yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2023.2香川 ベネッセハウスミュージアムを歩く

2023年12月10日 | 旅行
日本を歩く>  2023.2香川・直島へ ベネッセハウスミュージアムを歩く


 宇野港を望む宿で目を覚ます。海は静かで、すでに船が動いている。朝食を終え、チェックアウトし、キャリーバッグを宿に預ける。
 香川県直島・宮浦港行きはフェリーと旅客船が運航していて、乗り場が異なる。宇野港9:22発のフェリー乗り場に向かい、宮浦港300円の乗船券を買う。
 乗車予定の車が並び始め、待合室もにぎわいだした。ほどなく大きなフェリーが入港する。新しい船で、500人+61台を乗せることが出来る「あさひ」である(写真)。最前列に座り、瀬戸内海を眺めながら20分の船の旅を楽しむ。
 9:40過ぎに宮浦港に着く。草間彌生作「赤かぼちゃ」が見えるが、ツツジ荘行きの町営バスは10:00発なのでバスに急ぐ。


 直島はかつてMマテリアル、Hケミカルなどの産業開発が進められたが、1900年代半ば、町長が観光文化開発に力を入れ、石井和紘設計の小学校、幼稚園、中学校、役場、安藤忠雄設計のベネッセハウスなどが次々と建てられていって、アートの直島として知られるようなった。島を観光資源化する試み、日本を代表する建築家の作品を実感しようと20年?前に訪ねたことがある。その後も新しい作品が建てられ、瀬戸内アート、瀬戸内芸術祭などが開催され、耳目を集めている。
 定員28名の町営バス「すなおくん」は満席になった。地元の方も利用するが、途中のアート作品での乗り降りも多い。直島アートへの関心の高さがうかがえる。
 町営バス終点ツツジ荘バス停でベネッセアートサイトシャトルバスに乗り換え、ベネッセハウスバス停で下りる。


 坂道を上ると石積みの塀が立ちはだかる(次頁左写真)。石塀に沿って歩き、180度向きを変えるとベネッセハウスミュージアムの入口が現れる(右写真)。塀や段差で目標物を隠し、誘導路の向きを左右に変え、アクセスを長くし、来訪者の気持ちを集中させ、期待を高ませる手法である。安藤忠雄氏はこの手法が巧みである。
 ベネッセハウスは、1992年、「自然・建築・アートの共生」をコンセプトにして美術館とホテルが一体となった施設として、安藤忠雄氏の設計で開館した。瀬戸内海を望む高台の立地を生かし、大きな開口部、吹き抜け、吹き放し、空間の断絶と連続によって、瀬戸内海、島の自然と建築、アートを融合させている。
 ベネッセハウスミュージアムは予約不要なので、鑑賞料金1300円を払い、入館する。鑑賞順路はなく、自由に歩き、安藤氏の空間とアートの融合との出会を楽む仕掛けになっている。入口が1階で、カーブした廊下の左下にガラス越しに吹き抜けが見えるので、地階まで斜路を下る。
 コンクリート打ち放しの円と角が交錯した空間で、地階から3階まで吹き抜けていて、「young and live」「 young and die」のように○○liveと○○dieが並んだネオンが順に点滅していくインスタレーションだった(写真、ブルース・ナウマン作「100生きて死ね」)。
 天井には円形の天窓があり、閉じ込められた囚人が出ることのできない空を見上げ生きるか死ぬかを繰り返す、ということだろうか。
 ネオンの後ろの階段は壁で行き止まりになる。階段は上の階と下の階をつなぐといった既成概念を壊そうとしたのであろう。安藤氏の空間は奇想天外である。


 斜路を戻り、1階の展示を見る。壁面に押しつぶされた色とりどりのポットが展示されている(セザール「モナコを讃えてMC12」)。自由に何かを感じればいいのだろうが、ついついどう解釈すればいいのか考え、思考が止まってしまう。
 よく分からないまま展示を見ながら進むと、壁面に白地と黒地を反転させた泥仕上げの大きな輪があった(写真右、リチャード・ロング「瀬戸内海のエイヴォン川の泥の環」)。少し先には木製の床に木の切れ端が丸く並べられている(前掲写真奥、リチャード・ロング「瀬戸内海の流木の円」)。右の屋外テラスにも木の切れ端が丸く並べられている。「瀬戸内海の流木の円」とそっくりに見えるが、こちらはリチャード・ロングの「十五夜の石の円」らしい。泥と流木と円、???。相変わらず鑑賞は混沌としているがそのまま進む。


 その先は明るく開けていて、地階に向かって斜路が下っている。斜路からもジョナサン・ボロフスキーの「3人のおしゃべりする人」が見える。板を組み合わせた大きな人型で、下あごが動くように出来ていて、音を絶え間なく発している。3人の人形の向かいの壁面にはいろいろな国の国旗が並べられていて、うねうねとした線で結ばれている(柳幸典「ザ・ワールド・フラッグ・アント・ファーム」)。屋外のテラスには滑らかに磨かれた石が2つ置かれている(安田侃「天秘」)。
 向きを変えるとボートをかたどった黄色と黒の展示が置かれ、壁面に海と砂浜と打ち上げられた黄色と黒のボーとが描かれている(写真web転載、ジェニファー・バートレット「黄色と黒のボート」)。
 2階に上ると、安藤忠雄氏のベネッセハウス模型とドローイングが展示されている。ベネッセハウスの発想の原点が想像できるが、なぜそうした発想が浮かび上がるのかは想像を超える。
 テラスに出て冬晴れの瀬戸内海を眺める。展示を眺めてきて理解が追いつかないのをもどかしく感じていたが、瀬戸内海の陽光にきらきらする風景を見ていると気持ちが和やかになってくる。


 ベネッセハウスを出る。地中美術館の予約時間まで余裕があるので、ベネッセハウスミュージアムの入館券とセットになったヴァレーギャラリーに向かう。坂道を少し上ると、シャトルバスのバス停の先に仮設のような受付がある。ベネッセハウスミュージアムの共通券を見せる。谷あいの少し先の斜面に、安藤忠雄氏らしいコンクリートの塀が視界を遮っている(写真)。
 踏み固められた細道の足下には、豊島の産業廃棄物処理後のスラグを素材にした小さな仏が並んでいる(小沢剛「スラグブッタ88」)。数えなかったが谷あいに88体が置かれているそうだ。
 池の縁を過ぎると、銀色に輝くミラーボールが無数に散らばった風景が広がる(草間彌生「ナルシスの庭」)。
 ミラーボールは安藤氏のコンクリート塀で行き止まり、来館者は左に折れて緩い階段を上り、コンクリート塀の向こうを右に折れると、コンクリートの台形平面の建物に開けられたスリットの入口が現れる。台形平面は二重壁になっていて、ミラーボールが転がっているあいだの階段を上る(写真)。外壁上部は開け放しである。
 安藤氏は、季節ごとに移り変わるランドスケープの体感をコンセプトにしたようだ。
 斜面には回遊路が設けられている。足下がおぼつかない坂道を上ると、谷あいのヴァレーギャラリーを俯瞰することができる(写真)。安藤氏は結晶のような強度をもった空間を作ろうとしたそうだ。確かに、ヴァレーギャラリーは、谷あいに存在を主張している。


 シャトルバス通りに戻る。バスの時間まで少し間がある。反対側に李禹煥美術館の案内板があったので坂道を下りると、林を背にしたコンクリートの壁が立ちはだかっていた(左写真)。安藤忠雄氏らしい建築である。李禹煥氏のことは不学で知らなかったが、国際的に評価の高いアーティストだそうだ。館内を見学する時間はないが、李禹煥氏デザインの垂直の塔を中軸にして海を見下ろすと芝生に台座が置かれていて、その上の大きな放物線のアーチが瀬戸内海の風景を切り取っている(前頁右写真)。
 単なる風景としての瀬戸内海が、塔と台座とアーチによってアートとしての風景に変換する。自然と人工の融合ということだろう。  (2023.12)

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「大坂侍」斜め読み2/2

2023年12月03日 | 斜読
book559 大坂侍 司馬遼太郎 講談社文庫 2005 2/2 

盗賊と間者
 摂津生まれの天満屋長兵衛は、盗賊はだれにも支配されずだれも支配しないと思い、盗賊を重ねていた。
 元治元年1864年6月5日、京三条の池田屋で長、土、因、肥、播、和、作州の志士30数名が新撰組+幕兵総勢500名に襲撃されことごとく捕殺され、京、大坂に非常警戒が布かれた。1年後の慶応元年1865年、長兵衛は京に出て来て、非常警戒で捕まってしまう。係の与力・田中松次郎は、長兵衛にお前の骨相はこうと誓えば心の動かぬ人相、泥棒ということで牢から出すが、罰として入牢していた清七の伯父代わりになって面倒をみるようにと言い渡す。
 長兵衛は佐渡八と名を変え、清七と京の七条堀川でうどん屋を開く。清七は18歳のおけいを連れて来る。佐渡八は、清七が新撰組・壬生屋敷を見はる間者と気づく。
 あとで、清七は長州藩士・当内十太郎であり、盟主・桂小五郎と田中松次郎は親交があり、おけいは田中松次郎の亡き弟の娘で清七の許嫁であることが分かる。
 新撰組局長・近藤勇は佐渡八に屯所でのうどん売りを許す。ほどなく、田中松次郎は勤王であることが露見して新撰組に斬られる。清七は耿々一片の氷心(俗っぽい欲望に汚されない清らかな心)といって、国家の大事のため許嫁の義父の仇討ちは小事と関心を示さない。佐渡八は泥棒らしい心意気、代わって小事のけりをつけようと思う。
 屯所でうどん屋を出していた清七は正体がばれ、つけられてしまう。佐渡八は清七とおけいを逃がした後、屋根伝いに逃げ、堀川に飛び込んで姿を隠す。慶応元年1865年8月、佐渡八は新撰組屯所になっていた西本願寺の太鼓番屋に忍び込み、近藤勇に武士に利用されているだけ、百姓に戻れと説教する。
 佐渡八が隠れ家に戻って数日後の夜、おけいが寺小姓に変装して現れる。おけいは清七から間者の真似をさせられ、露見して逃げてきた、佐渡八の人間らしいところが大好きというが、佐渡八は清七のところへ戻れと邪険にする。
 それから7年後の明治5年1872年、大阪高麗橋北詰でうどん屋天満屋長兵衛を開いていた佐渡八を、大阪府権参事として赴任してきた当内十太郎と家内のおけいが訪ねてくる。十太郎が席を外したすきに、おけいは佐渡八といっしょになりたかったとうらみごとを言うのを、佐渡八は仙人のような顔で聞き流す。
 そんな盗賊がいるとは思いにくいが、幕末~明治維新を舞台に大阪人長兵衛=佐渡八の心意気が輝く。


泥棒名人
 享保17年発兌の浪華下鏡が下敷きのようだ。
 江戸で名を知られた盗賊・江戸屋音二郎が、大阪でも名人ぶりを発揮していた。ある日、天満の海産物問屋に盗みに入ったが、真夏で風が無く暑苦しいため家人が寝付けず、夜明けが近づいたので盗みを諦め帰ろうとしたとき、目の前に盗賊・行者玄達が現れる。
 玄達は故郷に帰らねばならない、音二郎の持ち物のなかに故郷に持って帰りたい物があるのでくれと言うが、音二郎は盗賊なら盗めと応える。
 音二郎の住まいは、日本橋・毘沙門裏の撞木長屋で、表向きは信州真田の打ち紐を仕入れて京、大坂、堺で売り歩いている(=京、大阪、堺で盗み働き)。女房は、美人ではないが気丈なお蝶である。ある日、長屋の隣に易者・猿田彦天観堂が引っ越してきた。猿田彦は気前がよく、旅に出て戻ると長屋のみんなに土産を渡していた。その猿田彦こそ玄達である。
 音二郎はお蝶に、浪華の泥棒番付には音二郎は張出し大関で乗っている、横綱は玄達と話すと、お蝶は横綱には実力、人柄、貫禄というものがそなわっていると、音二郎をやり込める。そこへ玄達が顔を出し、音二郎の前でお蝶に音二郎の盗み働きの取り分といって半分の25両を渡す。音二郎が盗みを諦めた海産物問屋に先に忍び込んでいて、盗みを済ませたていたそうだ。
 玄達は音二郎に、財が欲しいという身の強欲があるから人の気配や天候などの動きが気になるが、わしは虚心、財が欲しいのではなく自然に体が動いて盗みが上手くいくと話す。反論しようとした音二郎に玄達が、名刀火切り国友を大坂城城代屋敷什器蔵から盗む仕合をを持ちかける。
 音二郎は苦も無く城に入り込み名刀火切り国友を盗み出し、翌朝、お蝶に自慢する。お蝶は名刀より日々の暮らしの金が欲しい、世帯のやりくりは女の役目とやり返す。
 音二郎は隣の玄達に仕合に勝った、と自慢しに行く。ところが玄達は音二郎より先に什器蔵に入り、国友を鈍刀とすり替え、目印を付けておき、音二郎が鈍刀を勘違いして盗んだ、と種明かしをする。
 玄達は、仕合に負けた音二郎に百両仕事を頼む。仕事を引き受けた音二郎は、黄檗寺の中庭の離れに忍び込み布団で顔を覆った女を縛って担ぎ上げ、玄達が用意した駕籠に乗せ、百両を受け取る。
 長屋に戻った音二郎はお蝶がいないので、玄達=猿田彦の部屋に行くと置き手紙があった。音二郎は、盗み出した女がお蝶だったことに気づいて、幕が下りる。
 途中に玄達の生い立ちが挿入される。大昔、役行者=小角が信貴山で修行中に鬼の夫婦=山賊をとらえ、熊野山塊に鬼の夫婦を住まわせ、熊野の仏地を守るように命じた。その子孫が山伏になり、千年のあいだに南鬼と北鬼の2軒になった。玄達は北鬼の総領だが嫁がいないので女を盗むことにし、お蝶に見定めたようだ。
 お蝶は暮らしを顧みない音二郎に見切りをつけ、玄達の実力、人柄、貫禄に乗り換えたようだ。幸せを祈る。


大坂侍
 この話は文中に登場する渡辺玄軒の子孫の渡辺家に伝わる明治元年2月の「日日金銭出納帳」を下敷きにしている。明治元年2月は官軍が大坂城に平和進駐した時でもある。
 大坂同心町お城長屋に住む鳥居弥兵衛は、三河以来の譜代の徳川の臣と幕府への忠誠心が強い。息子・又七は十石扶持の川同心でよく働き、腕も立ち威勢がいいが、優柔不断な欠点もある。
 又七の従兄弟の数馬は妹・衣絵の許嫁で、金で武士の身分を買い川同心十石扶持になっていた。又七の幼馴染みで使い走りをする極楽政は、大坂の武士は借金で身動きが取れない、いまや商工農士の世だという。
 話は変わって、大和屋源右衛門は吉野熊野の材木を川で運んで大坂で捌いていて、川同心又七は馴染みで、働きぶりに感心していた。
 源右衛門の娘・お勢が四天王寺境内で黒門組の遊び人4~5人にからまれたとき、又七が小さいときに剣術を習った渡辺玄軒が助けに入るが、玄軒は剣術の免許皆伝を金で買った剣術家なので、あっさり倒される。その場にいた又七は、北辰一刀流道場で鍛えていた腕前で、黒門組を殴り倒し、数人を池に投げ飛ばして、お勢を助ける。お勢は又七に一目惚れする。
 お勢の話を聞いた源右衛門は又七を商人にしたら儲かると言うと、お勢は又七を養子に迎えてと源右衛門に頼む。大坂娘は自分の恋のことには積極的である。源右衛門は金で万事が解決すると、渡辺玄軒、極楽政に50両で又七を婿入りさせる仲立ちを頼む。
 四天王寺境内で又七に負けた黒門組の遊び人が、天満の滝田町で道場を開く勤王天狗党の領主・天野玄蕃を用心棒に雇い、幽霊橋を渡っていた又七を襲う。又七は天野玄蕃をはね飛ばし、けりを入れるが、10人ほどの遊び人が又七に斬りかかろうとする。そこに黒門久兵衛が現れ、10両で喧嘩を買い取ったと遊び人をなだめる。
 10両は、又七の婿入りに源右衛門が用立てた50両のうちの10両だった。又七は侍の意地を通して婿入りを断るが、しばらくして、お勢が又七に大好きです、婿になってくれないなら死にますと訴えてきた。なりゆきで又七はお勢を抱いてしまう。
 妹・衣絵の許嫁である数馬は官軍の大坂城進駐を機に町人に戻り、官軍相手の商売を始めた。官軍隊長になっていた天野玄蕃が商売人・数馬見つけ、川同心で又七の従兄弟だから幕府の諜者に違いないと官軍詰め所に捕らえる。天野玄蕃の狙いは金で、数馬の父・善兵衛に300両で数馬を助けると言ってきた。
 又七は商人なら金で取り引きすればいいと話し、武士は採算を度外視し義のために戦うと衣絵に言い、お勢をおいて江戸に向かう。
 大阪を出る前に又七は天野玄蕃を一刀のもとに斬り、300両の内から100両を懐にして江戸行きの船に乗る。明治元年4月、又七は上野の彰義隊に入隊する。5月、上野の山は長州の大村益次郎率いる官軍に包囲され、洋式銃の一斉射撃を浴びる。彰義隊は壊滅し、又七は百姓の着物を買い、大坂の廻船問屋長左衛門の江戸店に逃げ込む。
 老番頭源七は、官軍にどっさり金を貸しているので店は安全、官軍の弾は廻船で運んだと話すのを聞いて、又七は大坂商人の底力に気づく。さらに見上げると、又七を次の船で追いかけてきたニコニコ顔のお勢がいて、幕になる。
 万事を金で勘定するのも合理的な解決法である。お勢のようにこうと決めたら自ら行動するのが大坂女のようだ。


 司馬氏は史実をもとに、入念な下調べをし、この本では大坂商人の心意気、大坂女性の自由で自発的な生き方に焦点をあて、司馬流筆裁きで小話をまとめている。長編は長編なりの重厚な物語にし、短編は短編なりのピリッとし、キリッとした話にまとめている。史実のおさらいにもなった。 
 (2023.11)

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「大坂侍」斜め読み1/2

2023年12月02日 | 斜読
book559 大坂侍 司馬遼太郎 講談社文庫 2005 1/2

 2023年11月、10数年ぶり?に大阪を訪ね、大阪天満宮、住吉大社、四天王寺、大阪市中央公会堂、通天閣、あべのハルカスなどの名所旧跡、新名所を歩いた。予習復習に、天王寺をキーワードに検索し「左近 浪華の事件帳」「幻阪」「浮世奉行と三悪人」を読んだが、いずれも好みでは無かったので途中で読み通すのは止めた。
 次に読んだのが「大坂侍」である。司馬遼太郎氏の筆裁きは卓越していて、司馬氏の視点には教えられることが多い。
 「大坂侍」には「和州長者」「難波村の仇討ち」「法駕籠のご寮人さん」「盗賊と間者」「泥棒名人」「大坂侍」の6編が収められていた。展開、結末が気になる短編もあったが、幕末前後の大坂商人の生き方が詳らかにされていた。身にしみ込んだ大坂商人の考え方、ものの見方が江戸侍と異なることがよく理解できた。
 いまでも大阪人、京都人、東京人・・・・たちは、歴史に培われた見方の異なる生き方を引きずっているように思う。


和州長者 

 旗本寄合席二千石青江采女の弟・欣吾が14歳のとき、采女に田村家から佐絵が嫁入りする。佐絵を見た欣吾はあまりの美しさに観音様と思う。旗本の次男坊は養子にでも行かないかぎり兄の寄食人(かかりゆうど)で、兄、佐絵と同じ家に暮らす。
 采女は、観音様ぶった佐絵に子ができないことを口実に侍女を町方に囲い、何日も家を空けていた。そのため家計が逼迫したが、やりくりは用人・讃岐にすべて任せていた。田村家に奉公していた団平が、佐絵の嫁入りとともに青江家の中間になっていた。登場人物が出そろう。
 20歳になっていた欣吾は、欲情が爆発し、兄・采女がいない間に佐絵の部屋に忍び込み、佐絵を力尽くで抱く。その後は佐絵が欣吾の部屋に忍んでくるようになる。ある日、佐絵が欣吾の部屋から戻って3時間ほどした暁方、采女が佐絵が死んでいるのを見つける。
 佐絵の部屋には男の臭いが残り、佐絵が男と寝た痕跡があった。欣吾は、ほかにも佐絵と寝た男がいて、その男が犯人に違いないと思うが自分の行状がバレてしまうので口にできない。采女は旗本寄合の世間体を気にして病死に見せかける。
 初七日の夜、団平の脅しで采女、欣吾、讃岐が集められる。団平は、上方・大和の育ちで東国の人間とは生き方が違う、上方では主従も忠義も無く男女はまことで生きる、采女は佐絵を捨て、欣吾は力尽くで佐絵を犯し、讃岐は借財で脅して佐絵をもてあそんだ、自分は田村家に奉公したときから佐絵にあこがれていて、佐絵を死に追いやった采女、欣吾、讃岐を許せないと、毒杯を飲めと迫る。
 司馬氏は、旗本の落ちぶれた生き方を語ろうとしたのか?。奔放に生きようとする大坂女を描こうとしたのか、佐絵は心の病で旅立ち、真実は闇のなか。


難波村の仇討ち
 大坂では氏素性より甲斐性、弁口、愛嬌が重んじられ、金でけじめをつけるのが当たり前だった。
 堂島川に面した屋敷に住む東軍流達人・奴留湯佐平次も弁口がたち愛嬌があり、鴻池、住友、田辺屋、紀伊、備前、南部、津軽、松前藩に出入し商いを手広く行っていた。あるとき、佐平次が備前岡山藩勘定方250石・佐伯重右衛門に用立てるが、行きちがいで重右衛門は激昂して斬りかかってきたので、やむを得ず重右衛門を斬ってしまい、佐伯家は断絶となる。
 弟・佐伯主税は仇討ちのため大坂に出てきて、偶然にも佐平次の妹・妙と道頓堀の芝居小屋で会う。妙は主税を気に入り、その日のうちに出会茶屋で主税に体を許す・・大坂の女は思ったこと、感じたことをすぐ行動に移すということだろうか・・。
 佐平次は、番頭・長吉に50両で主税の仇討ち許し状を買いに行かせる・・仇討ちも金できじめがつけられるのが大坂のようだ(book548「銀二貫」も大坂で仇討ちを二貫で買う物語である)・・。
 主税は武士の忠義を通そうと50両の話しを断る。その後、長吉は100両、200両、300両と値を上げるが、そのたび主税は断る。
 妙が訪ねてきて、主税が大好きなので覚悟のうえで体を許した、生涯、主税に操を立てると迫るが、主税は激昂し、佐平次に果たし合いを申し出る。立会の役人は佐平次が金で手を打ったので立会人のいないなかで主税は刀を抜くが、佐平次に峰打ちを入れられ悶絶する。
 話は飛んで、明治に時代が転換する。佐平次は横浜に出かけメリケン相手の商いを見通して大坂に戻ってくる。主税は依然、仇討ちといきり立つが、佐平次に時代が変わった、これからは商人の世界、主水を手代に使ってやるがまずは妙と米国にでも行ってこいと言われて、幕になる。
 武士にこだわり続ける主税と、大阪人らしく商いを見通した佐平次の掛け合いが、司馬流筆裁きで描かれている。


法駕籠のご寮人さん
 天満で駕籠と口入れを稼業とする法駕籠は、法隆寺の精進料理を祖とする法隆寺料理が旨い。店主は江戸から7年前に嫁入りし、1年前に夫が死んだお婦以で、先代から奉公する番頭・松じじいと手代・庄吉が切り盛りしている。
 福井藩士で勤王派、維新後に由利公正と改めた三岡八郎は法駕籠に泊まり、天満や船場の豪商を回り、いま幕府に納めている運上金は倒幕後に安くなる、天朝の時代になれば相場は上がる、いまこそ買い時と豪商から金を工面していた。
 新撰組副長助勤・山崎努は北進一刀流の腕だが、法駕籠で精進料理を食べながら富商の景気を聞き、隊費を調達する役目もあった。松じじいの計らいで、勤王派三岡と討幕派山崎は法隆寺料理を食べながら、大坂の商いの情報を交換しあった。
 松じじいはお婦以に三岡か山崎どちらかを婿になって欲しいと画策していた。ある日お婦以が生国魂神社のそばの出会茶屋で誰かと会っているのを知る・・三岡か山崎か、お婦以に詰め寄るがはぐらかされる。
 慶応3年 慶喜は政権を朝廷に奉還、ほどなく鳥羽伏見街道で官軍と新撰組を始めとする幕兵が戦になる。官軍のスナイドル銃、アームストロング砲で幕軍は大敗し、山崎も撃たれて命を落とす。
 その夜、悪夢で目が覚めた松じじいが厠へいくとき、お婦以の部屋から男女の抱き合う声を聞く。山崎は死んだから三岡か?。維新政府の開化方針で法駕籠は廃業になり財産を整理すると5000両になった。お婦以は松じじいに3000両を渡し、私は庄吉と暮らすという。
 松じじいの裏をかいたお婦以のしたたかさが描かれている。お婦以は江戸の出だが、7年のあいだに大坂商人のたくましい生き方を身につけたようだ。
  続く(2023.11)
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