アーサー・ビナードという詩人の名前を知ったのは、2001年のことである。
アメリカ人の日本語による詩集『釣り上げては』が、中原中也賞を受賞したときだった。
当時、山口で暮らしていたし、書店で求めることは容易であった。
しかし、詩集を求めて読むほど関心はなかった。
<詩>は、嫌いではない。
どちらかといえば、好きな方かもしれない。
でも、かなり好みがあって、なんでもかんでも読みたいとは思わない。
今回、アーサー・ビナード著 『もしも、詩があったら』 (光文社新書)は、読んでみる気になって、アマゾンに注文した。
詩集ではなく、エッセイであるゆえに。
<もしも>=<if>で、成り立つ詩が、多数引用されていて、その意味、おもしろかった。
古今東西の詩に触れる機会が得られたし、22歳から日本語を学んだ作者の、日本語表現の豊かさには感心もした。
が、高村光太郎の『智恵子抄』に対する作者のとらえ方に少々違和感を覚えたし、この本の読了後、タブレットのYouTubeで、講演を聞いていて、心にひっかかる表現があり、この作者とは、距離を置くことにした。
気まぐれに近づき、気まぐれに遠ざかることも可能なところが、本という友だちのいいところである。
アメリカ人の日本語による詩集『釣り上げては』が、中原中也賞を受賞したときだった。
当時、山口で暮らしていたし、書店で求めることは容易であった。
しかし、詩集を求めて読むほど関心はなかった。
<詩>は、嫌いではない。
どちらかといえば、好きな方かもしれない。
でも、かなり好みがあって、なんでもかんでも読みたいとは思わない。
今回、アーサー・ビナード著 『もしも、詩があったら』 (光文社新書)は、読んでみる気になって、アマゾンに注文した。
詩集ではなく、エッセイであるゆえに。
<もしも>=<if>で、成り立つ詩が、多数引用されていて、その意味、おもしろかった。
古今東西の詩に触れる機会が得られたし、22歳から日本語を学んだ作者の、日本語表現の豊かさには感心もした。
が、高村光太郎の『智恵子抄』に対する作者のとらえ方に少々違和感を覚えたし、この本の読了後、タブレットのYouTubeで、講演を聞いていて、心にひっかかる表現があり、この作者とは、距離を置くことにした。
気まぐれに近づき、気まぐれに遠ざかることも可能なところが、本という友だちのいいところである。