ぶらぶら人生

心の呟き

遠い思い出 「山桃」

2006-07-07 | 身辺雑記

 隣家の庭に、山桃の樹があることに気づいたのは、昨年だった。
 この地に住んで二十年余りになるのに、その樹の存在に全く気づかなかった。今もそう大きな樹ではないので、おそらく、成長の途次にあり、実をつけ始めたのは、近年のことかもしれない。
 昨年、地面がひどく汚れているので、上を見上げた。一緒に歩いていた友人が、「今年は雨にやられて、どこの山桃も全滅だ」と、教えてくれた。熟しきらないうちに、みな落果したらしかった。それは残念、という思いが、二人にはあった。「山桃や桑の実を懐かしがるのは、私たちの世代くらいかもしれないね」と、友人と話したのは、昨年の今頃だったのだろう。
 
 今年も、先日、落果に気づいて、樹を仰いだ。今年は、たわわに実をつけている。完熟した山桃は、まだ少ない。
 今日は梅雨の中休みで、珍しく青空が広がっている。デジカメを持って、近所を散歩した。添付した写真が、隣家の山桃である。
 「李下に冠を正さず」というが、その教えを破り、私が人目をはばからず、堂々と手を伸ばし、山桃を頂戴しても、誰も咎める人はないだろう。何でも欲しいものを入手できる今は、山桃の実に関心を持つ人など、いないのでは、と思われる。
 山桃の樹は、人知れず実をつけ、誰に見られるでもなく、熟しきって落果するだけなのだろう。たまには、小鳥が啄ばみに来るのだろうか。
 隣家の家族は、みな働きに出て、日中は留守である。山桃が青い実をつけ、赤く色づき、やがて紫紅色に熟してゆく経緯など、ご存じないのかもしれない。

 働くことに忙しい世代には、そこにあるものが見えないときがある。
 私も、齷齪と働いていた時代には、風のそよぎや鳥のさえずり、美しい草花などから、耳目を閉ざしていた。余裕というものがなかったのだ。忙しく働くことで、少しは、何か世の中に役立っていたのかもしれないが、今にして思えば、大切なものを見過ごし、聞き過ごしていた時代でもあったような気がする。


 私の心の中には、一本の、山桃の大樹がある。あの樹はまだ存在するのだろうか。二キロ歩けば行って確かめられるのだが、往復四キロ歩くのは、ちょっと覚悟がいる。
 しかし、気にはなる。大抵の人にはどうでもいいことが、私は気になり始めると、その一点に心が集中する悪い癖がある。
 当主の名前が分かれば、電話で聞いてみることもできる。が、姓も名も知らない。屋号を「カネヤ」といい、当時、大家族の農家で、私の前後に、一つ違いの子どもがいたことも思い出す。
 が、半世紀以上も昔の話だ。山桃の樹の、平均的な寿命はどれくらいなのだろう? 当時、すでに驚くほどの大樹だったものが、今なお泰然と地に根を張っているのだろうか。
 そうだ、トシちゃんに電話してみればいい、「カネヤ」とは同じ町内なのだから、そう気づくと、受話器を手にしていた。
 運よく、トシちゃんは在宅だった。私よりは四つ年上の先輩だが、昔からトシちゃんといい、今もその呼び名で通している。
 トシちゃんの話によると、今でも、山桃の樹は健在だそうだ。が、ぬめっとした蚕たちが、うじゃうじゃ飼われていた、あの養蚕室は解体されたらしい。

 どんな老木になって天にそびえているのだろうか。健在を確認した途端に安心した。いつか散歩がてら出かけ、確かめてみよう。

 「カネヤ」へは、養蚕の手伝いに行ったのだった。小学生(当時は国民学校)の勤労奉仕として。(このことについては、以前のブログにも書いた。)
 その家の庭にあったのが、山桃の大樹だ。養蚕の手伝いが主か、山桃をいただくのが主目的か、分からなかった。
 大きな樹だから、登らないと実を採ることはできない。男の子たちが、樹に登って枝をゆすると、熟した実は地にパラパラと落ちた。
 木登りの少年の中には、トシちゃんもいて、思い出の共有者らしい。
 「カネヤの山桃、よく食べたね」と、受話器の向こうで、懐かしそうだった。

 桑の実同様、その果汁は、白い服を赤紫色に染めた。が、そんなことはお構いなしだった。まだ飢えを感じるほど食糧事情が悪くなっていたわけではないが、お菓子の配給はなくなっていたように思う。自然の果実が、おやつ代わりをしてくれたのだろう。
 桑の実同様、遠い思い出の中にある「山桃」は、とても美味しかったが、もう久しく口にしていない。

 
 <余禄> ―屋号について―

 
トシちゃんと電話で話しているうちに、屋号が話題になった。
 私が「カネヤ」といっている家の正式な屋号は、トシちゃんによると、「加那屋」、つまり「カナヤ」なのだそうだ。カナヤがいつの間にか音変化してカネヤと言うようになったらしい。

 トシちゃんのうちは、「ダア」という変な屋号だ。今まで尋ねたこともなかったが、その由来を聞いてみた。
 漢字を当てれば「台湾」の台。しかし、旧字体の<臺>をあてて「ダア」というのだそうだ。
 トシちゃんの話だと、「ダア」という屋号は、この地方には珍しくない屋号で、各地にあるとのこと。 
 以前から、この屋号は気になっていた。音が、あまりきれいではない。
 <臺>(タイ・ダイ)の漢字がもとにあると聞いて、漢和辞典を調べてみた。
 意味については、<うてな。高い土台や物を載せる台。また、見晴らしのきく高い台。>と説明されている。
 トシちゃんの家は、まさしく見晴らしのきく高所にある。だから、<臺>(ダイ)といったのだろう。それが訛って「ダア」になったのではあるまいか。
 石見言葉の特徴をとらえて、<石見の「かあ、かあ」>と言われるくらいだから、「ダア」というのも、発音しにくいイ音がア音に変化した結果なのかもしれないと、勝手に想像している。
 現在は、あまり屋号を使わなくなったようだ。私の子ども時代には、結構大人は屋号を使っていて、子どもの私たちも耳にしていた。

 トシちゃんと、「ダア」周辺の屋号を思い出して語り合った。
 「ダア」の向こう隣は「サキダア」であり、その他「スミタヤ」「ジンデ」「カメモトヤ」「テラヤシキ」「アライガワ」など、屋号で呼ぶ家のあったことを、二人で思い出した。

 私は、すっかり忘れていたが、祖父の家は「スミヤ」であったと、会話の途中で思い出した。今は使うこともなく、二階の物置にしまってある、昔のお膳や食器類の箱に「壽美屋」と漢字で書いてあるのも思い出した。
 祖父は、小さな村の村長だった。白い顎鬚を伸ばしていた。

コメント
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