時計を見ると、早くも夕方に近い4時である。
悪天候が、今日も黄昏を早く運んだ。
窓外の趣は、すでに4時とは思えない。
一日が瞬く間に暮れてゆく。
一体、何をして過ごしたのやら? と思える。
ダラダラと暮らせば、それだけ老化が速いだろう。もっと体を動かし、頭を使わなくては…と考えると、なんだか内容空疎な時間を過ごしているのが、我ながら気になる。
今日は、表題の本をぱらぱら拾い読みした程度である。
1月30日の「読売新聞」<時の余白に>欄で、編集委員・芥川喜好氏の文章を読んだ。毎月最終土曜日に掲載されるエッセイで、絵画に関するものが多い。
題は、<手間暇かけて体ごと>となっており、東京芸大の美術館で見た「デジタル・オイル・ペインティング展」のこと、さらに丹阿弥丹波子さんの世界について書かれたエッセイである。(丹阿弥丹波子さんの作品も、パソコンで調べた。メゾチントという銅版画の一種。花の絵が多いようだ。)
絵画に対する見方、捉え方の眼識に感心するだけでなく、その余白に綴られる芥川喜好氏の思索の深さにも、私は惹かれる。
例えば、
<……年のせいだとは思うのですが、そうしてデジタル化社会があらゆるものを数値化しデータ化し、すなわち論理化し組織化しようとしているのに逆らうように、当方など曖昧なもの、不可解なもの、分析不能のものにますますひかれてゆくのを感じます。>
といったありのままの実感、それに続く3段落には、芥川さんの人生観がにじみ出ている。
私は同感を覚えながら、この人の著作は出版されていないだろうかと、パソコンを開けた。
しかし、エッセイ集らしいものは、見つからなかった。
が、私のすでに購入している、芥川喜好(編・文)『画家たちの四季』(1994年)の出版された後、表題の本(2000年)が出ていることを知った。
読売新聞の日曜版に、引き続き連載された作品の中から選ばれたものである。
今回は、古本を選んで注文したので、入手には少し時間がかかった。
今は、『「名画再読」美術館』を手近に置いて、芥川さんの解説文の力に感心しながら、絵の鑑賞を楽しんでいる。
今日も幾つかの絵と文に接しただけで、一日が暮れていった。
表紙絵の右は、長谷川利行の<岸田国士(くにお)像>1930年作。
左上は、梅原龍三郎の<黄金の首飾り>1913年作。
左下は、高橋由一の<豆腐と油揚げ>1875-77年ころの作。
悪天候が、今日も黄昏を早く運んだ。
窓外の趣は、すでに4時とは思えない。
一日が瞬く間に暮れてゆく。
一体、何をして過ごしたのやら? と思える。
ダラダラと暮らせば、それだけ老化が速いだろう。もっと体を動かし、頭を使わなくては…と考えると、なんだか内容空疎な時間を過ごしているのが、我ながら気になる。
今日は、表題の本をぱらぱら拾い読みした程度である。
1月30日の「読売新聞」<時の余白に>欄で、編集委員・芥川喜好氏の文章を読んだ。毎月最終土曜日に掲載されるエッセイで、絵画に関するものが多い。
題は、<手間暇かけて体ごと>となっており、東京芸大の美術館で見た「デジタル・オイル・ペインティング展」のこと、さらに丹阿弥丹波子さんの世界について書かれたエッセイである。(丹阿弥丹波子さんの作品も、パソコンで調べた。メゾチントという銅版画の一種。花の絵が多いようだ。)
絵画に対する見方、捉え方の眼識に感心するだけでなく、その余白に綴られる芥川喜好氏の思索の深さにも、私は惹かれる。
例えば、
<……年のせいだとは思うのですが、そうしてデジタル化社会があらゆるものを数値化しデータ化し、すなわち論理化し組織化しようとしているのに逆らうように、当方など曖昧なもの、不可解なもの、分析不能のものにますますひかれてゆくのを感じます。>
といったありのままの実感、それに続く3段落には、芥川さんの人生観がにじみ出ている。
私は同感を覚えながら、この人の著作は出版されていないだろうかと、パソコンを開けた。
しかし、エッセイ集らしいものは、見つからなかった。
が、私のすでに購入している、芥川喜好(編・文)『画家たちの四季』(1994年)の出版された後、表題の本(2000年)が出ていることを知った。
読売新聞の日曜版に、引き続き連載された作品の中から選ばれたものである。
今回は、古本を選んで注文したので、入手には少し時間がかかった。
今は、『「名画再読」美術館』を手近に置いて、芥川さんの解説文の力に感心しながら、絵の鑑賞を楽しんでいる。
今日も幾つかの絵と文に接しただけで、一日が暮れていった。
表紙絵の右は、長谷川利行の<岸田国士(くにお)像>1930年作。
左上は、梅原龍三郎の<黄金の首飾り>1913年作。
左下は、高橋由一の<豆腐と油揚げ>1875-77年ころの作。