ぶらぶら人生

心の呟き

夏の花 向日葵

2006-07-01 | 身辺雑記
 夏の花といえば、やはり向日葵だろう。
 が、夏とはいっても、今は梅雨のさ中。
 太陽を連想させる、あの大きな向日葵は、八月にこそ似つかわしいのかもしれない。近年、民家の周辺に咲く、丈高い向日葵をあまり見かけなくなったような気がする。子どものころには、もっとなじみのある花だったのに……。

 中原中也は、「夏の日の歌」(詩集『山羊の歌』)の第二連で、次のように詠っている。

 夏の空には何かがある、
 いぢらしく思はせる何かがある、
    焦げて図太い向日葵が
    田舎の駅には咲いてゐる。

 
後二行の<焦げて図太い向日葵が 田舎の駅には咲いてゐる。>といった光景には、なじみがあり、親しみを覚える。

 向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちいささよ  前田夕暮

 
この歌は、昔、国語の教科書で学んだ。それ以来、向日葵を見れば必ず思い出す。また、この絵画的な歌を口ずさみながら、ゴッホの向日葵をも思い出す。
 中原中也の詩の中にある<焦げて図太い>向日葵や、前田夕暮の歌に詠まれた<ゆらりと>高い向日葵には、どこかゆるぎない量感や野性味がある。夏の陽光にたじろがない強靭さも感じられる。

 私も一度、私の背丈を遥かに超える、大きな向日葵を育てたことがある。
 訪中の師から、お土産としてもらった向日葵の種を、見事に咲かせたのである。それはことのほか大きく育ち、大陸的な風格があった。その花の種を翌年も蒔いてみたが、ごく普通の向日葵にしか育たなかった。

 先日(6月28日)、訪れた「しまね花の郷」にも、向日葵が咲いていた。これから暫くは<花の郷>を訪れる人たちの目を楽しませることだろう。
 そこには幾種類かの向日葵が植えられていたが、みな小振りである。自己主張を遠慮している、しおらしい花たち。しかし、小振りは小振りなりに、整然と咲きそろった様には、集合体としての美しさがある。
 向日葵といえば黄色。しかし、写真のような変種もある。

 携帯カメラで撮影し、パソコンに一旦取り入れたものを添付してみた。画像をマイピクチャから取り出す操作には慣れたが、携帯で撮った写真は、マイドキュメントの「携帯データ」フォルダに保存されている。
 まだパソコンを自在に操作できない私は、果たしてうまくゆくかどうか、心配した。初めてのことには、常に不安がつきまとう。が、なんとか成功し、「しまね花の郷」で撮った、色彩的に珍しい向日葵の写真を添えることができた。

 向日葵の句を探して、歳時記も開いてみた。
 次の二句には、いかにも大きく咲いた向日葵の、ずっしりと重そうな、しかも泰然自若とした姿を感じる。

 日を追はぬ大向日葵となりにけり         竹下しづの女
 向日葵やものヽあはれを寄せつけず       鈴木真砂女

 
句に表現された向日葵は、おそらく一本、または数本の花であろう。畑の片隅か、庭の一角に植えられた、存在感のある向日葵を想像する。
 向日葵は一本もいい。
 が、
大きい向日葵の群生する様を見たことのない私は、巨大な向日葵の群落を、一度見てみたい気がする。真夏の炎天下に佇んで。
コメント
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