2019.3 人間国宝・野村万作演じる「狂言の世界」を観る <日本の旅・埼玉を歩く一覧>
さいたま市北区の複合施設プラザノースでは毎年狂言会が企画される。今年は3月に野村万作の「狂言の世界」が演じられた。
演目は「舟ふな」、「二人大名」で、企画が発表されてすぐに予約した。当日はほぼ満席だった。初心者には本格的な舞台での伝統的な古典芸能は足が遠のきやすいから、近場で気軽に観劇できる能や狂言はもっと企画されていい。
この「狂言の世界」では初心者向けに語句解説の付いたパンフレットが配られ、開演に先立ち高野和憲による解説もある。
・・能は悲劇を演じ、狂言は喜劇を演じる・・650年の歴史がある・・舞台左手の橋掛かりには舞台側に大きい松、中ほどに中ぐらいの松、袖側に小さい松が置かれているがこれは短い橋を遠近法で長いとみなす約束事などや、今日の演目の見どころが分かりやすく語られた。
補足すれば、能は面をかぶり、舞踊的要素が強く、抽象的・象徴的表現が目立ち、悲劇的な
ものが多い。狂言は面を使用せず、物まね・道化的な要素を発展させた写実的表現が目立ち、風刺や失敗談など滑稽さのあるものが演じられるそうだ。
最初の演目は、小舞「海女」で、舞台奥の岡聡史、高野和憲、石田淡朗の地謡で、石田幸雄が舞を披露した。
続いて「舟ふな」が主人・野村万作、太郎冠者・飯田豪で演じられた。
野村万作は1931年生まれ、87才の狂言第一人者で、人間国宝である。舞台の動きも声も年齢を感じさせない。
主人が太郎冠者を連れて西宮見物に行く。主人がここは何処だと聞くと、太郎冠者が神崎の渡しと応える。太郎冠者が船頭に「フナやーい」と声をかける。主人がフナではない、フネと呼べと注意する。
太郎冠者は古歌を例にフナが正しいと言い張る。主人は別の古歌を例にフネが正しいと訂正する。太郎冠者は別の古歌を例にフナだと言う。主人はほかの歌が思い出せず同じ古歌でフネと主張する。太郎冠者はさらに別の古歌を持ち出しフナと言い張る。
他愛のない掛け合いで主人が太郎冠者にやり込められるといった言葉遊びが見どころになろうが、掛け合いが間延びするほど独特だし、「こんにったは」が「今日は」、「念のう」が「意外に」、など言い回しも古典的で、まだまだ不勉強を感じる。
次の演目は「二人大名」で、二人の大名を中村修一、内藤連、通りがかりの者を月崎晴夫が演じた。
二人の大名が野遊びに出かけようとするが太刀持ちの供が来ない。そこに男が通りがかったので嫌がるその男に無理矢理太刀を持たせる。太刀を怖がる男に大名がああだこうだと難癖をつける。頭にきた男は刀を抜く。大名が取り押さえようとすると男が刀を振りまわす。大名が刀を収めてくれと頼むと、男は小刀をよこせという。次に羽織を脱げという。男の言いなりになったにもかかわらず、男は刀や衣類を持ち橋掛かりから逃げ去る。
大名の横暴に一矢を報くいるといった風刺が見どころになろう。「しゅうめい」が「主命=主人の命令」、「ごじんたい」が「御仁體=立派な身分」など、聞いていても分からない言葉、分かりにくい言葉が多く、しばしばパンフレットの語句解説を眺めた。
不勉強もあるが、現代語に言い換えていけば狂言の世界が広がると思うが、いかがだろうか。
歌舞伎のように、演目が終わったあと役者が勢揃いするともっと役者に親しみをおぼえると思うが、いかがだろうか。
古典的、伝統的な狂言の世界は尊重するが、一方で、創作的な現代的な狂言の登場も期待したい。