島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

100‐2後小松天皇皇子宗純王

2022-01-13 | 天皇陵巡り
 
 宗純王(ソウジュンオウ)(1394~1481)は第100代後小松天皇(1377~1433)の落胤と言われ、母は官女でその父は楠木正成の孫と伝えられています。
  仕事帰りに近鉄奈良線新田辺駅まで行って、そこから歩いて一休寺を目指しました
 
 あまり確かでないかもしれない落胤説に従って、宮内庁がこの墓を治定し、後小松天皇皇子宗純王墓(京都府新田辺市薪里ノ内)として、一休寺内に祀っています。
ある意味天皇陵巡りで回ってる陵墓の内、宗純王は一番有名な人かもしれません。
 
 そう宗純王と言ってもピンときませんが、一休宗純のことで、もっとくだけて言うとあの頓智の一休さんです。
 京都の南の酬恩庵一休寺(シュウオンアンイッキュウジ)を中興し、80歳ごろに大徳寺の住職になってからも、ここから通っていたそうです。(30Kmはあると思いますが、歩いてでしょうね?それとも馬?輿?)
  一休寺の入り口です、昔行った時の印象で静かな所と思ってましたが、周囲はかなり開けていました
 
 後小松天皇の皇子達は、過激でやや性格がゆがんだ人が多かったようですが、一休さんも禅宗の高僧ですがなかなか型破りで、70歳を過ぎてから女と同棲するという、うらやましいが私には真似出来ない体力もあったようです。
 
 一休寺に入ってすぐ右に墓所はあったのですが、門には菊の御紋の透かしが入っていたので、そこから廟を覗くことは出来ました。

 嫌になるほど感染者数は増えてきましたね!
症状が軽そうなのと、終息も早そうなのですが、近くに感染者や濃厚接触者の影も出始めました。
孫が中学受験なので、それも少し気になりますが、なんといっても本日予定の麻雀も中止になって、悲しいと言えば不謹慎ですかね。

      返事
花水木さん:「鎌倉殿の13人」第1回観ました。
    面白かったので、久しぶりに1年間観るでしょうね。
    後白河や後鳥羽天皇も出てくると思うので、
    皆で天皇陵巡りの復習をしましょうね。

コメント (2)
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100-1後小松天皇

2022-01-09 | 天皇陵巡り
 
 北朝5代後円融天皇(1358~1393)(在位1371~1382)の第1皇子で、母は内大臣三条公忠(キンタダ)の娘厳子(イツシ)の幹仁(モトヒト)は、父から譲位されて6歳にして北朝6代後小松天皇(ゴコマツ)(1377~1433)(在位1382~1412)として即位しました。
  写真は師団街道沿いの十二帝陵の石柱
 
 父後円融上皇が院政を敷きましたが、足利3代将軍義満(1358~1408)(在職1369~1395)の専制的な政治も進み、1392年南北朝合一も成って、南朝の第99代後亀山天皇(?~1424)(在位1383~1392)から三種の神器を受け取って、北朝6代から一応第100代後小松天皇となりました。
  写真は私が週に2回乗るJR奈良線沿い、降りるJR藤森駅の手前にある深草北陵(十二帝陵)です
 
 後円融上皇が没すると、義満は皇室の権威的な部分を後小松天皇には渡さずに自らが継承し、教科書でも有名な明国の使いに「日本国王」として認められたり、一説には天皇になろうとしたとも言われています。
 
 後宮の日野西資子(ヒノニシスケコ)(1384~1428)との間に後の第101代称光天皇(1401~1428)や小川宮(1404~1425)をもうけ、ほかにも5人以上の妃がいましたが、そのうちの一人の皇子が一休宗純(1394~1481)、あのとんちの一休さんと言われています。
 
 後小松天皇の治世はほぼ義満の天下の下でしたが、義満が死んでようやく束縛から解放された1412年、第1皇子称光天皇に譲位し院政を開始しましたが、今度はちょっと風変わりな息子と対立することも多く、後継者にも恵まれなかったので、とうとう北朝方では正統になる崇光系に第102代は譲り、院政を敷いたのちに亡くなりこの深草北陵(フカクサノキタノミササギ)に葬られました。
  これで100代まで行った天皇陵巡り、あと五分の一になりましたので、皆さんもう少しのご辛抱ですが、終わったら次は素晴らしいものが待っているという自信は皆無ですよ。

        返事
花水木さん:残しておくと、
    笑いを忘れなかったが、馬鹿なご先祖さんですね、と言われそう。
大雪男さん:こちらこそ今年もよろしく!
    安全第一で遊んでください!

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年賀状

2022-01-05 | ノンジャンル
 
 今年の年賀状はずるをして、36年前に彫った版木の使いまわしにしてしまいました。
38歳の若い時に彫った版木ですが、断捨離しようと思いながら、本箱の資料を2~3冊ほかすだけで、並び変えてるだけの私の断捨離、こんな昔の版木でもとっておくと使えるので、断捨離は難しいですね。
 
 断捨離出来ない私ですので、24年前の寅年のゴム版も残してるので、ブログのネタに使います。
二周り前の寅年には、私はちょうど50歳だったので、「寅は猛獣(モウジュウ)と私は50(ゴジュウ)とをかけて、50歳の大人にしては子供っぽい年賀状を出していました。
 
 そして12年前の前回の寅年では、元気だったフークに黒テープを貼って、無理やり寅にして奈留島から出していました。
 
 そして今年の年賀状は、36年前の使いまわし、来年もめんどくさかったら卯に白を塗って刷る予定です。
 まあ人生はめんどくさがらず、元気に積極的にあと10年ほど生きていくつもりですので、引き続きどうかよろしくお願いいたします。
皆様のコメントやアクセス数だけを生きがいに、頑張ります!

         返事
花水木さん:おめでとうございます
    花水木さんに元気で笑ってもらえるように、
    くだらないことを書き続けるつもりです。
    笑って帯状疱疹を治してください。
Toitennさん:なんせお腹がふくれると、
    確実に眠くなります。
     初詣は朝早く行くと、どこも混んでないですよ。
和さん:おめでとうございます
    年末は出石の雪景色をTVでたくさん観ましたね。

コメント (2)
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2022年正月休み

2022-01-02 | ノンジャンル
 
 年末は京都や滋賀の北部に大雪が降ったので、見に行こうと彦根目指してドライブも、雪による渋滞に巻き込まれそうになったので、急遽Uターンして近江八幡へ戻りました。
近江八幡の八丁堀を行く屋形船の屋根にも、まだ雪が残っていました。
 
 日牟禮神社の参拝者はまだ少なく、ゆっくり初詣の予行演習で、たくさんの願い事をしてきましたので、近くに立ってた人は私を信仰深い人だと思ったはずです。
 
 周りはもう初詣の準備もそろっているので、コロナ禍の時代でなくても、初詣はゆっくり年末に限りますよ。
 31日、恒例の「ガキの使い絶対に笑って…」がなかったので、「ざわつく!大晦日」を見ましたが、新庄剛志も出てきて面白かったです。
結局「紅白」は見ずに、除夜の鐘も撞きに行かず、例によって9時過ぎには寝ました。
 
 元旦、自宅も雪が積もりました。
当直明けの長男一家は来てくれましたが、次男は当直、娘は少しだけ寄ってくれて、まあ少しは賑やかな元旦です。
結局この新型コロナ時代は、二年間家族全員の集まりは出来なかったです。
 夕方久しぶりに、これまた新庄が出てる「券\人格付け」を見て寝ました。
 
 朝は、近くの氏神さん新宮神社に初詣、破魔矢ももらい、ここでも熱心に長い時間お願いを並べておきました。
孫が今年は中学受験、合格のお守りまで買ってしまいました。
 
 2日朝は「箱根大学駅伝」の出発を確認後、やっぱり学業のお願いなら北野神社へと。
朝早めでもあったので、芋の子を洗うような人出ではなかったですが、本殿は並ぶ必要はありましたので、遠くの横からちょっとお参りだけ。
 
 私は北野さんに頼らずに合格してますが、我が家の息子や娘はこの北野神社の奥に鎮座する文子天満宮にお願いして合格してるので、孫のためにも一心不乱にお願いしておきました。
 
 帰りに千本えんま堂にも寄りましたが、正月に行くところだったかどうか…。
 
 帰って観た「大学ラグビー準決勝」、京都産大の前半は素晴らしかったですが、結局帝京に負けてしまいましたね。
3日は、2年続いて恒例の麻雀新年会はなくなったので、今年はどう生きていくのか、明日はゆっくり考えながら昼寝します。
 それで今年の正月休みは終わりです。

         返事
Toitennさん:人気のない天皇陵巡りを早く終わらせたいような、
    終わると寂しいような、複雑です。
和さん:今年は4位ぐらいかなあ?
    日本ハムをそっと応援します。
花水木さん:残った天皇陵は同じが多いので、
    他のことに力を注ぐブログにしようと、
    元旦の朝日に誓っていますが…。

コメント (3)
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