連休中はまったく遠出せず、ひたすらドイツ北東部・世界遺産の資料づくりに没頭し、イタリア紀行は棚上げのままになった。
イタリア紀行2004-27 イタリア4日目 サン・ジョバンニ洗礼堂 サンタ・マリア・デル・フィオーレ 鐘楼 クーポラ
2004年3月12日11時半、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレの前にいる。花の聖母大聖堂と呼ばれるフィレンツェのドゥオーモである。
ピサは海外交易で裕福になり、1063年にドゥオーモ着手、1118年に完成し、1272年に手を加えている。織物業・金融業で蓄財したシエナは、1220年にドゥオーモ着手、1200年代に完成する。
フィレンツェは1269年にシエナに大勝して気運が高まり、羊毛組合の肝いりで1296年にドゥオーモに着手する。おそらくピサ、シエナに勝るドゥオーモが目指されたに違いない。
設計は彫刻家のカンピオで、デザインは模型で決まったらしい。ところが工事半ばにカンピオは没してしまう。
跡を継いだのが画家・建築家のジョットで、ジョットは鐘楼の建設に着手する。ところがジョットも工事半ばで没し、弟子たちの手で1387年、高さ84mの鐘楼が完成する。現代建築なら28階建てに相当する高さだから、フィレンツェ人は大いに喜んだのではないか。
鐘楼の完成が近づいたころ、ドゥオーモの建設が再開された。担当はタレンティで、カンピオの当初案より大きなドゥオーモに変更された。タレンティ没後の1380年に身廊が完成するが、クーポラとファサードが未完だった。
とりわけクーポラは巨大なため足場が組めず、難工事が予想された。そこで建設が公募され、ブルネレスキが選ばれた。ブルネレスキは画期的な二重ドーム工法を考案し、難工事を乗り切って、1434年にクーポラを完成させ、1436年に献堂式が行われた。
ファサードの完成は1887年というから、実に気の長い話である。
大勢の建築家が総力を挙げたこともあって、フィレンツェのドゥオーモは壮大である。しかも外観は、白と緑の大理石を巧みに組み合わせた幾何学模様でデザインしてあり、軽やかで品のいい表情をつくっているのもいい。
ピサ、シエナに着工は後れを取ったが、壮大さ、壮麗さでははるかに勝ったといえよう。