ぶらぶら人生

心の呟き

浜辺でキャンプ

2007-05-04 | 散歩道
 今朝、浜辺に下りてみると、海岸の奥まったところに、二つのテントが張られていた。(写真 その一つ)
 二つは、無関係な人たちのものらしかった。
 それぞれのテントの傍には、テーブルや椅子まで置いてある。食量らしいものも。日常をそっくり、そこへ運んできた感じだった。
 多分若者のグループが連休でやってきて、昨夜からテント暮らしを楽しんでいるのだろう。おそらく魚釣りを兼ねて。
 今まで見たこともなかった海辺の情景なので、始めはなんだろう? と、不思議に思ったのだが。
 
 いいな、とちょっとうらやましい気分にもなった。
 野外で一夜を過ごすなど、私は一度も経験したことがない。この年になっては、もう無理なことだし……。波打ち際を歩きながら、一生は長いようで、その間に経験できることは随分限られていること、体験は人様々であることなど、当然のことを改めて考えていた。人生の様々な苦楽に関わることに比べれば、キャンプ体験など、実に些事と言えるのだろうけれど。
 
 経験がないからこそ、夢想を楽しんでいるのだ。
 星空を仰ぎながら、春の夜風に吹かれて一夜を過ごすといった心地よさだけを考えている。どうして嵐に遭遇しないとも限らないのに。
 夢想は常に、楽しいことばかりを思いがちなのだろう。
 
 折角のキャンプだったのに、昨夜は、美しい星月夜というわけにはいかなかったはずだ。就寝前に外に出てみた。月は雲に隠れ、星も見えなかった。漆黒の闇の中、波音、風音が高くて、眠れない人もあったかもしれない……。

 テントが張られていたばかりに、平素の散歩では考えない、どうでもいいことが、頭を巡った。
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美と感動

2007-05-04 | 身辺雑記

 先日(2日)、定期の検診を受けるために、かかりつけの病院に行った。
 帰途、T駅に向かって歩く途中、道端に咲いた野草の可憐さ、美しさに心惹かれて足を止めた。淡い紫紅色の花が、石垣の隙間にひしめくように咲いているのだ。(写真)
 カタバミの類であることは、葉や花の形から分かった。座り込んで花に向き合うと、小さな花弁なのに、線の模様などを施して、なかなかおしゃれである。
 「あなた、可愛いのね」
 と言ってやりたくなる。実際に心の中で、そう呟き、人気のない田舎道でひとり、自然の小さな美に心を打たれ、花と向き合えることに幸せを感じたのだ。
 花の名前は本で調べて、「ムラサキカタバミ」であると分かった。
 
 今日は突然思い立って、グラントワに行ってきた。
 「森英恵 手で創る 東京―パリ―島根」展を覗くために。
 きらびやかな装飾的な世界に目を奪われはした。しかし、私にとってそう関心のある世界ではないせいか、視覚を通して心に訴えかける感動はなかった。
 ムラサキカタバミを眺めている方が、むしろ心が幸せになれるなどと正直に記せば、森英恵ファンには怒られるかもしれない。けれども、正直な気持ちである。

 思ったより、入場者は多かった。連休のせいもあるだろう。おじ様おば様たち、何を感じておられるのだろう?
 驚いたのは、入場した途端に、森英恵のドレスを着たマネキンが、さっと両腕を広げたことだった。華やかなドレスが、静から動の動きを見せたので、?と思った。
 貰ったパンフレットには、松井龍哉いう人によって開発されたものだと記してあった。さらに、
 <このマネキン型ロボット「Palette(パレット)」はセンサーによって、人間を感知し、状況に応じた様々な動きを可能にします。>
 と、書いてあった。
 時間を指定して、動きが設定されているようだった。
 展示室に入った途端に、ドレスを着たマネキンが動いたときには、私の視覚が変調をきたしたのかと、一瞬疑った。初めての経験だったので。

 会場を出て一休みのつもりで、椅子にかけた。すると、大型スクリーンに、森英恵デザインの洋服をまとったモデルが、次々と映し出されていた。ファッションショーなどに無縁な私は、服装ではなく、モデルの動きばかりを眺めていた。申し合わせたように、皆背が高く、痩身でスタイルがいい。
 動きや表情が、どうしてあのように画一的なのだろう?
 モデルはどうしてあんなにお尻を振るのだろう?
 歩き方のせいだろうか?
 など、とるに足らぬことばかりを考えながら。
 よく見ていると、極端に高いハイヒールの足が、互いに交差するたびに、お尻が左右に揺れる。普通に歩行するときには、あんなふうに、一方の足の前にもう一方の足を運ぶ、交差するような歩き方はしない。
 あの足の運びに、お尻の揺れる原因がるのでは、と思った。そこで、館を出た後、私は早速人気のない歩道で、モデルの歩きを実践してみた。ローヒールの靴を履いた短足ても、ひとりでにお尻が揺れることを実感し、妙な発見(?)に、なるほどと納得した。
 動くマネキンと、モデルのお尻が揺れる原因が分かったのは、今日の収穫。

 大下藤次郎の絵を中心にした「水辺の風景」展の方には、視覚の捉えたものが心に達する、静かな感動があった。やはり絵はいい。
 美は、感動となって心に沁みてこそ、すばらしいと言えるのではあるまいか、そんなことを考えながら、グラントワを後にした。

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詩集『歳月』を読む

2007-05-04 | 身辺雑記

 先日来、幾度か『歳月』(花神社)を手に取り、繰り返し読んでいる。
 『歳月』は、茨木のり子の没後に、出版された詩集である。

  今ほど古歌のなつかしく
  身に沁み透るときはない
  読みびとしらずの挽歌さえ
  雪どけ水のようにほぐされて

  清冽の流れに根をひたす
  わたしは岸辺の一本の芹
  わたしの貧しく小さな詩篇も
  いつか誰かの哀しみを少しは濯(あら)うこともあるだろうか (「古歌」3,4連)

 この詩句にあるとおり、私の哀しみは、今、茨木のり子の詩篇に濯われている。私の心の代弁者のような詩句に触れながら。

 詩集の題名『歳月』は、詩集の最後に掲げられた「歳月」という詩題からとられたものである。その詩は、

  真実を見きわめるのに
  二十五年という歳月は短かったでしょうか

 という書き出しで始まる。詩人茨木のり子(1926~2006)の、最愛の夫・三浦安信への思いが綴られた詩集である。夫に先だたたれたあと、31年の歳月の間に書き溜め、未発表のまま、<Y>(安信のイニシアル)という箱に収められていたものだという。
 死後に公表する意思はあったようである。その意思を汲んで、甥にあたる宮崎治という方が中心になり、花神社の編集者や関係の方々の力添えもあって、一周忌に間に合うように出版された詩集であるという。
 詩句にある<二十五年>とは、結婚生活の歳月であり、夫亡き後も、その結婚生活よりもさらに長い31年の歳月を、最愛の人への思いを胸に生きた詩人の、その深い愛が、鋭い感性と表現で詠われている。

 ここに収められた39篇の詩が、<Y>と記された筐底に眠ったままになっていたら、多くの読者が感動を得られないままになったことだろう。
 詩集を手にし、心を震わせながら、感動に浸れる幸せを、私は今かみしめている。
 読者それぞれに、詩の受け止め方は異なるだろう。
 私は、私の現在の心境にぴったりの詩、3篇を書きとめておくことにする。

     占  領
  姿がかき消えたら
  それで終り ピリオド!
  とひとびとは思っているらしい
  ああおかしい なんという鈍さ

  みんなには見えないらしいのです
  わたくしのかたわらに あなたがいて
  前よりも 烈しく
  占領されてしまっているのが

    泉
  わたしのなかで
  咲いていた
  ラベンダーのようなものは
  みんなあなたにさしあげました

  わたしのなかで
  溢れていた
  泉のようなものは
  あなたが息絶えたとき いっぺんに噴きあげて
  今はもう枯れ枯れ だからもう 涙一滴こぼれない

  ふたたびお逢いできたとき
  また薫るのでしょうか 五月の野のように
  また溢れるのでしょうか ルルドの泉のように

     急がなくては
  急がなくてはなりません
  静かに
  急がなくてはなりません
  感情を整えて
  あなたのもとへ
  急がなくてはなりません
  あなたのかたわらで眠ること
  ふたたび目覚めない眠りを眠ること
  それがわたしたちの成就です
  辿る目的地のある ありがたさ
  ゆっくりと
  急いでいます
 

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