先日入手したばかりの一冊。長田弘の散文詩集「深呼吸の必要」(晶文社)を、前々回のブログに取り上げた詩集「死者の贈り物」についで、一読した。
実におしゃれな本だ。
本のカバーに記された端的な表現が、この本の特色をうまく紹介しているので、まずその引用から始めよう。
ときには、木々の光を浴びて、言葉を深呼吸することが必要だ。
日々のなにげないもの、さりげないもの、言葉でしか書けない
ものをとおして、思いがけない光景を、透きとおった言葉にとら
えた《絵のない絵本》。
風の匂いがする。言葉の贈りものとしての、散文詩二章33篇。
題名だけみると、健康志向の盛んな現在、肺に新鮮な空気を取り入れ、体内から汚れた空気を思いっきり吐き出す<深呼吸>を連想しそうだ。
が、その深呼吸ではない。
上記の紹介文でも、およその見当はつくが、さらによく理解するために、作者の「後記」の冒頭部分を引用しておこう。
言葉を深呼吸する。あるいは、言葉で深呼吸する。
そうした深呼吸の必要をおぼえたときに、立ちどま
って、黙って、必要なだけの言葉を書きとめた。そ
うした深呼吸のための言葉が、この本の言葉の一つ
一つになった。(以下略)
引用部分を読みながら、ずどんと頭を叩かれた気がした。<立ちどまって、黙って、>まではいいとして、<必要なだけの言葉を書きとめた。>に到って、私はわが身を恥じつつ、そうでなくては、と反省した。文章、あるいは散文、詩などを書く上で、大切なのは、<必要なだけの言葉>を選ぶことなのだ。無意味な饒舌はやめよう、と今は思っている。
前半の散文詩「あのときかもしれない」では、一~九までの章があり、
一 きみはいつおとなになったんだろう。に始まる第一章は、子どもだったきみが、「ぼくはもう子どもじゃない。もうおとななんだ」とはっきり知った「あのとき」は? という問いかけになっている。
二章から九章に到るまで、その問いかけに、私は、私なりに自問自答し続けた。
各章の、ポイントになる言葉を引用しておくことにする。
が、むしろ詩の面白さは、引用部に到るまでの、その過程にある。そこにこそ、表現の妙味がある。――詩人らしいことば遣いの巧みさに感動したり、場を得たことばの輝きに巡りあえたりする……。
二 そうしてきみは、きみについてのぜんぶのことを自分で決めなくちゃならなくなっていったのだった。つまり、ほかの誰にも代わってもらえない一人の自分に、きみはなっていった。…略…好きだろうがきらいだろうが、きみという一人の人間にしかなれなかった。そうと知ったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、ひとりの子どもじゃなくて、一人の大人になったんだ。
こんな具合に展開してゆく。大の大人になってしまった私は、なるほどなあ、確かにそんな時期があった、と遠い過去に思いを馳せながら、それが大人への階段だったのだ、と納得する。
三 歩くことのたのしさを、きみが自分に失くしてしまったとき。
(子どもには歩き回るという行動の中に、絶えず冒険の楽しさがあった。)
四 ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づくとき。
五 これ以上きみはもう大きくはなれないんだと知ったとき。
六 「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、「そうなってるんだ」という退屈なこたえで、どんな疑問もあさっり打ち消してしまうようになったとき。
確かに、これは痛い指摘だ。これを進歩とは言い難い。大人たるものの、退歩の悲哀を感じる! こんな大人にはならない方がいいのだが……。
七 二人のちがう人間がたがいの明るさを弱めることなく、おなじ明るさのままで一緒にいるということがどんなに難しいことか知ったとき。ひとを直列的にでなく、並列的に好きになることが、どんなに難しいことかを、きみがほんとうに知ったとき。
これは、高尚な、人間同士のあり方の問題だ。この点では、子どものままの大人が多すぎるのではなかろうか。それが離別や犯罪さえも生む。
八 きみが、(父親に対して)一人の完全な人のでなく、誰ともおなじ不完全な人の姿を、…略…きみの父親の姿にみつめていたとき。
(引用部部の意味が分かりにくいかもしれない。父親の、人間としての本当の姿、<寂しさもあれば弱さもある、苦しみさえも背負っている、父親の真実の姿>に気づいたとき、といった意味だと思う。)
九 きみがきみの人生で、「こころが痛い」としかいえない痛みを、はじめて自分に知ったとき。
詩人は次から次へと、子どもが大人になってゆく、その境界線は何であるかを、詩的表現で述べている。子どもから大人へと、精神的に昇華してゆく、そのプロセスは、言われてみれば体験として思い出せるものばかりだが、大方の大人は、もう過去を分析しない。ときにふり返ることはあっても、それを自分の言葉で表現しようとはしないし、しようにもできないまま、曖昧模糊とした状態で、心に抱え込んでいるだけだろう。
この詩を読むことで、その心の不明な部分が、次第に晴らされてゆく、そんな楽しさを味わうことができる……。
もう一つの散文詩「おおきな木」は、24篇の異なる詩編である。
詩題は、おおきな木・花の店・路地・公園・山の道・驟雨・散歩・友人・三毛猫・海辺・梅尭臣・童話・柘榴・原っぱ・影法師・イヴァンさん・団栗・隠れんぼう・賀状・初詣・鉄棒・星屑・ピーターソン夫人・贈りもの――の以上である。
僅かの例外はあるが、詩題からしても、身辺の素材が多く、懐かしさや親しみを覚えるものばかりだ。平凡な日常茶飯、どこにでもあることが、詩人の手にかかると、生き生きと息を吹き返す。深呼吸をした言葉のように!
終わりの二編を除けば、みな原稿用紙一枚に収まる散文詩ばかりである。一行が20字で、一ページに余白の部分が多い。贅沢な体裁が、詩の味わいを深めてもいる。活字も平凡な黒ではなく、新鮮な緑色で統一されている。(私もこれに倣って、引用文は緑にした。)
…………(前、省略)………………曲り角
をいく つも曲がって、 どこへゆくためにで
な く 、歩くことをたのしむために街を歩く。
とても簡単なことだ。 とても簡単なようなの
だが、そうだろうか。どこかへ何かをしにゆ
く ことはできても、 歩くことをたのしむため
に歩くこと。 それがなかなかにできない。 こ
の世でいちばん難しいのは、いちばん簡単な
こと。 (「散歩」より)
(前、省略)
原っぱには、何もなかったのだ。けれども、
誰のものでもなかった何もない原っぱには、
ほかのどこにもないものがあった。きみの自
由が。 (「原っぱ」より)
(前、省略)
団栗にはなぜかしら、いまはもうおもいだ
すこともできないような、幼い記憶の感触が
ある。きみは黙って、きみの失く してしまっ
た想い出の数を算える。それはきっと、両掌
に拾いあつめた団栗の数にひとしい。
(「団栗」より)
引用はこれくらいにしておこう。気に入った詩文を書き出していたら、きりがない。
今後、表現に行き詰まり、自分の書くものがいやになった日には、私はまた、この詩集を手に取るだろう!
一度読んでおしまいというわけにゆかない、いい詩集だ。その証拠に、この散文詩集は1984年の初版から、39刷を重ねている。
実におしゃれな本だ。
本のカバーに記された端的な表現が、この本の特色をうまく紹介しているので、まずその引用から始めよう。
ときには、木々の光を浴びて、言葉を深呼吸することが必要だ。
日々のなにげないもの、さりげないもの、言葉でしか書けない
ものをとおして、思いがけない光景を、透きとおった言葉にとら
えた《絵のない絵本》。
風の匂いがする。言葉の贈りものとしての、散文詩二章33篇。
題名だけみると、健康志向の盛んな現在、肺に新鮮な空気を取り入れ、体内から汚れた空気を思いっきり吐き出す<深呼吸>を連想しそうだ。
が、その深呼吸ではない。
上記の紹介文でも、およその見当はつくが、さらによく理解するために、作者の「後記」の冒頭部分を引用しておこう。
言葉を深呼吸する。あるいは、言葉で深呼吸する。
そうした深呼吸の必要をおぼえたときに、立ちどま
って、黙って、必要なだけの言葉を書きとめた。そ
うした深呼吸のための言葉が、この本の言葉の一つ
一つになった。(以下略)
引用部分を読みながら、ずどんと頭を叩かれた気がした。<立ちどまって、黙って、>まではいいとして、<必要なだけの言葉を書きとめた。>に到って、私はわが身を恥じつつ、そうでなくては、と反省した。文章、あるいは散文、詩などを書く上で、大切なのは、<必要なだけの言葉>を選ぶことなのだ。無意味な饒舌はやめよう、と今は思っている。
前半の散文詩「あのときかもしれない」では、一~九までの章があり、
一 きみはいつおとなになったんだろう。に始まる第一章は、子どもだったきみが、「ぼくはもう子どもじゃない。もうおとななんだ」とはっきり知った「あのとき」は? という問いかけになっている。
二章から九章に到るまで、その問いかけに、私は、私なりに自問自答し続けた。
各章の、ポイントになる言葉を引用しておくことにする。
が、むしろ詩の面白さは、引用部に到るまでの、その過程にある。そこにこそ、表現の妙味がある。――詩人らしいことば遣いの巧みさに感動したり、場を得たことばの輝きに巡りあえたりする……。
二 そうしてきみは、きみについてのぜんぶのことを自分で決めなくちゃならなくなっていったのだった。つまり、ほかの誰にも代わってもらえない一人の自分に、きみはなっていった。…略…好きだろうがきらいだろうが、きみという一人の人間にしかなれなかった。そうと知ったとき、そのときだったんだ。そのとき、きみはもう、ひとりの子どもじゃなくて、一人の大人になったんだ。
こんな具合に展開してゆく。大の大人になってしまった私は、なるほどなあ、確かにそんな時期があった、と遠い過去に思いを馳せながら、それが大人への階段だったのだ、と納得する。
三 歩くことのたのしさを、きみが自分に失くしてしまったとき。
(子どもには歩き回るという行動の中に、絶えず冒険の楽しさがあった。)
四 ある日ふと、もう誰からも「遠くへいってはいけないよ」と言われなくなったことに気づくとき。
五 これ以上きみはもう大きくはなれないんだと知ったとき。
六 「なぜ」と元気にかんがえるかわりに、「そうなってるんだ」という退屈なこたえで、どんな疑問もあさっり打ち消してしまうようになったとき。
確かに、これは痛い指摘だ。これを進歩とは言い難い。大人たるものの、退歩の悲哀を感じる! こんな大人にはならない方がいいのだが……。
七 二人のちがう人間がたがいの明るさを弱めることなく、おなじ明るさのままで一緒にいるということがどんなに難しいことか知ったとき。ひとを直列的にでなく、並列的に好きになることが、どんなに難しいことかを、きみがほんとうに知ったとき。
これは、高尚な、人間同士のあり方の問題だ。この点では、子どものままの大人が多すぎるのではなかろうか。それが離別や犯罪さえも生む。
八 きみが、(父親に対して)一人の完全な人のでなく、誰ともおなじ不完全な人の姿を、…略…きみの父親の姿にみつめていたとき。
(引用部部の意味が分かりにくいかもしれない。父親の、人間としての本当の姿、<寂しさもあれば弱さもある、苦しみさえも背負っている、父親の真実の姿>に気づいたとき、といった意味だと思う。)
九 きみがきみの人生で、「こころが痛い」としかいえない痛みを、はじめて自分に知ったとき。
詩人は次から次へと、子どもが大人になってゆく、その境界線は何であるかを、詩的表現で述べている。子どもから大人へと、精神的に昇華してゆく、そのプロセスは、言われてみれば体験として思い出せるものばかりだが、大方の大人は、もう過去を分析しない。ときにふり返ることはあっても、それを自分の言葉で表現しようとはしないし、しようにもできないまま、曖昧模糊とした状態で、心に抱え込んでいるだけだろう。
この詩を読むことで、その心の不明な部分が、次第に晴らされてゆく、そんな楽しさを味わうことができる……。
もう一つの散文詩「おおきな木」は、24篇の異なる詩編である。
詩題は、おおきな木・花の店・路地・公園・山の道・驟雨・散歩・友人・三毛猫・海辺・梅尭臣・童話・柘榴・原っぱ・影法師・イヴァンさん・団栗・隠れんぼう・賀状・初詣・鉄棒・星屑・ピーターソン夫人・贈りもの――の以上である。
僅かの例外はあるが、詩題からしても、身辺の素材が多く、懐かしさや親しみを覚えるものばかりだ。平凡な日常茶飯、どこにでもあることが、詩人の手にかかると、生き生きと息を吹き返す。深呼吸をした言葉のように!
終わりの二編を除けば、みな原稿用紙一枚に収まる散文詩ばかりである。一行が20字で、一ページに余白の部分が多い。贅沢な体裁が、詩の味わいを深めてもいる。活字も平凡な黒ではなく、新鮮な緑色で統一されている。(私もこれに倣って、引用文は緑にした。)
…………(前、省略)………………曲り角
をいく つも曲がって、 どこへゆくためにで
な く 、歩くことをたのしむために街を歩く。
とても簡単なことだ。 とても簡単なようなの
だが、そうだろうか。どこかへ何かをしにゆ
く ことはできても、 歩くことをたのしむため
に歩くこと。 それがなかなかにできない。 こ
の世でいちばん難しいのは、いちばん簡単な
こと。 (「散歩」より)
(前、省略)
原っぱには、何もなかったのだ。けれども、
誰のものでもなかった何もない原っぱには、
ほかのどこにもないものがあった。きみの自
由が。 (「原っぱ」より)
(前、省略)
団栗にはなぜかしら、いまはもうおもいだ
すこともできないような、幼い記憶の感触が
ある。きみは黙って、きみの失く してしまっ
た想い出の数を算える。それはきっと、両掌
に拾いあつめた団栗の数にひとしい。
(「団栗」より)
引用はこれくらいにしておこう。気に入った詩文を書き出していたら、きりがない。
今後、表現に行き詰まり、自分の書くものがいやになった日には、私はまた、この詩集を手に取るだろう!
一度読んでおしまいというわけにゆかない、いい詩集だ。その証拠に、この散文詩集は1984年の初版から、39刷を重ねている。