yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2020.1シチリアの旅11 マルトラーナ教会 サン・カタルド教会

2021年04月13日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 11 マルトラーナ教会 サン・カタルド教会

  シチリアの旅3日目16:00過ぎ、サンタ・カテリーナ教会を出る。ベッリーニ広場Piazza Bellini の向かい側には、古い城壁?の上に左にマルトラーナ教会、右にサン・カタルド教会が並んでいる。
 1997年にもベッリーニ広場を歩いていて、マルトラーナ教会は城館のようであり、サン・カタルド教会は3つの赤い丸屋根を乗せていて、どちらも教会とは思えなかったし、時間もなかったので見学しなかった。ところがその後、パレルモのアラブ・ノルマン様式建築群として世界遺産に登録された。どんなデザインだろうか、どんな由緒だろうか、気になるがサン・カタルド教会は修復のシートで包まれていた。サン・カタルド教会の参観はあきらめ、マルトラーナ教会の参観に向かう。
 城壁?の高さは4-5mで、どちらの教会も2つの教会のあいだの階段からアクセスする。

 マルトラーナ教会Chiesa della Martoranaは、ルッジェーロ2世(1095-1154)に仕えた海軍提督が1143~1151年に建てた聖母マリアに捧げる東方正教会・・現在は東方典礼カトリック教会・・である(写真)。そのためSanta Maria dell'Ammiraglio提督の聖母マリア教会でと呼ばれた。
 12世紀末、貴族マルトラーナの出資で、ベネディクト会派の女子修道院が提督の聖母マリア教会に隣接してつくられた。15世紀に修道院が教会に吸収され、その後はマルトラーナ教会と呼ばれるようになったそうだ。
 身廊は東西軸で、鐘楼の建つ向かって右=西面が入口、向かって左=東面がアプスになる。後世、ベッリーニ広場に面した北面にバロック様式の入口が加えられた。そのためベッリーニ広場から見上げると城館を思わせるたたずまいに見えてしまう。

 鐘楼の窓周り、窓の中柱、外壁のデザイン、堂内床の幾何学紋様(写真)などにイスラム的=アラブ様式のデザインが採り入れられている。
 一方、城館を思わせる北面入口のように、後世の改修、改築ではその時代に流行したルネサンス様式やバロック様式も採用されている。時代ごとの流行の様式を採り入れながら改修、改築が行われていることは、パレルモが時代に遅れず繁栄を続けてきたことをうかがわせる。
 
 参観2€を払い、西面入口から堂内に入ると、聖書をモチーフにした金モザイク画のきらめきが目に飛び込んでくる(写真)。丸天井はもちろん、アーチの縁取りもビザンチン様式を基調にしたモザイクで装飾されている。
 平面は3廊の長方形バシリカ式で、中央身廊奥のアプスは大きめの半円、左右側廊奥のアプスは小さめの半円の三つ葉型である。主祭壇には聖母被昇天が描かれている。主祭壇の側壁はバロック様式の彫刻で飾られ、丸天井クーポラcupolaにはフレスコ画が描かれている。これらは後世の補修であろう。

 身廊のクーポラには、左手に開いた聖書をもち右手で幸福を示す、全知全能のイエス・キリストが金モザイクを多用して描かれている。
 その隣のアーチ天井には金モザイクで、聖母とキリスト誕生の場面(写真左)や聖母昇天の場面(写真右)が描かれている。聖母マリアが多く描かれているのは、聖母マリアに捧げる教会だからであろう。
 天井画やアーチの縁取りなどに大勢の聖人、天使が描かれているが、解説パンフレットがないので誰か?、どんなテーマか?の理解はここまでである。礼拝し、マルトラーナ教会を出る。

 マルトラーナ教会を出ると、真っ正面にサン・カタルド教会Chiesa San Cataldoが建っているが、修復工事のシートで覆われていて、赤い3つの丸屋根しか見えない(写真、ベッリーニ広場からの眺め)。参観も受け付けていなかった。
 提督の聖母マリア教会が建てられて間もなく、グリエルモ1世(1120-1166)の宰相が自分の館の礼拝堂を建て始めたらしい。ところが完成間近に暗殺され、1154年、未完のまま工事は完了する(写真、web転載)。
 向かって右側=西面に入口、マルトラーナ教会側の東面にアプスを配置した東西軸で、中央身廊と側廊の3廊式である・・実際の礼拝は北面右のアーチ型入口を使うらしい・・。内外壁の粗い石積みのままの箱のような直方体は、暗殺により工事が中断したことを伝えている。

 中央身廊のアプスは大きめ半円、左右側廊のアプスは小さいアプスで、中央身廊の上に3つの赤い屋根のクーポラをのせている(写真、web転載)。
 床や壁上部アーチ窓の格子などはイスラム的=アラブ様式の幾何学紋様だが、壁もアーチもクーポラも石積み+煉瓦積みのままである。おそらく壁、天井はビザンチン様式の金モザイクで仕上げ、典型的なアラブ・ノルマン様式に仕上げるつもりだったのではないだろうか。
 その後、次の宰相の所有になり、モンレアーレ大聖堂で回廊を見学したベネディクト派修道院の介護施設を経て、1787年には新古典様式で改修された郵便局として利用され、1885年に建設時のアラブ・ノルマン様式に復元されたそうだ。

 サン・カタルド教会の名について資料は触れていないが、シチリアノルマン人の守護聖人聖カタルドに由来するかも知れない。カタルドは、アイルランド出身で、7世紀、エルサレムから帰る途中、船が難破してイタリアに上陸、大司教となり数々の奇跡を起こし、ターラントで没したのちに聖人に列せられたそうだ。シチリアノルマン人の守護聖人ということであれば教会の名前にしたのも真実みがある。
 (2021.4)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浅田次郎著「プリズンホテル」

2021年04月08日 | 斜読

book528 プリズンホテル 浅田次郎 徳間書店 1993    
 webのおすすめの本に「プリズンホテル」が推薦されていた。浅田次郎氏(1951-)の本は読んだことはなかったが、文学書受賞、映画化、テレビドラマ化で名前は何度も見ている。
 タイトルから監獄が舞台か?と想像しながら頁を開いたら、奥湯元プリズンホテルの平面図が現れた。3階建てで、1階に極楽の湯と半混浴の露天風呂、大宴会場、カラオケバーなど、2階に特別室紅葉と菊、萩などの客室、3階に特別室富士見と杉、楓、檜などの客室が並んでいる。どこにでもあるホテルのように見える。
 ところが注書きに、「・・不慮のガサイレ、カチコミの際には・・」、「客室のドアは鉄板、窓には防弾ガラス・・不審人物、代紋ちがい・・」と書かれ、ヤクザの登場を予感させる。

 次の頁には、1仲蔵親分は偏屈な小説家に向かって言った-「おめえでさえ世間様から先生なんて呼ばれるんだぜ。この俺がホテルのひとつやふたつブッ建てたって、何のふしぎもあるめえ」と頁いっぱいに大書きされている。・・浅田氏は最初から読み手の度肝を抜こうとしているようだ・・。
 以下、2偏屈な小説家はテレ・メッセージを入れた-「これから旅に出る。一緒に行きたかったら上野駅の翼の像の前に来い。十時から十分だけ待つ」
 3番頭は湯上がりの客に向かって言った-「おいてめえら、こちらが今度、うちのオヤジさんの肝煎りでホテルを取りしきる支配人さんだ。あいさつしとけよ」
 4若林孝明氏は夫人に向かって言った-「どうも妙だ。おい志保、そのホテルは本当に大丈夫なのだろうか。変わったことがなければいいが」
 5番頭は拳を突いて言った-「当ホテルにゲソつけられましたお客人は身内も同然。誠心誠意、命がけで尽くさせていただきやす」
 6荒れくれただみ声が全館に流れた-「業務連絡!ただいま親分が到着されました。全従業員、業界関係者、ならびに任侠団体客はただちにロビーに集合してください」
 7目のすわった家族連れが真夜中の玄関に立った-「静かな部屋・・・・あいてますか。酒と、食事も・・・・」
 8湯煙の中で、謎の旅人は重たい口を開いた-「あいにく、代紋ちがいのにいさん方に問われて名乗れる身分じゃござんせん。わけあって旅かけておりやすんで」
 9偏屈な小説家は露天風呂の竹囲いをおそるおそる指さした-「誰かが覗いている・・・・おじさん、やっぱり見てるよ、ほら」
 10番頭が支配人に言いきかせるように呟いた-「上の者が白いと言やあ、黒いカラスも白いのがあっしらの渡世です。支配人さんをないがしろにすりゃあ、指の一本や二本とぶのはァ当たりめえのこって」
 11暴走族は父親に向かって言った-「おめーらマジかよ。この山ン中に落ち着くだとー。信じらんねーよなー、これじゃネンショーにでも行ってた方が、まだましだぜ」
 12謎の旅人は自らを嘲るように言った-「シャバに出てきてみたら、代紋がなくなちまってましてね。何のために懲役かけたんだかわかりゃしません。笑い話ですわ」
 13仲居は銀の十字架を慄わせた-「コンナ嵐ノ晩ニハキマッテ出ルノヨ。首吊ッテ死ンダ家族ノ幽霊。サッキモ三階ノ廊下ヲ、歩イテ行ッタ」
 14シートの下から姿を現したバイクに、暴走族は目をみはった-「よく見ろ。カワサキって書いてあるだろう。1966年製カワサキW1。OHVバーチカルツインエンジンを搭載した伝説の名車だ」
 15板長はそう言ってみごとな会席膳を勧めた-「ねえ旦那さん、成仏するなんてことは言わずに、ずっとこの部屋にいらして下さいよ」
 16旅人はリボルバーの銃口を刺客の喉元に押し込んだ-「おお、殺ったろうじゃねえか。ヘタ売っての懲役じゃ、てめえも返り討ちに合った方がましだろう。死ね」
 17偏屈な小説家はふいに恐ろしいことを言った-「もしや七代前に、誰かが坊主でも殺しゃしなかったか」、と物語は展開する。
 
 筋書きや幽霊の登場に破茶滅茶さを感じないでもないが・・破茶滅茶はワープロで漢字変換ができないから死語になったかも知れない・・、登場人物のキャラクターや、背負っている苦渋は身近に見聞きすることが少なくなく、いつの間にか共鳴し、次の展開が気になり、読み通した。・・浅田氏の術にはまってしまったようだ・・。
 多くの人が共感したらしく好評で続編が出版され、最初の「プリズンホテル」はのちに「プリズンホテル夏」と改題され、以下秋、冬、春が出版され、文庫本も出版された。人気のほどがうかがえる。

 上記した節ごとのタイトルでも物語の流れが想像できようが、さわりを抜き書きする。
 四代続いたあじさい旅館があった。初夏のあじさいと鮎料理が名物で賑わった。先々代が現在の板長である梶平太郎を引き取り、育てる。先代が借金をして現在のホテルに建て替えたが、悪い金貸しに狙われ、ついに富士見の間で一家心中してしまう。

 江戸時代から続く博徒の関東桜会五人衆の筆頭、木戸組長の木戸仲蔵は、総会屋の手腕も高く、新洋商事などの総会を仕切っていた。
 仲蔵はあじさい旅館を助けようとしたが間に合わず、ぞの無念を晴らすために金貸しを追い出し、一般のホテル、旅館には泊まれない極道者を相手にした任侠団体専用の奥湯元あじさいホテル、通称プリズンホテルとして再建する。
 この本では、関東桜会大曽根一家30-40人と、懲役を終えた旅人矢野政男が泊まっている。
 
 木戸仲蔵の2つ上の兄の子=甥が木戸孝之助で、この本は孝之介の一人称で話が始まるから主人公かと思ったが、孝之介が三人称で描かれたり、ほかの登場人物が一人称になったり、自在に主役が変わる。・・浅田氏の読み手を翻弄する戦術であろう。
 孝之介が小さいころ、母は夫と子を捨て、バイクの後ろに乗って家を出る。そのことが精神的なダメージになり、後添いの母富江、月20万円で囲った田村清子にハラスメント、目を背けたくなるような暴力をふるっている。・・暴力の表現は止めた方がいい・・。
 孝之介は捨てた母への思いを日記に付けようと決心し、一日も欠かさず日記を書いた。その日記力のお陰でもの書きになり、極道小説『仁義の黄昏』が大ヒットして、映画化されることになる。
 孝之介は仲蔵叔父に誘われ、小説を書くため清子を秘書として連れ、あじさいホテル2階特別室紅葉に泊まる。
 終盤、孝之介はあじさいホテル女将が母と確信し、取り乱して仲蔵に殴りかかる。・・どんな決着になるか・・。

 新洋商事財務部長を定年退職した若林孝明が志保夫人とともに、フルムーンであじさいホテルに着く。志保は万事が杓子定規の夫に嫌気をさしていて、離婚を宣言する覚悟をしていた。夫への決別の意思は硬い。・・熟年離婚はよくありそうな話である・・。

 工卒の小田島仙次は手先が器用+まじめで、墨東ビルサービスを興し高層ビルの保守を請け負っていたが、新洋商事の仕事が停止になり、連帯保証人になった会社の倒産で債務が追い打ちをかけ、ついに妻八重子と乳呑み児、腎炎で透析の必要な娘、まだ小さい息子を道連れに一家心中をしようとする。死に場所を探していて、あじさいホテルを見つける。
 黒田副支配人=木戸組若頭はその気配に気づき、3階富士見の間へ案内する。
 ・・取引停止、連帯保証人などで一家心中といった話もありそうである・・。

 赤坂クラウンホテルで誠実に働いてきた花沢一馬は、酔客の寝タバコのボヤだったが几帳面に職務を果たそうと客全員を避難させ消防を呼んだため大事になり、10年間、地方ホテルを転々とさせられた。突然の辞令で、あじさいホテルの支配人になる。
 住まいは一家心中した元経営者の家で、妻は広い家、景色の良さに喜ぶ。
 地方を転々していてぐれてしまった息子繁は父に反抗し悪態をつき、暴走族でいきがる。・・これもありそうな話である・・。

 ワケアリの人々があじさいホテルに集まってきた。浅田氏がどんな結末に持って行くかは読んでのお楽しみに。
 本を通して社会の不正を断罪するわけではない。物語に高邁な思想を託しているわけでもない。文中に歴史や地誌や文化や芸術などの知見を織り込んでもいない。にもかかわらず、登場人物の抱える人生の負い目、悲喜劇は身近にありそうで親近感を覚えてしまい、それが摩訶不思議と解消されていく結末に安堵してしまった。
 浅田氏の現代版浪花節の筆裁きは明快である。続編「プリズンホテル秋」も読み始めた。  (2021.4)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020.1シチリアの旅10 プレトリア広場 サンタ・カテリーナ教会

2021年04月05日 | 旅行

世界の旅・イタリアを行く>  2020.1 シチリアの旅 10 プレトリア広場・プレトリア宮殿・プレトリア噴水→ベッリーニ広場/サンタ・カテリーナ教会

 シチリアの旅3日目、12:00ごろバスでホテルに戻る。午後は夕食まで自由行動である。多くのツアーコンダクターは自由行動のあいだの過ごし方の相談に乗ってくれ、案内してくれることも少なくない。コンダクターのHさんがおすすめの食事処を案内するというので付いていった。
 ホテルから一本北のプリンチペ・ディ・ベルモン通りVia Principe di Belmonteを西に歩く。このあたりにもカフェ、レストラン、オープンカフェが並び、食事+談笑が始まっていた。ここはスイーツがおすすめとか、ここはリーズナブルとか話しながらリベルタ通りVia della Libertaを渡る。

 12:30ごろ、南に少し歩いたジェネラーレ・マリオッコ通りVia generale Maglioccoのcaffeteria Tondoのピザがおすすめというのでここに入った(写真)。
 明るい広々とした雰囲気の店である。メニューには素材が列記してあったが、日本ではパスタもピザもめったに食べないからイメージが浮かばない。ピスタチオピザ 13€と茄子のパスタ8€、ビール2.5€を頼んだ。
 ビールの左が私の頼んだbirra moretti、同行者は右のacqua pazzaを飲んだ(写真)。morettiはビールらしい苦みもあり、ピスタチオピザにピッタリのビールだった。
 13:45ごろ食事を終える。
 200mほど南に歩き、マッシモ劇場Teatro Massimoの14:30~15:00の劇場内ガイドコースツアーに参加した(前述、シチリアの旅4 マッシモ劇場)。

 15:00過ぎ、マッシモ劇場からマクエダ通りVia Maquedaを南に550mほど歩くと、クアットロ・カンティQuattoro Canti(シチリアの旅8参照)に出る。
 クアットロ・カンティの東、1 階の冬の象徴である老女像の建物の奥が、マクエダ通りに面したプレトリア広場 Piazza Pretoria である(写真)。
 写真右手の建物が、パレルモの行政をになったプレトリア宮殿Palazzo Pretoriaで、プレトリア広場とともにパレルモの中心をなしていた。
 プレトリア宮殿はシチリアがアラゴン王国支配下だった1463年に着工、1478年に完成する。神聖ローマ皇帝カール5世=スペイン王・シチリア王カルロス1世(1500-1558)時代の1553年に増築され、スペイン語フェリペ3世=イタリア語フィリッポ3世(1578-1621)の1615~1617年に改築され、1861年に成立したイタリア王国時代の1873~1875年に改修された(写真、web転載)。増築、改築、改修のたびにその時代の様式が取り入れられたようで、ルネサンス様式を残しながら、新古典様式の外観を見せている。
 屋上中央の像は、パレルモの守護聖女聖ロザリオらしい。

 プレトリア広場はマクエダ通りから7段高くなっていて、その中央に直径115m、高さ12mの見上げるようなプレトリア噴水 Fontana Pretoriaが設置されている(写真)。
 噴水には裸体の人物像30体以上を始め、古代ギリシャ神や仮想を含めた動物の頭が彫刻されていて、プレトリア宮殿+広場+噴水は観光名所になっている。
 噴水自体は1555年にフィレンツェの貴族?の庭園を飾るためルネサンス様式で作られたが、負債のため?売りに出され、1573年にパレルモ市が買い取って、644のパーツに分解して運搬し、1574年に到着した。当初彫像は48体あったらしいがいくつかは破損し、到着後の修復を終え、1581年・・フィリッポ2世(1527-1598)時代・・に完成したそうだ。

 フィレンツェを訪ねたとき、シニョリーア広場のミケランジェロ(1475-1564)作ダビデ像(写真左、1504複製)やバンディネッリ(1488-1560)作ヘラクレスとカクス像(写真右、1533)などの教科書、美術書にも登場するダイナミックな彫刻を見た。
 プレトリア噴水は同時代のルネサンス様式で等身大の裸体が30体以上彫刻されているが、力強い動きよりも豊満な肉体が強調されているようだ。最初の発注者だった貴族?の好みかも知れない。

 プレトリア広場南東隅の細道を抜け、ベッリーニ広場Piazza Bellini に出る。 
 広場の北側に建っているのがサンタ・カテリーナ・ダレッサンドリア教会Chiesa di Santa Caterina d'Alessandriaである(写真)。ルネサンス様式の正面ファサードはベッリーニ広場に面して南面している。教会堂は身廊を東西軸に配置し、西を正面、東奥を祭壇とするのが通例だが、サンタ・カテリーナ・ダレッサンドリア教会は南北軸の長方形バシリカ式平面で、南正面、東祭壇の配置を取っている。
 1566年着工、1596年完成だから、1463年着工、1553年増築のプレトリア宮殿+プレトリア広場の配置が優先したためであろう。ベッリーニ広場からは階段を上らないと参拝できない地形の制約も一因かも知れない。

 16:00ごろ、教会堂に入場3€して、壁面を埋め尽くす浮き彫り彫刻、祭壇のきらびやかな装飾細工、天井一面のフレスコ画に息をのむ(写真)。外観の簡潔なルネサンス様式が一転して、堂内は余すところなくバロック様式で装飾されているのである。
 カルロス1世(1516-1556)に始まり、フィリッポ2世(1527-1598)、フィリッポ3世(1578-1621)に続くころ、スペインは黄金世紀と呼ばれるほど栄えた。その繁栄がパレルモに影響したようだ。あまりにも装飾過剰だと息をのまされるが、焦点が定まらない。祭壇の聖カテリーナに十字を切り、ベッリーニ広場に戻る。 (2021.4)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする