が鎌倉幕府を批判するものとして日蓮が捉えられ、ここで処刑されようとするとき刀に雷が落ちて難を免れたという伝説で有名なお寺で、毎年9月13日、日蓮法難会が行われます。門前に縁日ができ、東京などから集まった信徒が講中ごとに纏いを振り回し、太鼓をたたいて参詣するにぎやかなお祭りが行われます。
台風の遠くにありて法難会
今日はとても静かでした。土牢を見学し、本堂を参拝した後、右手高台にある五重塔に向かいました。「神奈川県で唯一の五重塔で極めて質素な総欅造りで白木のままです。各層の欄間には日蓮上人四大法難の彫刻が四方に掲げられています」
梵鐘もあり何人かは念寿の鐘を撞いて健康長寿を念じていました。
この後江ノ電江ノ島駅でMaさん・Muさんの2人と合流。Muさんは電動自転車で転び骨折したということで、百名山も踏破したかつての姿はありませんでしたが、声は若々しく、杖をついてゆっくり歩きながらも参加してくださって感動しました。
ゆっくり歩いて「かくれ家わたなべ」に向かいました。
奥の掘り炬燵式の二つのテーブルに座り季節感あふれる懐石料理を頂きながら話に花が咲きました。
懐石料理を紹介すると先付は小松菜とカニの胡麻和え、お椀は蟹しんじょう、おつくりはヒラメのうすづくり、焼き物はホタテの幽庵焼き、八寸は写真のとおり、ふきのとうの衣揚げ・うどの梅肉あえ・サーモンの手毬麩・新筍土佐和えなど9品。さらに煮物、酢の物、五目炊き込みご飯と香のものなどを頂き、最後にアイスクリームとコーヒーが出ました。
皆さんに近況報告をしていただき、気づくと閉店の2時半を回っていてお開きになりました。
帰りに元使塚のある常立寺を見学。
「常立寺の山門を入り、正面の本堂の手前左手に「誰姿森元使塚」と金色の文字で横書きされた青銅の香炉があります。その背後には高さ3,6m幅1,4mの大供養塔が建てられています。この塔の手前に元使塚、5基の五輪塔がこじんまりと立っています。五輪塔に大小があるのは当時元使の地位に差があったことによるものだといわれています。常立寺の寺報によれば杜世忠ら一行は建治元年(1275年)元王の国書を携えて大都(北京)を出発し高麗の開京に3月10日に到着、4月15日山口県の長門の室津に到着。直接鎌倉に向かい到着したのは8月30日でした。9月7日鎌倉幕府の命により龍の口で処刑されたのです。寺の行事として毎年9月7日には異国の地に果てた五霊を慰めるため読経をし回向を続けています。元の使者は杜世忠 34才 礼部侍郎(次官級)蒙古人、何文著 38才 兵部侍郎 中国人、撤都魯丁 32才 計議官 トルコ人、国人果 32才 書状官 唐人、徐賛 32才通訳の高麗人 たちでした。」
五つの五輪塔にはモンゴルの伝統なのでしょう。青い布が巻かれていました。
白鵬などモンゴル出身の力士が四月藤沢場所のあったときに参拝に訪れて、新聞などでも報道されています。
青き布巻かれて梅の元使塚
常立寺は境内の梅が美しくしだれ白梅は見ごろ、しだれ紅梅も3分咲きくらいでした。
見学に見えていた女性にシャッターを押していただき全員の集合写真が撮れました。
3時半頃江ノ電江ノ島駅で解散となりました。
今回幹事を務め、夫が作成してくれた資料を読んで改めて地元の歴史を知る機会になりました。
皆さんにも喜んでいただけて良かったです。
昼食場所の「かくれ家わたなべ」にお昼に到着するために、9時30分に小田急・片瀬江ノ島駅集合とし見学場所は江島神社辺津宮と児玉神社、片瀬の龍口寺、昼食の後、元使塚と梅で有名な常立寺に絞りました。今年は梅の開花が早まると予想されましたので実施日は2月12日(金)に設定。
案内を出した11名中参加のお返事は8名で、内2名は12時45分頃江ノ電江ノ島駅で合流する約束です。
9時15分頃片瀬江ノ島駅に行きますとすでに3名が集まっていて定刻通りに全員集合。江の島に向かいました。弁天橋を渡り辺津宮への参道を上りましたが、傾斜がきつくその後の長い急な石段もゆっくり休みながら上りました。辺津宮を参拝してから中津宮に向かう石段を下りるとカワヅザクラがすでに開花していました。
中津宮下の展望台でヨットハーバーや海を展望した後、さらに坂を上ってサムエルコッキング苑前の亀ヶ岡広場を散策。数本あるカワヅザクラも五分咲きでした。ここで引き返し、石段を下りて途中から右手の石段を上がり児玉神社に向かいます。ここは若い人は関心がなく通り過ぎてしまう所です。司馬遼太郎の「坂の上の雲」に児玉源太郎の名前は出てきたように思いますが江の島との関係は知りませんでした。
夫が今回の江の島・片瀬散策のためにネットで調べたものをもとに作ってくれた資料を皆さんにもお配りしましたがそれによると「児玉源太郎は明治31年から39年までの9年間は台湾総督として民生にもその手腕を発揮し、島民からも慕われていた。日露戦争では大山巌元帥のもとで満州軍総参謀長として作戦の指導に当たり大きな戦果を挙げて勝利に導いた。この土地は明治時代に政・財界で活躍した中村豊次郎が別荘を建てて楽しんでいた。当時長谷に住んでいた児玉源太郎はしばしば中村氏を訪れ要談する機会を持っていた。その縁により神社建設に際しこの地を寄進した。児玉源太郎は明治39年、55歳で病のため急逝した。神社の創建に当たっては後藤新平を中心に有志で神社造営を定め伊藤忠太博士の設計で進められた。本殿の用材は台湾の檜を使い、鳥居や灯篭は源太郎の故郷徳山の花崗岩を使用し、大正10年に創建遷座式が行われた。大鳥居をくぐると右側に蒋介石、次に後藤新平、石黒忠悳の石碑が源太郎の功績をたたえ、拝殿前には台湾産の石材で掘られた中国的な2匹の狛犬がいます。その犬の口の中に玉が見事に彫り抜かれているのもたいへん珍しいといわれています」とありました。
祭神を拝し年末ジャンボ買ふ 資料に載せた夫の句です。
この後ゆっくり下り5分ほど待って10時56分発の江ノ電バスに乗り三つめで下車。龍口寺に向かいました。ここは「立正安国論」が鎌倉幕府を批判するものとして日蓮が捉えられ、ここで処刑されようとするとき刀に雷が落ちて難を免れたという伝説で有名なお寺で、毎年9月13日、日蓮法難会が行われます。門前に縁日ができ、東京などから集まった信徒が講中ごとに纏いを振り回し、太鼓をたたいて参詣するにぎやかなお祭りが行われます。
台風の遠くにありて法難会
今日はとても静かでした。土牢を見学し、本堂を参拝した後、右手高台にある五重塔に向かいました。「神奈川県で唯一の五重塔で極めて質素な総欅造りで白木のままです。各層の欄間には日蓮上人四大法難の彫刻が四方に掲げられています」
梵鐘もあり何人かは念寿の鐘を撞いて健康長寿を念じていました。
この後江ノ電江ノ島駅でMaさん・Muさんの2人と合流。Muさんは電動自転車で転び骨折したということで、百名山も踏破したかつての姿はありませんでしたが、声は若々しく、杖をついてゆっくり歩きながらも参加してくださって感動しました。
ゆっくり歩いて「かくれ家わたなべ」に向かいました。
奥の掘り炬燵式の二つのテーブルに座り季節感あふれる懐石料理を頂きながら話に花が咲きました。
懐石料理を紹介すると先付は小松菜とカニの胡麻和え、お椀は蟹しんじょう、おつくりはヒラメのうすづくり、焼き物はホタテの幽庵焼き、八寸は写真のとおり、ふきのとうの衣揚げ・うどの梅肉あえ・サーモンの手毬麩・新筍土佐和えなど9品。さらに煮物、酢の物、五目炊き込みご飯と香のものなどを頂き、最後にアイスクリームとコーヒーが出ました。
皆さんに近況報告をしていただき、気づくと閉店の2時半を回っていてお開きになりました。
帰りに元使塚のある常立寺を見学。
「常立寺の山門を入り、正面の本堂の手前左手に「誰姿森元使塚」と金色の文字で横書きされた青銅の香炉があります。その背後には高さ3,6m幅1,4mの大供養塔が建てられています。この塔の手前に元使塚、5基の五輪塔がこじんまりと立っています。五輪塔に大小があるのは当時元使の地位に差があったことによるものだといわれています。常立寺の寺報によれば杜世忠ら一行は建治元年(1275年)元王の国書を携えて大都(北京)を出発し高麗の開京に3月10日に到着、4月15日山口県の長門の室津に到着。直接鎌倉に向かい到着したのは8月30日でした。9月7日鎌倉幕府の命により龍の口で処刑されたのです。寺の行事として毎年9月7日には異国の地に果てた五霊を慰めるため読経をし回向を続けています。元の使者は杜世忠 34才 礼部侍郎(次官級)蒙古人、何文著 38才 兵部侍郎 中国人、撤都魯丁 32才 計議官 トルコ人、国人果 32才 書状官 唐人、徐賛 32才通訳の高麗人 たちでした。」
五つの五輪塔にはモンゴルの伝統なのでしょう。青い布が巻かれていました。
白鵬などモンゴル出身の力士が四月藤沢場所のあったときに参拝に訪れて、新聞などでも報道されています。
青き布巻かれて梅の元使塚
常立寺は境内の梅が美しくしだれ白梅は見ごろ、しだれ紅梅も3分咲きくらいでした。
見学に見えていた女性にシャッターを押していただき全員の集合写真が撮れました。
3時半頃江ノ電江ノ島駅で解散となりました。
今回幹事を務め、夫が作成してくれた資料を読んで改めて地元の歴史を知る機会になりました。
皆さんにも喜んでいただけて良かったです。