島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

鬼岳

2016-03-15 | 富江
 
 福江港に船が着岸する前にはいつも目に飛び込んでくる、福江島の象徴鬼岳。
こんな風に鬼岳のてっぺんが禿山になったのは、幕末に海岸に石田城を築く際、その海中の土台として木々を鬼岳から切り出したためとのことです。
  
 先月のTV「空から日本を見てみよう」の五島編では、巨大フカヒレと表現されていた鬼岳です。
 富江からも富江湾の向こうにいつも見えていますし、富江病院屋上からの茶色に光った鬼岳の姿も素晴らしく、ひときわ目立っています。
 
 3年に一度の鬼岳山焼きが今年はありました。
2月13日の予定が天気が悪く、14日もダメで1週後の20日もダメ、2月27日にやっと行われました。
楽しみに待っていましたが、始まったと思って病院屋上に行ったら、もう終わりかけとのことで、わずかに見える稜線の火もキミマロズームでも捕えられないほどでした。
 
 いつもは禿山の茶色が目立つ鬼岳ですが、山焼き後黒くなってしまい、なんか周囲の山との区別がつきにくく、鬼岳らしさがありません。
 
 朝に散歩した特派員の携帯写真ですが、何故か上下逆転しています?直らないので体を逆さにして見て下さい。
 先月の大雪の時も白くならなかった鬼岳が、山焼き後は草が無くなったせいか、わずかの積雪で白くなっていました。
  逆になるのが惜しい!!

    返事
花水木さん:ネットのCMでは、打鰍燗煌も使っていました。
     我が家にB型男子はいませんが、B型嫁はいます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九州旅行 平戸3

2016-03-11 | 九州本土
 
 松浦史料博物館は松浦家当主の私邸を利用しているので、城のような石垣を備えた立派な建物です。
玄関へ登っていく石段の手すりが、支柱はコンクリートですが、横棒は窒セったのが嬉しい。
 
 もちろん伊能忠敬さんは平戸にも来ていて、松浦藩にこの九州の地図を贈っていますね。
1813年正月に平戸に入っているので、忠敬の亡くなる5年前67~8歳の頃か。
同じ年の私は単なる平戸観光ですから、やっぱり偉人にはなれそうにないですね。
 
 五島をアップにしてみましたが、同じ年の6月には忠敬一行は奈留島にも来ています。
奈留島の形は、こんなものですかね。
 
 娘はやや軽薄な所が私に似ていて可愛いいですので、もちろん後ろの内鰍熬?トメ[ズを取ってくれました。
思わず目頭が熱くなりましたので、打且ハ真は載せません。
 *内鰍ゥ打鰍ゥ、どっちが正しいのか?
 
 庭に設けられた閑雲亭(カンウンテイ)は明治に建てられたものですが、昭和62年の台風で悼オ、丸1年かけて再建された、武家茶道好みの茶室です。
 
 平戸藩主松浦家29代鎮信(チンシン)によって創始された茶道鎮信流(チンシンリュウ)で一服いただきました。
復元菓子「鳥羽玉(ウバタマ)」もカステラを揚げたような「カスドース」も美味しかったですが、鎮信流はまずお茶を飲んで、それからお菓子を食べて、最後残りのお茶を飲むという、なかなか私好みの作法ですので、茶道やるなら鎮信流が良いですね。

      返事
花水木さん:Aクラスは4位まで表彰され、盾も貰えますが、
    Bクラスはエア表彰だけでした。
福山市さん1・2・私ももう一度、春の日に弁当を持って、
    峠に座ってトンボロを1~2時間見下ろしていたいです。
     上五島ウオークは天気も一つでしたね。
    でもいつも五島に来ていただいて、ありがとうございます。
     福山市さん30歳ごろに、平戸は橋で繋がったのですかね。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

速報

2016-03-07 | 趣味
 
 卓球の世界選手権団体戦で日本は男女共に銀メダルを取りました。
まだまだ中国には勝てそうにないですが、日本を卓球王国にした荻村選手を知る年代としては嬉しい限りです。
 
 福江でも6日(日)に第25回福江卓球選手権大会が行われました。
当直明けで少し体は重かったですが、初めて参加しました。
 
 日本の超一流どころは世界選手権で居らず、この大会に出ていないので自慢にはなりませんが??
   速報:ラージボールBクラスで見事優勝してしまいましたよ!!
 運が良かったのか?その日の競馬弥生賞でも、今まで私が獲った三連複でも一番安い190円馬券を、10通りも買って獲りました。
こんな買い方をしてるようでは、負けるのも当たり前田のクラッカーです。
でもこの3頭はやっぱり他の馬よりとびぬけているのでしょうね、他の競馬ファンの目は肥えていますね、この組み合わせだけ1.9倍。
 卓球は、たぶん私は6人中3番人気で勝った感じでしょうね。

    返事
花水木さん:どこからでも連絡できる今は、
    良いような悪いようなですね。
    
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九州旅行 平戸2

2016-03-05 | 九州本土
 
 「以後よく広まるキリスト教」と受験日本史で憶えた1549年、日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸しましたが、次の年にはもうザビエルは平戸を訪れ、その後も3回平戸に来てるようです。
 坂道を登った山の上にある公園に、フランシスコ・ザビエル記念碑が建っていました。
 
 その約50年後、関ケ原の戦いのあった1600年、大分沖に漂着したオランダ船リーフデ号には、東京八重洲口の名前の由来となったヤン・ヨーステンや日本に初めて来たイギリス人であるウイリアム・アダムスも乗っていました。
ャ泣gガル・スペインのカトリック国から日本に来ていたイエズス会宣教師たちは、その頃戦争状態にあったプロテスタント国のオランダやイギリスの乗組員の即刻処刑を要求しましたが、徳川家康によって手厚く保護されたウイリアム・アダムスは武士となり、三浦按針と名乗り、日本人妻との間には子供ももうけています。
 
 アダムスはその後も平戸で働き、1620年55歳で平戸で没しています。
三浦郡(横須賀市)にも墓があるようですが、平戸にある1954年に建立された按針の墓は、その後イギリスに残された奥さんの墓近くの石を持ってきて夫婦塚にされていました。
 
 平戸和蘭商館跡地からは、湾をはさんで平戸城も目の前です。
 まだ娘の産まれていない35年ほど前に、家族4人で平戸に来ていますが、平戸のことはほとんど憶えていません。
唯一憶えていた井元コレクションという私設美術館はまだありましたし、ここで本当の春画をたくさん初めて見た記憶だけは残っていました。
でも今回は娘もいるので入りませんでした。
 
 35年前にはもちろん無かった、白い壁がまぶしい平戸オランダ商館が最近再建されていました。
 
 そしてその中に飾られていた、これがオランダからぐるっと太平洋を廻って大分沖に漂着した、ウイリアム・アダムスなどが乗っていたリーフデ号の模型です。
    もう1回平戸に続く

      返事

花水木さん:嬉野温泉は良かったので、そこの写真を出す予定です。
大雪男さん:ヒラメの刺身・ヒラメのカルパッチョ・ヒラメのパイ包み焼き・
     ヒラメのしゃぶしゃぶ・ヒラメのお茶漬でしたが、それぞれに味が変わって美味しかったですよ。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする