yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

「麒麟の翼」斜め読み2/2

2024年05月10日 | 斜読

斜読・日本の作家一覧>  book564 麒麟の翼 東野圭吾 講談社文庫 2014

 (1/2の続き)  香織は八島冬樹が最後に電話をかけてきた現場が気になり、人形町の浜町緑道に出かけ、捜査に行き詰まって事件の原点である浜町緑道に来ていた加賀と出会う。2人で事件現場を歩いていて、加賀は香織から映画の試写会の抽選をあてて2人でよく映画を見た、八島はコーヒーは飲まずココアが大好きだったことなどを聞く。
 八島の死体検案書の未消化物にココアはなかった。青柳と会っていたのは八島ではなさそうだ・・八柳犯行説がまたも崩れていく・・。
 八島が面接を受けようとしたのは京橋の家具・雑貨を販売しているストックハウスで、求人内容が違っていたので断られ、八島はストックハウスを出たことが分かる。
 ストックハウスは1階が土足禁止で、八島が穴の空いていない靴下を探していたわけが分かり、加賀は八島のその後の足取りを探す。

 悠人は高校の担任と進路について話し合ったあと、杉野に黒沢と「あのこと」を話したいと言う・・あのこと?。事件の核心が匂う・・。
 杉野と別れた悠人が家に帰るとき小竹に会う。悠人は父青柳武明をすべての黒幕にして片をつけようとする小竹に怒り、顔面を殴る話しが挿入される・・悠人が父を信頼し始めていた表れのようだ・・。

 加賀は、八島がストックハウスを出たあと近くの本屋に寄ったのではないかと考え、日本橋中央通りの本屋の防犯カメラを調べ、八島らしい後ろ姿を見つける。香織に確認してもらうと冬樹に間違いないと言う。時間は19:45だが、防犯カメラの後ろ姿だけでは八島の無実を証明しにくい。
 八島が本を手に取る映像もあったので、加賀は八島が手に取った本を探し、鑑識に指紋を調べてもらう。

 加賀は松宮と修文館中学を訪ね、水泳部顧問の糸川に3年前の夏休みに起きた事故について聞く・・青柳が胸を刺されて殺される直前に誰かとコーヒーを飲んでいる、八島はココア派である、事件の3日前に青柳は修文館中学の糸川と電話で話している、といったことがシャッフルされたのだろうか。まだ水泳部顧問糸川と事件とのつながりが見えない・・。
 加賀は水天宮の御利益に水難除けがあることに気づき、インターネット検索で3年前の夜7時ごろ、修文館中学のプールで2年生が溺れた事故を見つける。加賀と松宮は、第1発見者だった糸川に会って生徒の名は吉永友之で、その日の大会で成績が悪く友之は1人で練習していて溺れたことを聞く。学校を出た加賀と松宮は糸川が何か隠していると直感する。
 松宮は、修文館中学校水泳部創設60周年記念誌から吉永友之の軽井沢の住所を見つける。

 加賀は、水天宮などの願掛けは悠人のためで、麒麟像は武明から悠人へのメッセージだったと推論し、それを確かめようと悠人に話を聞くが、悠人はプールで吉永が溺れた事故のことについて何も知らないと答える・・どうやらプールでの事故が重要な鍵のようだが、青柳が刺された事件とどこでつながるのか?・・。

 本に残っていた指紋は八島冬樹と判明した。19:45ごろ八島は本屋にいたことになる。被害者青柳といっしょにいたのは誰か・・いよいよ核心に向かう・・。
 悠人は黒沢翔太を訪ね、3人で話をしようと持ちかけ、明日の5時に中目黒駅前と約束する。

 加賀と松宮は軽井沢の吉永友之を訪ねる。母美重子が出迎え、友之はプールで溺れた事故以来眠ったままと話す。加賀が水天宮のことを知っているかと聞くと、美重子は友之の看病日記のつもりで「キリンノツバサ」というタイトルのブログを開いたところ、「東京のハナコさん」から折り鶴を100羽ずつ毎月供えているメールが来た、と話す。
 東京に戻った加賀と松宮は修文館中学で糸川に事故当日の大会の結果を聞く。200mリレーは第1泳者 青柳悠人(3年)、第2泳者 杉野達也(3年)、第3泳者 吉永友之(2年)、第4泳者 黒沢翔太(3年)だった。

 松宮は中目黒駅の黒沢翔太を訪ねるが、青柳と会うと出かけていた。加賀は杉野達也を訪ねたが帰宅していなかった。加賀と松宮は中目黒駅前で落ち合い、青柳悠人と黒沢翔太を見つけるが杉野達也はいない。
 加賀は杉野を探すよう緊急手配し、悠人と翔太を日本橋署に連れて行き、悠人に君は後悔しているから折り鶴を折って水天宮に供え、七福神めぐりをし、「東京のハナコ」と名乗って「キリンノツバサ」にメールした、と話しかける。
 悠人は隠しおおせないと観念し、「水泳部の先輩が部員の泳ぎを見て2年の吉永友之は理想的な泳ぎだ、みんな杉野を見習ったほうがいいと話し、それを聞いた3年の青柳、杉野、黒沢は吉永を生意気と感じるようになり、大会のリレーでタイムが出なかったことから、その日の6時過ぎ、修文館中学校の塀を乗り越えて入り込み、プールで吉永の足を持って泳ぎの特訓をしていたとき吉永が沈んでしまった、3人で吉永をプールサイドに運んだとき異変に気づいた糸川が現れ、3人を帰し、吉永に心臓マッサージをしたが意識は戻らず眠ったままになった。
 その後、悠人は杉野から「キリンノツバサ-いつか羽ばたく日を夢見て」のブログを聞き、母親が息子の回復を祈っているのを知って愕然となり、和紙の専門店で折り紙を購入し、一番上のピンク色で百羽の折り鶴を折って水天宮に供え、写真を「キリンノツバサ」に送った。翌月は赤色で百羽を折り、七福神の別の神社に供えて写真を送り、翌月は茶色と折り鶴を折って別の七福神に供えたメールを送っていたが、あるとき、父に「東京のハナコ」でメールを送っていたこと知られてしまったので、アドレスを消し、折り紙と折り鶴を処分し、そのまま記憶も薄れていった。
 悠人は父が死んだあと、松宮から父が胸を刺されながらも日本橋の麒麟像まで歩いていったことを聞き、吉永友之の母のブログの「キリンノツバサ」は日本橋の羽を広げた麒麟像のことだったことに気づき、久しぶりにブログ「キリンノツバサ」を開くと、悠人がメール送信を止めたあとも「東京のハナコ」から日本橋の七福神に百羽の鶴を供え新しいたデジカメで撮影した写真が定期的に届いているのが分かった。
 悠人は、父が息子の気持ちを引き継ぎ、吉永友之の回復を祈って千羽鶴を完成させ、瀕死の状態で麒麟像を目指し、息子に「勇気を出せ、真実から逃げるな、自分の信じたことをやれ」と伝えたかったに違いない、と思った」ことを打ち明ける・・疑問=麒麟像と七福神巡りの謎は解けたが、青柳殺害は誰か・・。
 加賀は悠人に、「人は誰でも過ちを犯す。大事なことはそのこととどう向き合うか」と話す。そこへ杉野達也の自殺未遂と青柳殺害自白の報が入る。

 杉野達也の自供で、「青柳殺害の当日、学校から帰るとき吉永友之の父と名乗る人から電話があり、プール事故のことで話をしたいというので、護身用にナイフを忍ばせ、約束の午後7時に日本橋の改札で待っていると、吉永を名乗った青柳の父が現れ、コーヒーショップでカフェオーレを2つ買って本当のことを話してくれと言うのですべてを告白して心が軽くなったが、将来、大学進学がふいになると思った途端に歯止めが効かなくなり、夢中で青柳を刺してしまった、気づいたら地下道で、全力で逃げた」ことが明らかになる・・東野氏の、あちらこちらに伏線を張り巡らせ、読み手に推理を楽しませる筆裁きで事件が解決した・・。

 加賀は糸川に、青柳武明は過ちを犯してもごまかせばなんとかなるといった間違った教育を受けた息子に、命を賭して正しいことを教えようとした、それが分からないあなたは教育者失格、と諭す。
 香織は加賀と松宮に、「東京に来たことを後悔していない、冬樹君と楽しい思い出を作れたし、それは絶対壊れないし、失われない」と話し、福島に帰る。
 悠人は黒沢と千羽鶴を持ち軽井沢の吉永友之を訪ねる。悠人は、友之がいつか目を覚ますことを心から祈ろうと思う。

 杉野達也が、吉永友之がプールで溺れた事故の真相が明らかになるのを恐れ青柳武明をナイフで刺す、のは短絡過ぎる。いまはそうした短絡的な犯罪が多いということか。
 カネセキ金属が危険な作業を派遣社員にさせて起きた労災事故の隠蔽を、死人に口なし、青柳武明に押しつけたのも気になる。これもいまの社会を象徴しているということであろうか。
 悠人が吉永友之が眠ったっまま快復が難しいのを知り、罪の重さを感じて七福神を参拝するというのも想像しにくい。そもそも加賀が七福神巡りに気づくのも唐突に感じる。など、気になることもあるが、東野氏の筆裁きで事件を粘り強く調べ解決する展開を楽しんだ。  (2024.4)

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「麒麟の翼」斜め読み1/2

2024年05月09日 | 斜読

斜読・日本の作家一覧>  book564 麒麟の翼 東野圭吾 講談社文庫 2014

 歴史に登場する人物を主人公にした本を続けて読んだので、趣向の異なる本を読みたくなった。読書は料理のように、同じ趣向が続くと変化が欲しくなる。図書館からいくつか本を借りたが、好みに合わなかったので途中で読むのを止めた。読書は料理よりも好みに左右されるようだ。
 図書館でうろうろしていて東野氏の本を見つけた。人気作家なのでいつも貸し出し中が多いが、「麒麟の翼」が書棚にあった。
 表紙の麒麟像は日本橋に飾られていて、日本橋を通るたびに目にする(HP「2017.9日本橋クルーズ」参照)。裏表紙によれば「七福神巡り」が鍵になるらしい。2017年1月に日本橋の七福神めぐりをした(HP「2017.1日本橋七福神を歩く」参照)。麒麟像、七福神を思い出しながら、読み始めた。

 目次は無く、1節から36節へと節ごとに舞台と登場人物が変わっていく。登場する被害者、被害者の家族、容疑者、容疑者の恋人、警察は接点を持ちながらも別々に動いているので、映像なら多チャンネルでいくつもの舞台を同時進行させられるが、小説では節ごとに舞台と登場人物を変えなければ複数の舞台の同時進行が難しい。東野氏は「麒麟の翼」で複数の登場人物に焦点を合わせた多焦点の展開を選んでいる。
 
 日本橋の麒麟像の台座で男(建築部品メーカー・本社は新宿のカネセキ金属製造本部長・青柳武明55歳)が、長さ18cmの折り畳み式ナイフで胸を刺され、命を落とす場面から物語が始まる。
 犯行現場は血痕跡から首都高速道路江戸橋入口手前の長さ10mほど、幅3mほどの地下道で、犯行時刻は午後9時少し前と推定された。ナイフの指紋は拭き取られていて、財布はなかった。
 被害者は、犯行現場から日本橋まで胸を刺されたまま、途中の日本橋交番を通り過ぎ、日本橋麒麟像まで10分ほど歩いたことになる・・疑問=なぜ被害者は日本橋麒麟像まで歩いたのか?。

 殺人事件で緊急配備が敷かれ、パトロールの警官が日本橋人形町の浜町緑道で不審人物を見つけるが、男(八島冬樹26歳)は逃げ出し新大橋通りを渡ろうとしてトラックに接触、昏倒し、病院に運ばれる。八島が被害者青柳の財布を所持していたので殺人の容疑者になったが、意識不明の重態である・・疑問=八島はあらかじめ物取りをしようとナイフを用意し、被害者を刺したのか?・・。

 八島冬樹と同居している中原香織は、失業中の冬樹から雇ってくれそうな人と会うとのメールを見るがその後の連絡が無く、午後11時過ぎに冬樹から「えらいことやっちまった」の電話が来てすぐ切れ、リダイヤルを繰り返したところ警察が出て冬樹は交通事故で京橋の救急病院に搬送されたという。
 冬樹と香織は福島県の出身で、2人とも家族はいない。高卒後、香織は介護の仕事につき、冬樹は工務店で働いていたが倒産し、5年前、2人はわずかな貯金を手に上京したが、いくら働いても生活は苦しかった。
 冬樹は国立の工場で働いていたが契約を打ち切られたうえ、体調を崩す。そんなときの交通事故だった・・八島が金に困って財布を盗んだと思ってしまうが、東野氏は予想外の展開を用意している・・。

 警察からの連絡で青柳武明の妻・史子、長男悠人、長女遙香が病院に着き、遺体と対面する。3人は刑事から武明の身辺、知人などを聞かれるが答えられず、武明についてほとんど無関心だったことに気づく。
 刑事の示したデジカメ、布製の眼鏡ケースも分からないと答える・・デジカメ、眼鏡ケースは伏線、東野氏はあちらこちらに伏線を張り巡らすのが上手い・・。

 日本橋警察署での捜査会議後、加賀恭一郎(日本橋署警部補)と松宮脩平(警視庁捜査1課)は小林主任のグループで八島冬樹と被害者青柳武明の関係を洗うことになった・・加賀は松宮と従兄弟で、加賀恭一郎シリーズの主役であり、「祈りの幕が下りる時」(book487参照)に2人が協力して事件解決にあたっていて、小林も登場していた・・。
 加賀と松宮は病院での香織からの聞き取りやその後の調べで、容疑者八島冬樹は半年前にカネセキ金属国立工場の派遣社員を辞めさせられたことを聞く・・八島は契約打ち切りを恨んで製造本部長である青柳武明を刺した、と考えれば筋は通りそうだが、東野氏の仕掛けには奥がある・・。

 被害者の長男・青柳悠人は、中学~高校の同級生で、中学では同じ水泳部だった杉野達也に「おやじが死んだ」とメールする・・悠人と杉野のメールやりとりをさりげなく挿入しているのも東野氏の仕掛けである・・。
 ワイドショーの行きすぎた報道、被害者家族のいらだちや、青柳武明の直属の部下・小竹が葬儀などを準備する話が挿入される。

 青柳武明の携帯電話の記録から、事件の3日前に武明が修文館中学に電話していたことが分かる・・悠人は高校生なのになぜ青柳は中学の先生に電話したのか。読み手の推理を楽しませようとする東野氏の伏線は多彩である・・。
 被害者は事件直前、現場近くのセルフ式コーヒーショップで飲み物を2つ注文していた・・被害者は八島とコーヒーを飲みながら面談し、話がこじれて別れたあと八島は被害者を追いかけ刺したのか。読み手に八島犯行説を匂わせながら、東野氏は次の手を打つ・・。
 加賀は松宮と人形町・甘酒横丁の手作り工芸の店「ほおづき屋」を訪ねて被害者の眼鏡ケースを見せると、女主人は、時代小紋柄で縫い方に特徴があったので買った青柳の顔を覚えていた。
 甘酒横丁と少し先が容疑者が潜んでいた浜町緑道、浜町緑道から事件現場の江戸橋は遠くない。江戸橋の先に現場になった地下道があり、近くに青柳が飲み物を2つ注文したコーヒーショップがある・・疑問=青柳はなぜ人形町辺あたりにいたのか?、読み手は加賀になったつもりで推理を楽しむ・・。

 松宮はカネセキ金属国立工場で聞き取りをし、青柳はかつて国立工場長で、製造本部長後も定期的に来ていたこと、八島といっしょに働いていた若者から、八島が工場の方針でベルトコンベアを止めずに作業していて事故が起きたが、八島の派遣会社に圧力をかけて労災の届けを出さなかったため治療は自腹となったうえ、八島は契約打ち切りになったことを聞く・・労災事故隠しで八島が恨みを抱いていて、あらかじめナイフを用意し、青柳に再雇用を頼んで断られナイフで刺した、八島犯行説は捨てがたいと読み手を惑わす・・。

 加賀は、青柳が月に一度ぐらいの頻度で来ていた人形町の喫茶店を見つける。加賀と松宮は、人形町で青柳が立ち寄った蕎麦屋を見つける。青柳は近くに小さな神社がある本町の蕎麦屋でも蕎麦を食べていた・・疑問=青柳はなぜ人形町にこだわるのか?・・。
 八島容疑者とカネセキ金属の労災隠しが報道され、小竹工場長は青柳の指示で労災隠しをしたと証言する話が挿入される。
 加賀と松宮は、人形町の定食屋の客が笠間稲荷で熱心にお参りしていた青柳を見たらしいことを聞く。しかし、妻の史子によれば青柳武明は信心深くないという・・疑問=信心深くない青柳が住まいからも勤め先からも離れた笠間稲荷で何をお参りしていたのか・・。

 八島の容態が急変、息を引き取る。病院で、加賀と松宮は香織から八島が面接に出かける前、穴のあいていない靴下を探していたことを聞く・・面接を受けるのにナイフを用意するのはおかしい。八島犯行説が崩れるか・・。
 労災隠しが青柳本部長の指示と報道され、悠人も遙香も学校で阻害される話が挿入される。

 人形町の定食屋で青柳を見た客が聞き取りを了解してくれたので、加賀と松宮は、その客から青柳は笠間稲荷で百羽ぐらいの紫色の折り鶴を賽銭箱において祈っていた、笠間稲荷はついでのお参りと話していたことを聞く・・疑問=笠間稲荷がついでなら本命はどこか?・・。 
 加賀と松宮は日本橋七福神を回って聞き取りをし、水天宮で半年ほど前から百羽の折り鶴と1000円のお焚上げ代が置かれていたこと、折り鶴は10cm角の和紙で、毎回同じ色でそろえてあったことを聞く・・疑問=水天宮は安産祈願で有名な神社である。青柳は誰の安産を祈ったのか?・・。
 加賀と松宮は、青柳が入った日本橋の蕎麦屋の近くの和紙専門店で、青柳が「和紙十色」を10セット買ったことを突き止める。  続く

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2024.4茨城 古河てくてく散歩

2024年05月02日 | 旅行

日本を歩く>  2024.3茨城 古河てくてく散歩

 古河てくてく観光マップ」を参考に、古河歴史博物館(写真、1990年開館、設計吉田桂二)近くの駐車場に車を止める。このあたりは台地になっていて、古河城の出城が築かれたらしい。
 古河歴史博物館が日本建築学会賞を受賞したとき、吉田桂二さんの案内で博物館を見学した。吉田桂二さんとはなんどか宴席を共にし、楽しい話を聞かせていただいた。すでに鬼籍に入られた。昔を思い出す。
 古河歴史博物館の少し先に武家屋敷を思わせる門が構えている(写真)。鷹見泉石記念館である。もともとは古河藩士の武家屋敷だったそうで、明治維新後に鷹見家の所有となり、1990年に解体修理のうえ鷹見泉石記念館として開館した。
 庭を一回りしながら座敷をのぞく。規模からは中級武士と思える。庭の石灯籠は古河城二の丸御殿の灯籠を移したそうだ。鷹見泉石の功績については詳しくない。庭番に挨拶して辞去する。

 北に歩くと古河文学館がある(次頁写真web転載)大きな切妻破風は洒落たカフェを連想させる。ホールは2階まで吹き放し、木造トラスを現しにしていて居心地がよさそうだ。スタッフに尋ねると、コーヒーなどは置いていないし、ホールは入館料が必要、コーヒーはこの先を左に折れたお休み処坂長で飲めるのではないか、と言う。
 文学館を出て、北に歩くと赤門と名づけられた煉瓦積み門構えがあった(写真web転載)。古河第1小学校と書かれている。2016年、耐震化のため第1小学校を建て替えるとき、旧小学校の煉瓦積みの門・塀を活用し、旧校舎のイメージを校舎にも採り入れた、といったことが説明板に書かれていた。
 設計は地元の長塚建築事務所である。長塚さんもこの小学校で学び、その記憶を再現したのではないだろうか。

 四つ角を右に折れると蔵が並び、通りに面した店蔵がお休み処坂長になっていて、表側が土産店、奥がカフェになっている(写真)。
 もともとは酒屋だったそうで、店蔵をお休み処に活用し、酒蔵、文庫蔵などは展示、イベントなどに活用しているらしい。コーヒーを飲みながら足を休める。もとは酒屋だったから古河の銘酒が置いてあるかと探したが、置いていないそうだ。もと酒屋の店蔵に酒があれば土産に買ったのだが・・。

 お休み処板長を出て北に歩き次の通りを左に折れると、大谷石造3階建ての篆刻美術館が建つ(写真)。
 かつて酒類販売業だった平野家の表蔵、裏蔵を篆刻美術館として保全活用した建物で、国の登録有形文化財に登録されている。入口ガラスドアのユニークな取っ手が目を引く。
 隣に古河街角美術館が建つ。市民の絵が展示されていた。絵を見ながら休憩する。
 数軒先に歴史小説家として知られる永井路子の旧宅が建つ(写真web転載)。江戸時代末の店蔵で、永井氏は東京に生まれたが母の実家を継ぐためここに移り育った。結婚後、東京に転居し、出版社に勤めるかたわら小説を書き高い評価を得る。永井氏の本は読んでいない。婦人が展示品などを説明してくれた。店蔵の奥は取り壊されたそうだ。
 
 てくてく散歩道はよく整備されていたが、通りを歩く人は少なく、立ち寄ったおころも空いていた。古河公方時代の栄誉も時代の波に流されてしまったようだ。車に戻り、家路につく。 (2024.4)

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2024.3茨城 古河桃まつり

2024年05月01日 | 旅行

日本を歩く>  2024.3茨城 古河桃まつりを歩く

 天気予報で古河公方公園の桃の花が紹介された。ずいぶん前に古河桃まつりを訪ねたが、記憶は薄れているので再訪した。会場の古河公方公園はJR古河駅から遠く、バスの本数が少ない。右足の石灰沈着性腱炎はだいぶ痛みは治まったがまだ遠出には不安があるので、マイカーで出かけた。
 県道3号栗橋線を北に走る。渋滞が続く。利根川を渡り、国道4号を走ると、古河桃まつり会場の案内が現れる。案内に従い、古河公方公園の東に設けられた駐車場に車を止める。ナビでは1時間ほどだったが、渋滞で1時間半ほどかかった。駐車場は混んでいたが、駐車場北の桃色に華やいだ樹林が歓迎してくれた。
 まずは腹ごしらえ、駐車場の西に管理棟、メインゲートがあり、その先に星湖と名づけられた池が延びていて(写真)、星湖の際に軽食のジェラテリアがあったが、席は空いてなかった。星湖の先の芝生広場にテント屋台が並んでいる。創業明治23年・手打ちそば・やなぎやが目についたのでそばを食べた。

 古河公方を調べる。足利将軍家による室町時代、関東10ヶ国を統治する鎌倉公方が鎌倉に置かれ、初代将軍足利尊氏の4男・基氏の子孫が鎌倉公方を世襲した。幕府は公方の補佐役に関東管領を置いた。
 1455年、8代将軍足利義政のとき、5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺する。背景に鎌倉公方と室町幕府との対立、関東各地の豪族と関東管領山内上杉家・扇谷上杉家との対立があったようだ。
 足利将軍家は山内上杉家・扇谷上杉家と手を結び、鎌倉公方・足利成氏を討伐しようとする。形勢不利になった足利成氏は鎌倉から現茨城県の古河城に本居を移し、古河公方と呼ばれ、古河公方初代になる(享徳の乱~1483年)。
 古河公方はその後5代128年続くが、長尾景虎(=上杉謙信)の侵攻、北条早雲を祖とする後北条家による関東支配のなかで力を失い、自然消滅する。古河公方の末裔は豊臣秀吉から下野国喜連川に所領を与えられ、喜連川氏となったようだ。

 古河城は渡良瀬川の東岸に位置する。渡良瀬川の上流は現栃木県群馬県境を流れ、下流は現千葉県埼玉県境を流れて東京湾に注ぎ、古河城は河川交通の要衝だった。

 関東公方の古河城主が続いたのち、後北条家の関東支配下で古河城は後北条家に管理された。豊臣秀吉が後北条家を滅ぼし、徳川家康が関東に移封される。家康は配下の小笠原秀政を古河城に入部させる。以後、大老の土井利勝、堀田正俊、老中の永井尚政、松平信之、本多忠良、土井利厚、土井利位などが城主となり、東北に対する江戸防衛、日光街道の宿場、将軍の宿城として重視された。
 1873年の廃城令で古河城の建物はすべて破却されたうえ、度重なる渡良瀬川の洪水対策で城跡のほとんどが消滅したらしい。「古河てくてく観光マップ」には、国道354号の北、渡良瀬川沿いに古河城跡、その北に百間堀跡、追っ手門跡、土塁などが記されている。

 古河公方公園=古河総合公園は、古河城南の台地に築かれた古河公方鴻巣館の跡地と御所沼を活用した市民公園で、1974年から桃林、花菖蒲田づくりが始められ、1975年に一部が開園し、1977年に第1回桃まつりが開催された。1990年に富士見塚が完成、1997年に御所沼が復元され、その後も整備が進められ、市民活動が展開されている。
 芝生広場でそばを食べた後、天神橋を渡り、古河公方館跡石碑を過ぎ、旧中山家、旧飛田家を見学し、御所沼をぐるりと回り、相の谷橋を渡り、芝生広場に戻る。富士見塚に上って桃林を一望し、花桃を目指した。

 古河藩主となった土井利勝は、古河では燃料となる薪が乏しいので、成長が早く、果実が食糧になる桃に目をつけ、江戸の家臣の子どもたちに桃の種を拾い集めさせたて古河藩に送り、農民に育てさせたという古事があるらしい。

 古河公方公園開園にあわせ、古河藩主土居利勝の古事に倣い、1974年から花桃の植樹が進められ、現在は6種類1700本の花桃が来場者を楽しませている。
 代表的なのは矢口(やぐち)で園内の8割を占める。花は八重咲き、花つき、花もちがよく、ひなまつりの切り花に使われ、見ごろは3月中旬である。訪ねたのは3月下旬で、まだまだ目と香りが楽しめる(上写真)。
 菜の花畑も満開で、桃色と黄色の風景は絶妙である(中写真)。
 桃林北西側に源平(げんぺい)が植えられている。一本の木に紅白の花が咲くことから源平の旗色にちなんで名前がけられたそうだ。見ごろは4月初旬で、源平は咲き始めだった(下写真web転載)。
 桃林北に、菊桃(きくもも)、寒白(かんぱく)が植えられている。菊桃の花は菊の花に似ていて、見ごろは4月中旬(次頁上写真web転載)、寒白は白色の八重咲きで見ごろは3月下旬(次頁下写真web転載)、菊桃は分からなかったが、寒白は咲いていた。

 桃林東に寿星桃(じゅせいとう)が植えられていて、樹高が低く、花が節々に密につくのが特徴、見ごろは4月初旬だそうだが、東には行かなかった。ほかに照手(てるて)という品種も植えられているらしいが、見ていない。

  桃花+菜の花で目と香りを楽しんだあと車に戻る。桃まつりは無料、駐車場は有料だが、花桃を鑑賞したのに安価だった。  (2024.4)

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