ぶらぶら人生

心の呟き

デンドロビウムの植え替え (三つの鉢)

2008-07-29 | 身辺雑記
 母の法要の前、妹夫婦が来宅したとき、<デンドロビウム>の植え替えを、義弟に頼んでおいた。
 母の命日の今日、お参りにあわせて、植え替えた鉢が届けられた。(写真)
 左2鉢は、友人にいただいたもので、白と黄色の花のデンドロビウム。
 右の鉢は、私が買い求めたピンク系の花を咲かせるデンドロビウム。
 いずれの鉢も、根詰まりしていたらしい。
 植え替えの効果を発揮して、来年は、美しい花をつけてくれるのだろうか。

 近所からもらった南瓜の半分を妹にすそ分けすることにした。
 妹が包丁を入れてくれた。その包丁は切れにくい。
 私が退職するとき、友達にプレゼントしてもらったものである。
 包丁のプレゼントとは、普通には思いつかない。多分、職を退いた後は、老いた父母のために、しっかり料理をしてあげなさい、という友達の思いが込められていたのだろう。菜切り包丁と魚包丁の2本をいただいたのだった。

 使い始めて20年になるのだから、切れ味が鈍くなっても不思議はない。そういえば、一度、研ぎ師に研いでもらった。が、それからでも10年が経とうとしている。
 ひとり暮らしをし始めた4年前、包丁でも鋏でも何でも研げるという道具を買い求めた。早速切れ味の悪くなった包丁を研いでみた。が、一向に効を奏してくれなかった。研ぐことを諦めて、新しいものに買い換えようと思いながら、切れの悪い包丁を我慢して使っていた。

 妹も、南瓜を切ってみて、私の包丁の切れ味の悪さに気づいた様子だった。
 研ぐ道具のあることを話すと、妹は試みてくれた。
 包丁の刃先がたちまち光り、よく切れるようになった。
 今晩、夕食の準備に早速使ってみた。違う包丁かと思えるほどよく切れた。食材を刻むのが楽しくさえなった。

 私は体力がなく、要領も悪く、生活の中で、何かと不自由を感じることが多い。妹はそれを慮って、力仕事など、手伝うことはないかと言ってくれた。が、今日、直ちに力を借りたいことは思いつかなかった。
 5歳若い妹から見れば、私の生活は、随分心もとなく思えるだろう。
 年齢の差は否めない。
 老いに向かうことは大変だ。メイ・サートンの『82歳の日記』を読む時にも、私がこれから歩む、困難であろう道程が、絶えず頭をよぎった。
 だが、周囲への迷惑をできるだけ減らし、倍増してゆく不自由に対し、のびやかに耐える力も育てなくてはと、今は殊勝なことを考えている。(まだ本物の老いには、幾分距離があるからこそ、言えることかもなかもしれないけれど…。)
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蓮の開花 (蓮の花)

2008-07-29 | 身辺雑記

 蓮池に出かけた甲斐があった。
 そう広い池ではないが、大きな葉が池の面を一面に覆い隠し、その葉の間から茎を伸ばして、今朝は多数の花が咲いていた。(写真 その一輪)
 静寂なひと時を蓮池の傍で過ごした。
 ふと、この花には及ばなくても、晩年の日々を、心に汚れなく生きたいと、瞬時思った。蓮の花が、雑念やこだわりを洗い流してくれるかのようであった。
 黒い蝶や名を知らぬ虫たちも、厳かな花の上に戯れ、あたかも静かな浄土の如くであった。

 池の上方から、声が下りてきた。
 ふり向くと、先日、法要のお供えを届けたOさんだった。
 88歳なのに、朝から草刈りをしておられるのだった。
 上の道に上がって、しばらく立ち話をした。

 もう9時過ぎになっていた。朝食がまだだったし、妹夫婦から10時に訪問するという電話がかかっていたので、Oさんとの話を切り上げて、帰途についた。

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読経とコスモス (S寺とコスモス)

2008-07-29 | 身辺雑記
 蓮の花を見てこようと出かけた今朝、途中にあるS寺の老樹<タブの木>を眺め、それから蓮池の方に歩いた。
 お寺の前の草むらには、コスモスが早くも咲き乱れていた。(写真)
 もう、コスモスの咲く季節?
 と、佇んで眺めた。あまりに季節の移ろいが早いように思える。好きな秋に移行してくれるのは嬉しいが、一面、寂しくもある。
 そんな事をとりとめもなく思っていると、本堂から読経が聞こえてきた。張りのあるいい声である。Gさんの、朝のお勤めなのだろう。
 読まれているお経は<正信偈>に違いない。

 今日は、母の命日である。
 今夕は仏前で、せめて<重誓偈>を読み、亡き母を偲ぶことにしよう。
 やはり母は、明治生まれの賢母であったと思う。
 私は、どう甘く見ても、母の賢さには遠く及ばない。
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夏の花 (百日紅)

2008-07-29 | 身辺雑記

 先日、団地の路地を一巡したとき、とある家の塀際に、見慣れた花が咲いていた。
 夏の花である。
 が、とっさに花の名前が思い出せなかった。
 道々、夾竹桃ではないし……と、様々な花の名を口にしてみたが、すぐ否定することになった。
 家の玄関まで帰って、<百日紅>の名が突如思い浮かんだ。(写真)

 脳学者、茂木健一郎氏の話によると、記憶は側頭葉にしまいこまれているらしい。その記憶が、前頭葉に達して蘇るまでに、どうかすると大変時間がかかる。
 幾日も経ってから、思い出すこともある。
 <百日紅>の名は、比較的早く思い出せた。すると、山口の一の坂川の河畔には、白とピンクの百日紅があったことも蘇ってきたのだった。

 先のブログで、太宰治の小説『斜陽』に出てくる<ひめごと>に触れながら、私の記憶違いではあるまいな、と本を開いて確かめた。
 『斜陽』のあちこちには、アンダーラインが入っている。それを追っていると、、

 <「夏の花が好きなひとは、夏に死ぬっていうけれども、本当かしら。」
   きょうもお母さまは、私の畑仕事をじっと見ていらして、ふいとそんな事を
  おっしゃった。私は黙っておナスに水をやっていた。ああ、そういえば、もう
  初夏だ。
   「私は、ねむの花が好きなんだけれども、ここのお庭には、一本も無いの
  ね。」
   とお母さまは、また、しずかにおっしゃる。>

 という文章の一部にも、線を入れているのだった。
 <夏の花が好きな人は夏に死ぬ><ねむの花が好き>という箇所に。

 私は、夏は嫌いだが、夏の花は好きである。しかし、他の季節と比較して、特にというわけではないけれど。
 今日は母の祥月命日である。今、ブログを書いている、この時間に、母は息を引き取った。平成4年の、やはり猛暑の日であった。
 母は、夏の花が好きだったのだろうか?
 季節はいつが好きだったのか、そんなことを話題にしたことがあったかどうかさえ、記憶は定かでない。語り合ったことはあっても、忘れたのかもしれない。

 私には、失語症の兆候がある。
 昨日は、草花舎で、Yさんと、メイ・サートンについて話しているとき、<冷蔵庫>という言葉が出てこなかった。思い出してから、なんで、そんな身近な言葉が雲隠れするのかと二人で笑ったが、少々ショックだった。
 言葉だけではない。自分が先刻したことが思い出せなかったりもする。
 今日は、妹夫婦が他用もあって来宅、仏前にお花を供えた。
 その二人に、私は頼んだのだった。
 「どこかにキウイを一つ置いていないかしら? ちょっと探して」
 と。朝食のデザートに食べようと手に取ったのに、食卓になかったし、皮をむいた記憶もないのだ。
 「どこか、あらぬところに置いていないかしら?」
 と言いつつ、二人がきょろきょろ辺りを点検している間、私も探した。
 見つけたのは、私だった。冷蔵庫に入っていたのだった。別に冷やそうと思ったわけではなかったのに。
 一事が万事。82歳のメイ・サートンに似始めた。
 困ったことだと思いながら、そう深刻に悩んでいるわけではない。失語症気味はあるかもしれないけれど、とにかく雑念が多すぎるのだ。
 <心、ここにあらず>が、いけないのだと。
 これは、気休め?

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朝の日課  (S寺のタブの木)

2008-07-29 | 身辺雑記

 私の朝の日課は、ほぼ決まっている。
 洗顔の後、化粧を終えるまでに、必ずパソコンを開ける。同時進行というわけにはいかないが、下地の化粧水をはたいた段階で、大抵パソコンを開く。
 まずメールを見て、不要な広告メールは即座に消してしまう。その後、私のブログを開け、昨日の閲覧数や訪問者数を確認する。
 無名の老女の書くブログなどに、関心を寄せてくれる人は少ない。それでも日々、思いの外多数の人に読まれており、その数字を疑うこともある。
 その後、コメントやトラックバックを確認する。反応がないより、誰かに読まれ、コメントなど送られてくると嬉しい。
 が、時折、私の記事とは全く関係のない、卑猥なコメントが入ることもある。なぜそんなくだらない記事を書いて、人に知らしめなくてはならないのかと、理解に苦しむようなもの。旅に出かけたりしてパソコンが開けず、そのコメントが消せないときなど、私のブログに忍び込まれたままになっていたというだけで、こちらが恥ずかしい気分になるような類のもである。もちろん、気づくとすぐ消去する。
 しかし、取り上げる素材が異なるだけで、<くだらなさ>という点では、五十歩百歩なのかもしれない…。私のブログもくだらない。

 大方のブログがそうであるように、私の場合も日記的要素が強い。が、真の日記ではない。ここに書けないこと、書くことのためらわれることを、愚かな私は、胸中に沢山抱えている。
 太宰治の『斜陽』に出てくる母と娘の会話のなかに、人間と他の動物とが本質的に異なる点を問答し、他の生き物には絶対になくて人間にだけあるもの、それは<ひめごと>だと、娘の答える場面がある。
 そのとおり。誰の胸中にも、人に語れぬことはあるだろう。
 それは私も同じである。不特定多数の人に読まれるブログに、やはり告白する気にはなれないこともある。その片鱗を文中に潜ませるなら、婉曲に、オブラートにくるむしかない。
 

 横道に逸れてしまった。
 今朝は、私のブログを開く前に、アマゾンの広告メールを開けたことで、思わぬ時間を費やすことになってしまった。
 実は、今売れている本として、国文学者、光田和伸著<恋の隠し方―兼弘と『徒然草』>の紹介が入っていたのだった。
 この本については、過日、朝日新聞の書評でも取り上げられていた。注文しようかと、一瞬、迷ったけれど、本を増やすことへの躊躇いと、兼弘の恋を徒然草の中に探ってみても仕方がない、そんな思いもあって、意外に早く執着を取り払ったのだった。
 ところが、今朝、<この本の中身を閲覧する>をクリックし、ついに<著作権保護コンテンツ>の欄もクリック、目次と著者の書き出しの数ページを読むことになった。
 これは面白そうだ、と思ったとたんに、ショッピングカートをクリックしていた。
 おまけに、杉本秀太郎著<『徒然草』を読む>まで、アマゾンへ注文してしまったのだった。

 こうして、朝の時間は、いつもどおりに運ばず、化粧をし終えると、洗濯物を干しし、庭に出たついでに、戸締りもせず、カメラを持って蓮池を目指した。
 途中、いつも見上げるS寺の大木を眺めた。梢の先に深紅色が見えるのは、この春、新しく芽生えた葉なのであろうか。時間をかけて緑に変わる?
 先だって、S寺の住職、Gさんに、鐘楼の近くにある大木は何かと尋ねた。
 私の予想していたとおり、「タブの木」だとの答えだった。(写真)
 見事な老樹である。
 幾歳月を生きてきたのであろうか。
 この大樹を見上げると、いつも、こせこせと生きている私の生が、随分お粗末なものに思われるのだ。  

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